【大紀元日本10月13日】中国社会が荒れ果てている。
原因は明白である。悪しき政治権力によるすさまじい暴力と腐敗、および虚偽と洗脳の結果、人々の心から良識も理性も失われ、社会道徳が崩壊してしまったからだ。
すべての元凶である中国の現政権は、その罪悪を反省するどころか、自己の愚昧さを糊塗するかのように「和諧社会(調和社会)」を提唱している。
笑止である。悪魔が説く道徳など誰が聞くものか。
荒廃した社会とは、すなわち文化を失った社会である。そこには、無法に金を儲けるためのシステムと、弱者を犠牲にする非情さと、麻薬的な快楽しか存在できなくなる。人間にとって生きる意味が見出せない社会は、不幸以外の何物でもない。
かつて唐と呼ばれていたころ、この国は美しかった。
当時の日本人のなかにも、その花咲く都・長安を目にする幸運に恵まれた者がいた。遣唐使として唐土に渡った人々である。
粟田真人を執節使とする第七次遣唐使が、一度目の渡海に失敗して、再度出発したのが大宝二年(七〇二年)六月のことであった。
その一行の末端に、後に万葉歌人として知られる山上憶良がいた。
このとき無位無冠で、しかも四十二歳という若くはない年齢ながら少録(記録係)として遣唐使の一員に抜擢されたのには、一説によれば、彼が朝鮮半島出身の帰化日本人であり、彼のもつ大陸の文化を基盤とする資質・能力が評価されたからではないかともいわれている。行きの航海は順調で、憶良は、その場所こそ異なるが、自分が生まれた大陸の地に再び立った。
ところで、この時の唐土は「唐」ではなく、「周」と称していたという。永淳二年(六八三年)に唐の高宗が没すると、その皇太后・則天武后(武則天)は、実子である中宗・睿宗らを廃し、嗣聖七年(六九〇年)自ら即位して国号を「大周」と改めていた。
この中国史上唯一の女帝・則天武后による権力奪取と、その後二十年間の恐怖政治は、漢の呂后のそれを思わせる残虐極まるものであった。
憶良が唐土の人となったのは、その則天武后時代の末期である。しかし、武后の絶対権が猛威をふるったのは主として朝廷内部においてであって、庶民の住む街中では、唐王朝らしい異文化の調和する自由な賑わいが変わることはなかったのである。(続)
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