靖国神社問題

2007/03/11
更新: 2007/03/11

【大紀元日本3月11日】諸子百家の内、鬼谷子に始まる権謀術数は中国思想史の中でも特異な地位を占めるが、合従連衡や遠交近攻、或いは夷を以って夷を制す等、後世の外交政策に数々の影響を及ぼしたのは周知の事実である。

最近中国の要人が来日するとか、中国の要人が日中友好を強調する等中国政府の対日本政策は大幅に修正されたように見える。勿論、靖国神社については例外なのか切り札なのか何時でも使えるカードとして温存しているようにも見える。如何にも筋が通っているようにも見える反面、どうも釈然としないのは筆者だけではあるまい。今や世界の工場ともてはやされ進出する日系企業も後を絶たない。既に世界の外貨準備高だけを取っても日本を抜き世界一、自動車生産台数も日本を越え、粗鋼生産高では日米合算よりはるかに多く群を抜いた存在でもある。人工衛星の破壊実験や新型戦闘機の就役、原子力潜水艦、或いは大陸間弾道弾等、軍備増強や兵器の開発も諸国の警戒感を招いている。日本近海での中国海軍の動きも相変わらず活発と聞く。

あの激しかった反日運動もつい先日の様に思えるが、一説では官製デモだったという話もあるし、公安や人民警察の人達が参加していたという説まである。少なくともテレビで視聴した範囲では、整然と並んだ武装警官の隊列やカメラを前に特に顔を隠しもせず投石を繰り返すデモ参加者の姿が印象的であった。しかも大勢の警官が隊列を組んで整列はしているが、デモ参加者がその頭越しに投石しているのに一向に制止しようともしない情景は如何も不自然ですらあった。異常なまでに統制の強い国家で組織的な反日デモだけが同時期に全国でいくつも発生したのはどういう理由なのか。インターネットすら厳しく管理されている中国で、そこまで自由なデモが認められたとはとても思えないのだが。矢張、客観的に見ても一種の当局容認のデモであったことに誰も異論はなかろう。まして、破壊された公館や施設に対する修繕費用等についても公式には一切遺憾の意を表明せず、後日密かに現状復帰費用を支弁する等、姑息な方法をとったのは記憶に新しい。その結果、政冷経熱だとか経済界から関係改善を望む声が大きくなったのは隠しようの無い現実であった。オリンピックで日本の競技者が妨害される可能性すら論じられたようだ。

日華事変から第二次世界大戦を通して本邦が中国に大変な迷惑を掛けた事実は全ての日本人年長者の脳裏に刻まれているし、二度と戦火を起こしてはならぬという固い意思を日本人全体が共有することは明らかな事実である。まして広島、長崎を経験した日本人が軍国主義ヤ帝国主義に走る可能性は全く無いと信じる。確かに最近防衛庁が省に昇格した事実はあるが、別に中国に脅威となる原子爆弾や大陸間弾道弾を備えているわけでもない。専守防衛であることは、先ず世界共通の認識であろうし、中国当局は日本人以上に認識して活用している筈ではないか。自衛隊が先制攻撃しないことを熟知しているからこそ安心して挑発とも思える行動を繰り返すのは公知の事実であろう。

靖国神社や護国神社が多数の戦死者を祭っているのは事実であり、淵源は確かに国家神道だったかも知れないが、日本には米国のアーリントン墓地や中国の革命烈士モニュメントのような施設があるわけでもない。元々神道は寛容な宗教である。宗教戦争とは無縁の存在であり、今やその実態は中国政府が危惧するような軍国主義の象徴でもなかろう。現に日本人の宗教観は多様であり好戦的な宗教ではない。 A級戦犯が合祀されているのが拒否反応の理由だそうであるが、果たして何人の日本人がA級戦犯を特定して参拝しているというのか。数百万の戦争で亡くなった父祖の霊に敬意と哀悼を表しこそすれ参拝者のなかにもう一度戦争をやろうという手合いは先ずいない筈である。勿論、日本にも右翼と称する集団も多少はいるが、民主国家である日本には極左から極右まで多種多様な信条があるのは自然であり、少なくとも大多数が良識を持つ市民である。夫々の国にはそれなりの歴史や文化がある。死者に対する態度にも違いがあろう。よきにつけ悪しきにつけ日本人の文化には他国と異なる習慣もあろう。それが他国の人達に違和感や嫌悪感を与えるのであれば、それには理解を示せる程度まで日本人も国際化したのではなかろうか。勿論、これ見よがしに振舞うのは問題であるが。そもそも現在の靖国神社は独立した宗教法人である。

小泉前首相に限らず戦後日本の首相は原則として日本人の選挙により多数を取った政党の党首でもある。歴代首相個人への毀誉褒貶は枚挙に暇ないのが実情ではあるが、さりとて他国が靖国問題を外交の手段に使うとなれば却って日本の大衆の顰蹙を買うのみである。ところで最近の中国で発生した反日運動の実態はどのようなものであったのか、反日教育の成果もあろうし、個々の参加者の真意は知る由もないが、デモの参加者が、自宅に帰るとソニーや松下の電気製品の愛用者であることも少なくなかったろうし、日本の文化や商品を嫌う人ばかりではなかったろうと思われる。勿論、インターネットで過激な表現をするネチズンも多いのではあろうが、その根本にあるものは、むしろ中国社会の矛盾や鬱積のエネルギーが偶々、反日という中国社会では共感をもたれる分野に求められただけではなかったのか。日本でも以前、米騒動、反英運動や、安保騒動があった。参加者の殆どがそれなりに愛国者であったろうし、それぞれに理由もあったのではあろうが、中国の反日運動というだけで年金生活者の日本人は21ケ条の要求や日華事変を想起することも事実ではあるが、果たしてそうなのであろうか。若し反日運動がそれほど深刻なものであれば、如何に掣肘しようとしてもモグラ叩きのような姿になる筈ではないか。勘ぐれば、厳重な統制社会で反日なら愛国無罪で済むという発想の元に中国当局による一種のガス抜き工作、つまり日本の在外公館や日系企業、或いは日本商品をスケープゴートにした動きではなかったのか。内憂を外患に変えるのは古典的な手法であるが、それも当局が意識的に扇動したとまでは行かずとも黙認するという一種の暗黙の了解で始まり、あまりに効果が出過ぎ、収拾がつかなくなることを恐れ、いつ矢が当局に向かうかも知れぬ恐怖感から倉皇として統制を強化したというのが真相ではなかったのか。つまり参加者の心の深層には中国共産党に対する反感があったのではなかろうか。更に有態に言えば、その故にこそ中国政府も引っ込みがつかなくなり対日強硬方針を打ち出さざるを得なかったのではなかろうか。もしこの推測が正しければ江沢民氏が日本を批判の対象とし、抗日運動の展示館が多く建設されたのも頷けるというものであろう。勿論、戦後派とはいえ、古希を迎えた老人の世迷言かも知れないが、現在の日本が軍国主義になると云われても心外な平均的日本人の見方ではないだろうか。日本人が過日の反日運動に韜晦され、結果として両国の関係が悪化すれば漁夫の利を得るのはむしろ中国共産党ではなかろうか。その中国共産党すら対日関係の悪化が自らに跳ね返る可能性を認知するが故に、関係修復に努め始めたというのが真相では無かったのかと自問自答する今日この頃である。

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