大紀元コラム

2つの重慶事件から見る習・江攻防の先行き

2017年08月06日 00時09分

 多事の秋だった2012年。同年2月、当時重慶市副市長で公安局長だった王立軍が、亡命を求めて米国総領事館に駆け込むという事件が起きた。秋に第18回党大会を控えていただけに、事件は激震を起こした。のちに、江沢民派の薄熙来や周永康らがクーデターを計画していたことが明らかになった。当時の政治局委員を務めていた薄熙来は重慶市委書記と党内のすべての役職を解かれて失脚した。王立軍亡命未遂事件が引き起こした嵐は、今も収まっていない。

 5年後の今年も中19大を控え、最高指導者層の次期人事をめぐる熾烈な駆け引きが続いている最中、7月15日、同市トップの孫政才重慶市委書記は解任された。重慶の政界はまたもや大揺れに揺れた。解任された理由は明らかになっていないが、政界内部で何かが着々と進められているのは確かだ。

 2つの重慶事件の類似点

 一つ目は、事件の起きたタイミングだ。薄熙来が失脚した2012年も孫政才が失脚した今年も、中共指導者層が5年一度の人事刷新を図る共産党全国大会が、秋に開催される。政局にとって敏感な年でもある。

 二つ目は、市政トップの市委書記が失脚する前に、市公安局長が先行して落馬したという点だ。

 2012年には、重慶公安局長王立軍の亡命未遂をきっかけに、薄熙来が失脚することになった。王立軍はもともと薄熙来の腹心の部下で、薄熙来の「唱紅打黒」政策に従い、政府内から民間まで数百以上の冤罪事件を作り出した。法輪功学習者の臓器摘出・売買などに関与としているとされ、二人は数々の謀略を張り巡らしていたと考えられている。

 今回も、市委書記孫政才の罷免に先立ち、重慶市公安局長の何挺が6月6日に免職された。何挺は、かつて「政法王」と呼ばれた江沢民派高官・周永康の子飼いの1人。前任者の王立軍同様、在任中に法輪功迫害政策を積極的に推進したことでも知られている。

 薄熙来と王立軍のように、孫政才も何挺と密接な関係にあった。彼らはそれぞれ、12年に失脚した薄と王の後釜として重慶に赴任して以来、5年の間共に重慶市の市政に携わっていた。年齢も近く、2人とも山東省栄成出身という共通点もあった。

 三つ目は、薄熙来と孫政才がいずれも江派の次期後継者として目されていたという点だ。

 12年の王立軍事件がきっかけで、江派幹部がクーデターを計画していたことが明るみに出た。このクーデター計画の中で、法輪功弾圧政策を積極的に推進してきた薄熙来が、江沢民に評価され次期後継者として内々に指名されていたことも報じられている。江派はまず薄熙来を18大で最高指導部入りさせ、周永康の政法委書記というポストを引き継がせてから、2年後に習近平を失脚させて党総書記の座に就かせようと計画していた。

 今回の重慶事件の主役、孫政才は5年前の18大で中央政治局委員に選出され、49歳の若さで政治局入りを果たし、後継者候補の1人として数えられるようになった。そのため、孫が常に19大の最高指導部の有力な候補者として注目されていた。

 孫政才は免職後、おそらく薄熙来と同じ道をたどることになるだろう。つまり、胡錦濤と習主席はタッグを組んで、5年の間に江派の次期後継者候補を2人失脚させたことになる。

 2つの重慶事件の最大の違い

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