ある日本人の目から見た中国の工場

2006/10/31
更新: 2006/10/31

【大紀元日本10月31日】私は、典型的な「エコノミック・アニマル」と称される日本人ビジネスマンである。中国に来て既に6年余りが経過し、これまで、中国の5つの都市で仕事、生活をしてきた。中国語の聞き取りはできるが、口語は流暢ではなく、漢字の大体の意味を読み取ることができるが、書くことはできない。

私の見解として、中国の工場の生産能力は大きく進歩したが、「世界の工場」という視点からみると、更に長い道のりを歩む必要がある。

①「世界の工場=血と汗の工場」ではない

日本人をアリにたとえる者があるが、苦労に耐える点において、日本人は中国人に大きく劣っている。中国の珠海デルタ、長江デルタ、江浙一帯では、技術が遅れ、生産物が同じで、管理がいい加減な家族式工場が数え切れないほど存在している。こうした工場は、総じて技術レベルが低く、唯一の強みは、アリのように苦労に耐え、牛馬のように働く従順な中国人たちである。労働者の日々の労働時間は10時間以上と非常に長く、ぼろぼろの家に住み、最低レベルの生活を送っている。もちろん、基本的な社会保障なども得られない。時給で換算すると、彼らの賃金は世界最低である。一部の出来高制の工場では、従業員の平均労働時間が12時間以上にも達し、工場長から強いられなければ、休もうとしない。私が勤務する企業には、衛生業務に従事する中国の女工がいる。彼女たちには、督促をする者、直接管理する者はいないが、毎日ものを言わず、黙々と、10時間以上ひっきりなしに働く。それは、ただ、彼女たちの賃金が他の工場の女工よりも少々高いからである。彼女らのような存在は、決して珍しくない。彼女らが、収入の80%を家に送ると聞いても、誰も驚かない。日本人の視点からみると、彼女らに残されたお金では、生存の基本的な生活を維持するにはとうてい足りない。まして、彼女らは、部屋代、水道代を支払わなければならないのである。私は、かつて東南アジアの多くの国で仕事をしてきたが、経済的に遅れているミャンマーでさえ、労働者の残業は相当に困難なことで、彼らは多くの要求をしてきた。フィリピンの労働者は、このような苦しい生活をしようとしない。また、フィリピン人は、1ヵ月働けば、1ヵ月休み、前月の賃金を使い果たした後に再び働く。インドネシアにおいて、こうした仕事をしようとする者は全くいない。したがって、私の考えでは、世界の仕事が中国に移転されているとはいうが、これは、苦しみに耐える中国人によって支えられているのであり、こうした工場は、世界の他の国では、中国人以外に生存することはできない。

②熟練労働者なくして「世界の工場」の基準に達するのは困難

中国の南方、北方の各都市において、多くの労働者が、大群をなして就業の機会を待っている。しかし、本当に技術を理解している熟練労働者は、非常に稀である。これは、中国の大部分の工場に長期的な計画がなく、技術支援に欠けていることによってもたらされたものである。農村から来た大量の労働者は、今年はこの工場、来年はあの工場で働き、今年は靴を作り、来年は服を作りと、産業における労働者の流動性が極めて高く、有効な組織管理がなされておらず、基本的な職務訓練がなされていない。同時に、工場に長期的な計画がなく、往々にして、売れるものに集中して生産するので、労働者の技術もまた、製品の変更に伴って変更しなければならない。多くの情況において、工場は現在の労働者を解雇し、市場において新たな労働者を雇用するが、このため、大部分の労働者は、一種類の技術に長く従事することが難しくなっており、技能を向上させることができなくなっている。日本は、技術開発において優位に立っているわけではないが、世界が比肩できない完璧な技術を持った産業人員の大軍を擁している。彼らは、関連する業務に何十年も従事し、世界で最も精密な製品を巧みに作り出すことができる。こうした腕は、高等教育機関の教育の結果でも、短期の訓練で達成されたものでもなく、長年にわたって鍛えあげられてきたものである。中国人は、日本人よりも腕利きであり、かつてはこの上なく精巧で美しい工芸品を作り出していた。しかし、現在の中国の工場就業モデルにおいては、彼らが腕を磨く舞台はなく、中国の労働者は、流砂と同様に、今年はこちら、来年はあちらへと流動していくため、技術の熟練に必要な条件を満たすことが難しくなっている。

