THE EPOCH TIMES

大地震(おほなゐ)の国 「相手を思う」ということ

2011年03月26日 06時31分
 【大紀元日本3月26日】

 思う「気持ち」があってこそ

 天皇・皇后両陛下は15点xun_ネ来、お住まいの皇居御所で一日のうち数時間、自主的に電気を止める「自主停電」を続けられているという。

 「国民と困難を分かち合いたい」という陛下のご意向だそうで、照明の使用も控えてろうそくや懐中電灯を使い、「寒いのは(服を)着れば大丈夫」とおっしゃっているそうだ。

 今、日本中で言われている「節電」は、もちろん電力消費を節約するための実際的な努力である。それは間違っていないし、必要なことであろう。しかし、大災害という極めて特殊なケースである今回は、節電の実効性を求める前に、私たちが大切にすべき何かがあるのではないか。

 陛下が「自主停電」という形でお示しになったのは、何よりも国民と困難を分かち合いたいという、国民を思われる陛下の「お気持ち」なのである。

 原発の「安全神話」は崩壊した。電力会社および国は、原子力発電の「安全性」と、すでに日本の発電の主要部分を原子力が担っているという「事実」を、テレビの画面等を通じて今まで盛んに宣伝してきた。しかし今後、その責任を厳しく問われることになるだろう。

 その批判は当然のこととしても、電力の最大消費地である東京にいる私は、これほど重大なリスクを原発のある他県の住民に押し付けたまま無自覚でいたことに対して、今更ながら申し訳なく思っているのである。

 それゆえに、電力会社の企業責任とは全く別個に、福島原発の半径20キロ圏内からの避難を余儀なくされている方々へ、そのご苦労のせめて10分の1でも自分が想像して「気持ち」を寄せることは、東京都民あるいは首都圏住民として当然の姿勢であろうと思うのだ。

 「気持ち」を寄せるとは、相手の立場に立ち、相手を思うことから始まる。

 そのことを踏まえない一方的な善意は、かえって相手を困惑させることにもなりかねない。

 日本人に「覚悟」はありや 

 ともかく今は非常時である。節電は、嫌々ながらではなく、進んで受け入れよう。

 とは言うものの、「計画停電」の趣旨には賛同するし協力する気もあるのだが、やると言ってやらなかったりと、実施の段階で翻弄されて多くの人が困っているのも事実である。

 家庭生活だけならば、どこで数時間停電しても我慢と工夫でなんとかしのげるだろう。

 しかし、肉屋さん魚屋さんの小売業から機械を稼動させる製造業、果てはパソコンを使わずには成り立たない現代のほとんどのオフィスまで、今日の経済活動は電気がなくてはどうにもならないのだ。「やるならやるで時間をきっちり決めて、確実に停電してくれ」と、どこかに文句を言いたくなるのも無理はない。

 ただ、それをコントロールすることは非常に難しいらしい。電気は、浪費することはいくらでもできるが、溜めておくことができないからだ。

 その電気を、火力や水力よりも安定供給できると謳ってきたのが原子力発電なのだが、それがかくも脆弱でありリスクも大きいということを、まさしく私たちに突きつけたのが今回の原発事故であった。つまり、端的に言えば、今のまま私たちが電気を大量消費することはもうできないのだ。

 では、どうするか。話を元に戻すようだが、私たち日本人が本当に腹をくくり、覚悟を決めて「大節電」をするしかないのである。

 具体的な提案をする。例えば今年の夏を、職場でも家庭でもクーラーを一切使わず、扇風機と団扇で乗り切れるか。

 これは節電をクーラー不使用に特化して言うのではなく、そこまでできる覚悟が私たちにあるかという意味である。小中学校の教室にまでクーラーがあるのは過保護に思えてならないが、ともかく、病弱者や高齢者は別として、今や「なくてはならないもの」になった夏のクーラーをきっぱり捨てる覚悟が日本人にありやなしやと問うているのだ。

 それが嫌ならば、福島第一原発がもはや廃炉は免れない以上、どこかにもう一つ新しい原発を作る必要もでてこよう。

 しかし今、それが容認される空気だとはとても思えない。電気が欲しくて原発を作るなら、東京都内に作り、そのリスクも都民が第一に負えと言われてしまうだろう。

 阪神淡路大震災のときもそうだった。復興への道は、これからが長いのだ。

 救援物資を避難所へ送って、送った側が安心して喜んでいるだけではすまない現実が、これからの被災者にはある。

 だからこそ、被災者がこれからやらねばならない生活再建と自立という膨大な努力と同等の重荷を、被災地ではない地域の住民も、東京都民も、ともに背負う覚悟をしなければならないのである。

 「相手を思う」ということは、安易なことではない。 

(牧)


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