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【乾坤に生きる】「自然」へ帰った詩人・陶淵明 ②

 【大紀元日本11月22日】後漢(東漢)王朝は、その末期にはすでに混乱状態であった。

 前漢(西漢)の武帝が国教に定めた儒教の権威は地に落ちるとともに、その反動として人々は、現実からの逃避にもつながる老荘思想を好み、あるいは来世での救済を求めて仏教にすがった。

 ちなみに「道教」とは、老荘思想すなわち老子を祖とし「無為自然」を説く道家の思想を中心として民間宗教を統合し、さらに仏教の影響によって教義や教団組織が整えられ、仏寺に相当する道観などの宗教施設も作られて、北魏(5世紀)のころに成立した新興宗教である。

 道教の大成者である寇謙之(こうけんし 363~448)は、陶淵明とほぼ同時代の人であるが、北魏の太武帝の信任を受け、道教を北魏の国教に採用させている。

 さて話は前後したが、「竹林の七賢」とは、そのような不安の時代にあって、精神的に世俗を超越しようとした典型的な人々であった。
竹林の七賢=北京の頤和園にある絵画、2005年4月、Rolf Müller撮影(Wikipediaより)


 人名を挙げれば、阮籍・嵆康・山濤・王戎・劉令・阮咸・向秀と七人ずらりと並ぶ。

 その七人が、今の河南省北部の竹林に集まって「清談」をたたかわせたとされているのだが、実際には、絵画の題材に見られるように彼らが一堂に会していたわけではない。

 むしろ史実がどうであるかよりも、そういう特殊な人間像を生み出さざるを得なかった時代の、その重苦しい淀みを私たちは感知したいと思う。いずれも反儒教の立場であるが、特に儒教のなかでも政治の世界で形骸化したしきたりである礼教を、彼らは激しく嫌った。

 「竹林の七賢」のなかで、よく知られているのは阮籍と嵆康であろう。

 阮籍は、自分の嫌いな俗物が訪問してきたときには「白眼」で応対したことで有名な人物である。士大夫として名声のあった阮籍を利用するため、すでに魏の帝位を狙っていた司馬氏が接近し

 てきたとき、彼は二ヶ月間も酒に酔い続け、あるいは酔ったふりもして、身に迫った危機を回避した。

 嵆康もまた政治権力に引き込まれそうになった。残念ながら彼は、阮籍のような演技ができない性質であったらしく、先に権力側に取り込まれてしまった山濤への絶交状のなかで、儒教を全面否定する言葉を吐いてしまった。

 魏の帝位を簒奪するために、儒教の理想である古代の「禅譲」(徳のある人物に帝位を譲ること)をさせるよう目論んでいた司馬氏はこれに怒り、ついに嵆康を殺してしまったのである。

 世俗を捨てた「竹林の七賢」とは言っても、なかなか命懸けなのである。(続)

 (07/11/22 08:56)  





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