【車椅子の花嫁】「大分さん家」の介護日誌(2)

2007年04月08日 10時39分
 【大紀元日本4月8日】

 「方言と思い出」の治癒力

 大分さんというのは、本当の名前ではありません。大正14年(1925)の大分県生まれ。小さい頃の愛称は「す~ちゃん」です。澄みゑさんは大分弁を交えて喋ります。あるとき冗談で「大分さん」と呼んだら「はい!」と、とても元気な返事が返ってきました。それで「大分さん」と呼んだりします。時々は「す~ちゃん」と呼びかけます。そう呼んであげると心なしか、笑ってくれるからです。

 大分さんが生まれたのは、ヒットラーがナチス親衛隊SSを創設し、『わが闘争』を発表した年です。梶井基次郎が『檸檬』を世に問い、生の自画像を檸檬に託します。前年には清朝皇帝・溥儀(ふぎ)がクーデターで追放され、スターリンの一国社会主義論が次第に台頭しています。澄みゑさんは、そんな時代に生まれ、昭和10年代に青春時代を過ごしたのです。

 澄みゑさんは、戦争未亡人です。お見合いで結婚したご主人は、昭和の第2次世界大戦で戦死します。若くして後家さんになったのです。子育てと生計のために女手一つ、やむなく外へ働きに出ます。活発にお客さんと応対し、気丈夫に働きました。そして60代半ばになって大分を離れます。集団就職で出稼ぎに出た一人息子が住む大阪で、世話にならない一人暮らしを始めます。しっかり者の澄美江さんは、ずっと一人で自分の人生を賄ってきました。ここまでは曲りなりにも順調でした。

 それがつい最近のことです。徘徊が始まって、にわかに騒動が勃発します。自宅が分からずに迷子になったりしました。預金通帳や判子の紛失などが、多発するようになります。ご近所迷惑にもなってきました。思い通りにならないと,我を張って困らせました。やむなく息子夫婦の家に、強制的に引っ越して来ることに。一人息子の嫁を交えての共同生活が、始まったばかりでした。私がヘルパーで派遣されたのは、そんな時期です。

 私「す~ちゃん、今日は日和がいいから、散歩に出かけましょうね」

 大分さん「日が照りますから、あったかい」

 大分さんは、帽子をかぶり、上着のファスナーと格闘を始めました。

 大分さん「着よるけんど、はまらん」

 私「はい、こうして揃えてから、引っ張るんですよ」

 大分さんは、さっさと身支度すべてを、自分でやろうと頑張ります。そしてよろけそうになりながら、車椅子に乗り込みました。

 私は大分弁でしゃべる澄みゑさんの言葉を反芻して、応えるようにしています。それが認知症の記憶を想起させるのに、役立つのではないかと気づいたからです。大分さんと呼んだり、幼い頃の愛称「す~ちゃん」と呼んで上げれば、忘れていた思い出をキックする事ができるのではないかと思うのです。こうして大分弁を学習することが、私の介護の重要なテーマとなったのです。

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