激変中の中国政治情勢と日本・香港への影響(2)

2015年04月07日 15時24分
【大紀元日本4月7日】編集者注:1989年の学生民主化運動「六四天安門事件」から今日まで、中国では一連の重大事件が発生し、未曽有の変化が起きた。しかも、それは引き続き、中国、ひいては全世界に長期かつ強い影響をもたらしている。こうした中、中国政府は巨大市場を餌に外交ルートを通じて、各国政府、報道機関、企業及び投資家に圧力を講じ、国際報道機関に対し、「極めて敏感な事件」の真相を伝えないよう報道自粛を迫ってきた。それにより、国際社会が中国情勢を適正に判断できず、関わり方を間違ってしまい、歴史的な機縁を失ってしまう恐れが生じている。

 今年2月18日、大紀元香港支社の郭君支社長は東京新宿の京王プラザホテルで講演会を開いた。中国情勢のキーポイントとなる問題を解説、激変を遂げる中国が日本及び香港にもたらす影響を分析した。本サイトはその講演の全文の和訳を連載する。

 以下は第二部「激変中の中国の政局」

 広範でみると、中日関係の悪化は、中米関係悪化の表れとも言え、経済発展により影響力が拡大した中国の国家利益が国際社会の秩序と衝突しはじめたことに関連しています。「衝突、妥協、協力」の繰り返しは、未来の中日米三カ国の「現代版三国演義」のスタンスになるでしょう。そして、世界文明の中心は太平洋周辺地区に移行するという未来の「太平洋世紀」の行方を決めてしまいます。今回は主に、中国内部の問題を解説します。

 (一)中国ここ2年の政治闘争

 2012年、胡錦濤氏が党と国家のトップに就任して10年目となるこの年の11月、中国共産党全国代表大会(第18回党大会)で最高指導部の権力交代が行われました。この年の2月にある事件が起きました。重慶市の前公安局トップ王立軍が四川省成都市の米国総領事館に駆け込み、政治庇護を要請しました。その直後に、(王の身柄を奪還しようとする薄の命令で)数百人の重慶市武装警官隊が同総領事館を包囲、そしてまもなく、(薄の暴走を阻止するためか)四川省公安庁傘下の警察特殊部隊も現場に到着。警官隊と特殊部隊が対峙する異例な緊迫事態が起きました。

 王がこれまでの10年間人権迫害に積極的に加担したことから、米国側はその政治庇護の要請を却下しました。最後、中国国家安全部の邱進・次官が米総領事館から王を連れ出し、首都北京に連行しました。

 この亡命未遂事件はのちに、中国最高指導部の政治闘争の引き金となり、2012年から続いてきた権力争いに直接に影響をもたらしました。

 真っ先にダメージを受けたのは、重慶市当時のトップ薄熙来でした。

 中国共産党の指導機関「中央政治局」の現職委員でもある薄は、90年代はじめに遼寧省大連市の市長に就任してから、中国政界で高い関心を集める人物となりました。父親の故・薄一波(はくいっぱ)氏は政権発足当時の経済分野の主要幹部の1人で副総理経験者でした。故・_deng_小平氏が1979年に三度目の政権復帰を果たしたとき、中共の長老たちの力を借りて改革開放の政策を推進できました。薄一波氏はそのうちの主要功労者の1人でした。

 薄熙来は重慶市で「唱紅打黒」運動を始めました。「唱紅」とは、革命ソングを歌い毛沢東氏や政権初期を偲ぶこと。「打黒」とは、この十数年間に成功した民間企業の経営者を、「マフィアが不法な手段で富を築いた」との理由で、厳しく取り締まること。

 これは実質上、全面的な左傾化運動です。過去20年間において、中国では貧富の差が拡大する一方で、多くの国民が経済発展の恩恵をあまり受けていない状況の中、富裕層や幹部への敵対感情が蔓延しています。そのことから、「唱紅打黒」は貧困層に歓迎され、無論、政権内部の左派の強い支持も得ました。

 王は薄の政治補佐役で、もっと正確にいうと、薄のもっとも主要な「政治の用心棒」でした。薄の政策に異議を唱える幹部や識者への制圧を実行したことから、薄の厚い信頼を勝ち取った腹心の1人となりました。

 しかし、なぜか2人は反目し、王は米総領事館に駆け込みました。

 亡命未遂で北京に連行された王は、米総領事館と最高指導部に薄の犯罪に関する極秘証拠を供与しました。そのことにより薄は後に解任され、取り調べを受ける身に転落したのです。

 中国政府は事実関係を次のように発表しました。「薄の妻である中国で非常に活躍した弁護士・谷開来は、英国人財務顧問ヘイウッド氏を殺害した。捜査を行った王は、真相を突き止め薄に報告したがもみ消しを要求され、従わなかった。そのため、薄は口封じを決断、身の危険を感じた王は米総領事館に亡命した」

