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【乾坤に生きる】「自然」へ帰った詩人・陶淵明 ①

 【大紀元日本11月14日】さて、長い苦悩の末に人間の根本に帰ることができた歴史上の人物といえば、私たち日本人にも古くから愛された中国の詩人・
陶淵明・『晩笑堂竹荘畫傳』より
陶淵明(365~427)が第一にあげられるだろう。

 陶潜(とうせん)が本来の姓名なのだが、陶淵明(とうえんめい)と呼ぶのが日本でも中国でも一般的なので、本文もそれに従うこととする。(姓名については別説もある)

 陶淵明は、歴史的には東晋という時代の末期から南朝の宋にかけて生きた人である。

 李白や杜甫に代表される唐詩の時代からは、さらに三百年ほどさかのぼる。当時、まだ官吏登用試験である科挙はなく、門閥貴族がその身分家柄に応じて官僚の座を占めていた。

 陶淵明も、もちろん庶民ではなく、貴族の一員には数えられていた。しかし身分は低い。この事情が、陶淵明自身にとっては不運であったかも知れないが、千六百年後の私たちに「帰去来の辞」「園田の居に帰る」などの不朽の名作を残してくれることになるのである。

 さてその前に、陶淵明がいた時代の前後をもう少し巨視的に見てみると、このころの中国もなかなか大変な時代であったことがわかる。

 3世紀の末、小説『三国演義』で知られる魏・呉・蜀の三国鼎立の情勢から、魏が蜀を滅ぼした後、魏の権臣・司馬炎が帝位を奪って晋(西晋)を建てた。晋が呉を滅ぼして全国統一をなすと、すぐさま北方から騎馬民族の侵略をうける。五胡十六国の混乱を経て、北魏という異民族の王朝が作られる一方、漢民族は中国の南方に逃れて東晋を建てた。

 歴史学では、この時代を魏晋南北朝時代(220~589)という。一方、文化史の観点からは、南方の江南地方に存続した漢民族の文化を中心にして考えるので、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六つの王朝を総称して六朝(りくちょう)時代とよんでいる。

 この時代、政治的には非常に不安定であったため、政治の根本理論とされていた儒教は不振であった。その儒教不振とバランスをとるかのように、仏教が栄え、老荘思想が流行したところに六朝文化の特徴がある。もちろん、その担い手は庶民ではなく、働かずとも食べていける貴族たちであったが、彼らが形成した文化サロンが、この政治暗黒の時代にあって詩文や書画といった芸術の分野で見事な花を咲かせた功績は大きい。

 その六朝文学の代表が陶淵明であることは議論を待たないが、陶淵明に先立つこと約150年の魏から西晋のころ、「清談」と称する超俗的な議論を好む風潮が、主として上流貴族の社会に広まっていた。

 なかでも「竹林の七賢」は、政治に絶望し、世俗に背を向けた知識人の典型であった。(続)

 (07/11/14 08:25)  





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