③規模の小さい工場が「世界の工場」の基準に達するのは困難

中国の工場は、ほとんどが小規模であり、同じ製品を作る工場は、その態様が同じである。日本の水準からみると、こうした工場は単なる作業場で、産業化された生産水準には達していない。中国の工場が最も密集している珠海デルタ地区における、全ての工場の年間生産額を足し合わせた数字は、日本の大企業1社の総生産額にしかならない。同様の製品を、無数の工場が別個に生産しており、その結果、工場の操業時間は短く、製品のコストが高くなっており、企業に、技術開発を行い、技術開発部隊を育成する余剰資金はない。また、労働力のコストが安いことから、企業に、より先進的な技術の設備を導入しようという意識はない。珠海デルタにおいては、テレビ、電子レンジ、エアコン、冷蔵庫、電話等の低技術の家電を生産する正規の企業や、作業場式の企業が数え切れないほどあるが、世界の名声を得るようなブランドはない。服装、靴、帽子、玩具に至ってはなおさらであり、同様に、規模の生産を行うための最低限の生産水準に達しているものは全くない。

④低技術を主体とする工場が「世界の工場」の基準に達するのは困難

世界的名声を得ている企業は、基本的に、製品の自主開発能力、科学的研究、生産、販売、サービスをワンセットで有しており、中国の工場の大部分は、基本的には模倣生産か、他社の生産の代行であり、技術を他社にコントロールされ、利潤が最も高い部分は他社に掌握されている。中国の科学研究体系と生産体系は、基本的に噛み合っておらず、製品開発能力が低下しており、基本的に模倣生産を主としており、自主開発能力は極めて低い。

⑤効率の低い管理方式では、「世界の工場」の基準に達するのは困難

企業の生産が進歩すればするほど、管理に対する要求はますます厳格になる。しかし、この点は、中国において最も欠落している。中国の工場の総数は、日本のそれを遥かに上回っているが、プラント設備を生産できる工場は少なく、大部分の設備は、海外から輸入したものである。中国の各工場を見て分かることは、比較的先進的な設備や、求められる技術の水準が高い部品は、海外から輸入したものである。この点について、中国に最も欠けているのは、生産能力ではなく、プラント設備を生産するための組織管理能力である。プラント設備は、大規模に生産を行う製品とは異なり、一式の生産設備は、おそらく数年で一セットしか売ることができない。より多くの利潤を得ようとするならば、関連する各材料、メーカー、規格、標準等様々な複雑な要素を総合的に組織し、時計の組み立てのように、精緻に組み立てていかなければならない。

管理のプロセスが一つでも乱れれば、ただちにコストが増加し、性能が低下する。中国は、依然として、精緻な組織管理能力に欠けており、効率の低い国有企業の管理階層が行っているのは、基本的に、官僚式の管理方法であり、規模が比較的小さい規模の工場には鍛錬の機会が与えられない。かりに、エアバスの飛行機の生産が中国で行われ、管理を中国人が行うとすれば、生産価格が高くなると私は思う。また、個人的に見て、中国に欠けているのは管理者ではなく、管理者を科学的に選抜する基準がないことである。無能で、人格が低く、人の弱みにつけ込み、心理上の技を駆使するのが仕事であるような無能の輩が、賃金の高い管理者の位置を占めており、優秀な管理人員が発展する余地を塞いでしまっている。

中国には、世界のどの地方も真似ることのできない、最も苦労に耐える人民がいるが、彼らは、熟練技術に欠けた労働者である。世界で最も多くの工場を擁しているが、規模が世界レベルの企業は全くない。製品の種類を揃えることはできるが、先進技術で自主開発を行っている製品は非常に少ない。膨大な生産能力を擁しているが、先進技術を用いたプラント設備を作ることは難しい。

中国は、真の意味での世界の工場からはほど遠い。今後しばらくすれば、中国は、初級製品の加工基地にすぎなくなり、世界の工場の基準を満たすことは難しくなる。

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