 しかし、我々が入手した情報はまったく異なっています。最高指導部メンバーに対する電話盗聴を実施した薄だが、やがて発覚し、その目的を調べるため指導部は薄への調査をはじめました。

 こうした背景で、中央規律委員会が王を訊問し、強い圧力をかけました。これが、王・薄が反目する本当の理由です。

 2012年3月、薄は解任され、取り調べを受けることになりました。最終的には、王は国家反逆罪・収賄・職権乱用の罪で懲役15年、薄は収賄・横領・職権乱用の罪で無期懲役、谷は殺人罪で執行猶予付きの死刑と、3人はそれぞれ有罪判決を受けました。

 ここから、王が圧力を受けた裏の情報を明かします。

 ※臓器狩り問題

 2006年はじめ、大紀元は中国収容施設での法輪功愛好者に対する臓器狩りをはじめて報道しました。続々と集められた証拠から、中国の司法機関と軍の病院が結託し、収監者や受刑者を殺害、その臓器を移植用に密売していることが浮き彫りとなりました。調査を行ったカナダの元外務省高官デービット・マタス氏は「需要に応じて殺人」と形容しました。一部の国や国連機関がこの問題に関心を示し始め、調査が進められる中、中国政府は大きな圧力に直面しています。

 大規模な臓器狩りが最初に起きたのは、薄が執政した大連市と遼寧省でした。王本人も直接参加し、遼寧省鉄嶺市公安局トップ在任中に「数千例の臓器摘出手術に参加した」とある授賞式のスピーチで豪語しました。また、受刑者の遺体をドイツ加工業者に密売し、世界各地で開かれた人体標本展に使われていました。

 これは「反人類罪」であり、真相を隠し通せない時期がくれば、中国政府は政治、道徳、法律の責任追及を免れるため、その罪の身代り者を突き出すでしょう。王と薄はそのことがわかっており、強い不安に陥りました。

 薄に対する調査は、中央規律委員会主導のもとで行われ、その結果、芋づる式に大勢の関与が判明、そのうちの1人は、党最高指導部「中共中央政治局常務委員会」の委員、中央政法委の元トップ周永康です。周は王立軍亡命未遂事件の影響を受けた第二の人物とも言えます。前最高指導者・胡錦濤氏が執政する10年間、周は司法、検察、裁判所、公安、武装警官部隊を統括、最も絶大な権力を持つ人物の1人でした。

 (二)中国政治権力構造の特徴

 ここまで話すと、この問題をまず説明しなければなりません。

 中国は他の国同様、歴史上はピラミッド式の皇帝専制社会でした。トップは皇帝本人で、長男は通常、その後継者になります。このような血縁、出生の順位で決める権利継承は、必然的に合法性を有しました。

 現代の民主社会においては、民主的選挙制度が導入され、それもやはり必然的に合法性を持ちます。

 しかし、共産党専制国家、特に中国では、その権力の継承には問題が生じやすいのです。権力の後継者は血縁でも民主選挙でもなく、小グループ内の駆け引きと裏談合によって決定されるからです。それより、合法性の乏しい新最高指導者の危機感は皇帝・民主国家の首脳より遥かに高いのです。もう一つの問題は、あらゆる政治的野心を持つ人はみな、各種の手段でこのピラミッドの頂点の最高権力を掌握しようとします。

 こうしたことから、この種の専制体制で必然的に熾烈な権力闘争が生じます。かつて故・_deng_小平氏は江沢民氏を後継者に選びました。一方、江氏の後釜である胡錦濤氏は主導権を実質的に握ることができませんでした。江氏が腹心たちを重要ポストに配置したことで、政権の舵を取り続けたからです。これは専制体制下でよくあることで、決して珍しくはないのです。

 現在の最高指導者・習近平氏はまさに、各権力グループが妥協した末に選ばれました。

 習氏の父親、故・習仲勳(シュウチュウクン)は共産党設立早期の主要幹部の1人で、戦時中、難局に遭った毛氏を支持したことで、その信頼を得ました。しかし、政権発足後、習仲勳氏は毛氏のヒステリックな政策に追随せず、政治闘争にも加わらなかったなどのことから、1960年代、毛氏に解任されました。それをうけ、当時15歳の習近平氏は北西部の農村地域に追放され、農民として働き、10年間の「再教育」を受けたのち、北京大学に入学、卒業後軍で2年間服役した後、河北省内の県長から政治生命をスタートさせました。中央の政治小グループが権力の駆け引きと裏談合を重ねた末、2007年、浙江省共産党トップ在任中の控えめで派閥色がうすい習氏を、次期政権の最高指導者と決めました。父親の党内での良好な人脈と上々の評判も貢献したとみられます。

