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北京大学 未明湖畔(ネット写真)

文化大革命に翻弄された一家の物語

文・玉清心

 【大紀元日本1月26日】北京大学の構内に未明湖という静かな湖がある。かつて、その畔に有名な教授や専門家たちの住まいがあった。趙錫麟(チャウ・シーリン)教授もその1人で、ドイツ人の妻と2人の子供と一緒に静かに暮らしていた。

 趙錫麟教授は著名な冶金学(やきんがく)の専門家だった。彼は若い頃ドイツのベルリン工業大学に留学し、ドイツ人のケシー・リンク(Kethy Link)さんと結婚し、一男一女をもうけた。ドイツにいた時からすでに冶金学の権威的存在だった趙氏にはこんなエピソードがある。ドイツ軍が戦争に負け、アメリカ軍から、軍事研究の資料を提供するよう命じられた。その会議に出席した双方の代表団の中に、中国人研究者が1人ずついたという。アメリカ代表団にいたのは後に「中国宇宙開発の父」と称された銭学森(チエン・シュエセン)氏で、ドイツ代表団にいたのは趙錫麟氏だった。

 そんな趙氏は1946年、家族4人で日中戦争が終わったばかりの傷だらけの祖国に戻った。趙氏は天津北洋大学、後に北京鋼鉄学院で教授を務め、夫人のリンクさんは清華大学、後に北京大学でドイツ語を教えた。リンクさんは戦後中国の混沌とした状況にも動じることなく、趙氏の名字と自分の名前の当て字で「趙林克娣」という中国名を作り、故郷から遠く離れた中国の地で教師と良妻賢母を見事につとめたという。

 1957年、一家は北京大学構内の未明湖畔に移り住んだ。清らかな湖に蓮の花、アーチを描く石橋にあずまや。この絵に描いたような景色の中での幸せな生活は、長くは続かなかった。この年に始まった反右派闘争のなか、趙氏は、かつて私的な場で「ソビエトの冶金学者はドイツの冶金学者にかなわない」と発言したことから、同じ共産党国家のソビエトを侮辱したとして、「大右派」という致命的なレッテルを貼られてしまったのだ。さらに当時の教育制度に助言したことから、「社会主義教育制度を誹謗する」という罪まで被らせた。趙氏の教授の称号は剥奪され、給料も1/3まで減らされ、大学の図書館でトイレ掃除の仕事をさせられた。

 トイレ掃除はそのまま21年間続いた。

 21年後のある日、「あなたを右派と決めたのは間違いだった」と一言、言われた。卓越した才能の持ち主だった趙氏。その才能を生かす前に、「右派」という名のとてつもなく巨大な棍棒で殴られ倒された。21年後に棒を振るった人間が「人違いだった」と、何の謝罪もなく、まるで何事もなかったかのように趙氏に言い放ったのだ。それまで21年間の逆境を趙氏は一笑に付していたが、この時ばかりはこらえきれずに涙を流した。

 その間、1962年に1度だけ、夫人と2人の子供にドイツに帰郷する許可が下りた。当然趙氏に許可は下りなかった。「もうここから逃げなさい。子供たちと向こうで生活しなさい」と趙氏は夫人に言った。しかし、ほどなくして夫人は戻った。自分が戻らないと、趙氏は刑務所に入れられ、命さえも落としかねないとわかっていたからだ。

 この趙林克娣夫人は、自分たちの不遇にもかかわらず、あの教育を軽蔑した時代の中、北京大学で精一杯教師の勤めを果たした。また、彼女の人格も周りからの信頼と尊敬を集めた。かつて彼女からドイツ語を教わった有名な学者は、彼女のことをこのように追憶する。「1961年の冬、私は重病の父の看病に田舎に帰ろうとし、彼女に挨拶に伺った時のことだ。東北の田舎はきっと寒いからと言って、貧乏で防寒服さえ買えなかった私にご主人の防寒服をくれた。私は断ろうとしたが、『服があるのに、凍える人がいるのはおかしい』と言って、なんとしても私に服を渡そうとした」。一方、彼女はドイツ語以外にも、英語、ロシア語、フランス語、ラテン語などにも精通しており、人から頼まれると、報酬など関係なく手伝っていたという。

 そんな彼女も文革の中、紅衛兵らの襲撃を受け、一発の実弾が彼女の眉骨をかすり、危うく命を落とすところだった。

 文化大革命が過ぎ、2人の身に起こった不幸は時の流れとともに少しずつ薄れていったが、2人の子供の運命は彼らの心に新たな傷を作った。

 2人の子供が高校を卒業した時、父親が「右派」で母親が外国人という身分では、大学に進学する資格さえなかった。「新中国」の教育再建事業のために帰国し身を投じてきた2人の教授にとっては、自分たちの子供が教育を受ける資格さえも奪われることは、この上なく残酷なことだった。進学の道をあきらめた長男はプロのアイスホッケー選手を目指すも、親の政治問題であきらめざるをえなかった。結局、長男はトラックの運転手となり、長女は工場の旋盤工となった。

 結婚の年齢になり、親の政治問題がさらに大きな障害となっていることがわかった。「白雪姫」と呼ばれるほどに容姿端麗だった長女は、「大右派」という大きな陰の中で輝きを失った。長男はすらりとした長身の美男子なのに、やはり親の政治問題で近づく女性はいなかった。

 長男はその後、11歳年上で、3人の子供を持つ女性と結婚した。2人の間に子供を1人もうけたが、その子が2歳の時に、妻がうつ病を患った。毎晩のように外を彷徨い、彼はその後を追い、背負って家に帰った。小さい時に習ったバイオリンを妻に引いて聞かせ、辛い歳月のなか、ベートーベンやモーツァルトのメロディが妻の心を癒し、ほろ苦くも平穏な生活を送った。

 文化大革命の後、長女が先にドイツに戻った。ドイツに戻って真っ先に2つのことをした。1つは髪の毛をドイツ人のようにブロンドに染めたこと。もう1つはドイツ語の名前を付けたこと。長男は「天安門事件」後にドイツに戻った。あの事件が昔の悪夢を蘇らせたためだという。二人の子供たちは皆ドイツで大学に入り、趙氏夫婦の夢は一世代遅れでやっと実った。

 夫人の趙林克娣氏は夫が亡くなってからも、北京の未明湖畔の家で余生を送った。亡くなる前の数年間は認知症を患った。05年4月、天寿を全うしようとする時に、長男がこの辛い思い出の詰まった家に戻ってきた。「お母さん、あなたの息子ですよ」と叫ぶが、「違う」と夫人は首を横に振って言った。長男はこの「違う」という言葉こそが母の魂の叫びなのだとわかった。時代に翻弄された自分の人生、息子の人生は、本来あるべき姿とは「違う」ことを、夫人の魂は知っていたのだ。

(翻訳編集・心明)


 (10/01/26 05:00)  





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