 しかし、一旦最高指導者になれば、習氏も必然的に党内政治闘争の焦点となります。

 すでに10年以上、政治の表舞台から退いていたが依然として指導部を常に干渉する江氏は、胡氏から習氏への政権交代が行われる2012年の第18回党大会で、前政権同様、自分の腹心らに重要ポストを継がせようとしました。しかし、習氏は「重大事項はすべて自分で決める」と強く反発、同年9月の「習氏2週間雲隠れ事件」はこのような状況下で起きました。

 我々が得た情報では、当時、習氏は「やめる」とほのめかし、江氏に対抗しました。2週間膠着の末、江氏は「もう最高指導部を指図しない」と譲歩し、事は収まりました。その後党のトップに就任した習氏はまず、内部通達で「最高指導部の元メンバーは現政権に干渉してはならない」と明文化しました。

 この過程において、習氏に対する横やりがもっとも強かったのが江派の重鎮・周永康でした。周は薄の処分に難色を示し、古巣である中央政法委への粛清にも反対しました。周と薄が親密な仲にあり、長年、他の江派メンバーとともに政権の主導権を牛耳っていたため、胡・温両氏は実質上、思う通りの政権運営ができませんでした。

 1月13日発行の香港誌「鳳凰週刊」は、周と薄が政治同盟を結成し、「大事を成し遂げよう」と習体制転覆の政変計画を進めていたと詳しく報じました。

 2人は薄の膝元・重慶市で密会した後、周は側近に対し「大事を成功させるなら、薄のような人を利用すべき。力になれる」と漏らしました。その言葉の裏には、「最高権力の奪還には薄が役に立つ」という意味が込められています。同報道によると、当時69歳の周は党内の年齢規定で引退することが決定的だったが、各方面の勢力に遊説し、留任を図ろうとしました。

 一方、周と薄の政治の裏幕はもっぱら、元最高指導者の江氏とその右腕である曽慶紅・元国家副主席です。江氏はなぜ、周と薄を支持するのか、主要原因の一つは、自ら発起し、15年間続けてきた法輪功弾圧政策を継続させるためです。

 習氏は党・国家・軍のトップに就任後、反腐敗の名のもとで「トラ(高官)もハエ(第一線幹部)も叩く」と政治の粛清を始めました。

 大まかな統計では数万人の幹部が解任され取り調べを受けています。そのうち、省級の幹部は約50人です。指導部では、薄、周のほか、軍の元ナンバー2の徐才厚(3月15日ガンで死亡))などが失脚しました。長年江派支配下にあった軍は、高級幹部30数人が解任され取り調べを受けており、300人以上の更迭人事が行われました。

 事実上、失脚した幹部の約9割は江派です。こうした現状から、いまの中国の政治の嵐はまさに、習氏と江氏の権力闘争であり、最終的には、江氏とその右腕である曽慶紅・元国家副主席の番になる可能性も十分あります。

 今年1月11日、国営新華社通信の新聞トップページ、「習近平:反腐敗は限度を設けない、聖域を設けない(反腐敗不定指標、上不封頂)」と題する報道は、習氏就任後の反腐敗発言の抜粋を掲載し、その多くは初発表でした。昨年10月下旬の党中央委員会第4回全体会議(四中全会)での発言「聖域を設けない(上不封頂)」は、「周永康は最高位の汚職幹部ではない」と示唆しているのは明らかです。

 1月13日、習氏は党員の腐敗を監督する中央規律委員会の全体会議で、再び周ら失脚高官の名前を名指しで批判、「反腐敗にはタブーとなる領域はない、党内全体に及ぶ」と強調しました。新華社報道はその発言を強調し、「今後、取締はさらに深化する」と評しました。

 公務員養成機関・中国国家行政学院の汪玉凱・教授は「一連の論調は重要な判断である」と指摘しました。

 こうした中での1月、江氏の長男・江綿恒氏が国の最高研究機関・中国社会科学院の上海分院のトップの座から退きました。「年齢による退任」と公式発表されていますが、「父親の権力低下の結果」という見方が大勢です。そして、政府系メディアが、「電信王」と呼ばれる長男が支配している中国電力通信業界の汚職、独占禁止法違反の問題を報道し続けていることも、江沢民氏への警告メッセージで反腐敗は江氏一族に迫っていると見ていいでしょう。一連のことは、両者が生死をかけて戦っているリアルな現状を現しています。

 今後の中国の政治はしばらくの間、依然として習・江両氏の政治闘争を中心に展開するでしょう。

    (続く)
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