風雲人物伝:清廉高潔の人「王安石」

2007年06月09日 15時21分
 【大紀元日本6月9日】王安石は、北宋時代の政治家で「唐宋八大家」の一人だ。彼は官位に有るときには清廉を通し、因習に囚われた朝廷の政治改革に鋭意努力したが、朝廷内の重臣たちの支持をとりつけることができず、失脚した。しかし、民を憂い、国を憂えて、個人的な名誉にとらわれないなど、彼の人格は後世の人から鑑とされた。

北宋の大文学者

  王安石は、若い頃に韓_qii_の下で幕僚として仕え、官僚達が大切にする宴会にも姿を見せず、夜ともなると読書に耽っていた。

 王安石は、一介の儒学者としてだけではなく、佛、道の教えにも造詣が深く、諸子百家に対しても鷹揚な態度をとった。また、彼は作者の意図を読み取るのが得意で、諸子百家などの著作を読むときは、その注釈にとらわれず、なるべく自分で原文を理解するようにした。

 王安石が文を書く態度は非常に厳格であった。自作の詩「泊船瓜洲」の有名な一句「春風又緑江南岸」の「緑」の字は十数回も書き換えた後に決定されたという。彼の詩文方面の業績は、北宋文学に多大な影響を与え、故に後の人は彼を「唐宋八大家の一人」として崇めた。

日常の素行、一点の曇りなし

  王安石は、宰相になり高貴な身分となっても、その生活はいたって簡素で、「財利酒色に溺れず、富貴を浮き雲のごとく見る」を信条としていた。彼の清廉さを示すエピソードは多く、政敵でさえ、「素から徳行があり」、「日常の素行、一点の曇りなし」と認めざるを得なかった。

 ある時、王安石に骨董品の古鏡と硯を贈ろうとする者があった。王安石が「この鏡と硯はどんな使い道があるのか?」と問うと、贈ろうとする者は、「この鏡は面が非常につややかで、近くのものがとても良く映るだけでなく、二百里も離れた景色までも映ります。この硯は、石質が非常に滑らかで、息を吹きかけただけで、水が出てきて墨が磨れます」。彼はそれを聴くとハハハと笑い出し、「両方とも珍しい宝物だが、自分には必要ない。私の顔はお皿ほどの大きさしかないのに、どうして二百里先のものまで映す古鏡が必要だろうか?また、私には、字を書く前に必ず水をくんできて墨を磨る習慣がある。息を吹きかけただけで水が出るからといって、それがどうしたというのだ?」と言って、これらの宝物を還した。

 王安石は、宰相のとき喘息に罹った。医師の処方箋の中に「紫団山人参」が入っていたが、町中を探しても見つからなかった。ある官僚がこれを聞きつけると、さっそく王安石にこれを贈ったが、彼は頑として受け取らなかった。ある人が「これを飲めば、あなたの病気は良くなるのに・・・どうしてそんな小さなことにこだわるのか?」とたずねると、彼は「私はこれまでその人参を飲んでこなかったが、こうして生きている。今、それを飲まなかったからといって、すぐに死んでしまったりするだろうか?」と答えた。

 王安石は、顔色がドス黒かった。門人がこれを心配し、医師に尋ねると、医師は「これは垢だ。病ではない。藻豆で洗ったら落ちる」と答えた。ある知人がこれを聞きつけると、さっそく藻豆を贈った。王安石はまたハハハと笑い、「もとから黒いのに、何で藻豆が必要なのか?」と言って断った。

 彼の清廉さはこのように厳格で、当時の名利を追求する官界にあっては、格別に目立ち、しかも得難い高貴さをもっていた。

王安石の改革

  王安石は、幼少の頃から、地方官吏であった父親の後について各地を転々とした。南北を奔走する中で、庶民が地主や官僚の搾取によって貧しく疲れきっている様を目にした。後に、自らが地方官僚として各地に赴任した際、当時の北宋の腐敗した因習的な社会状況を、いっそうわが身をもって感じた。

 朝廷内で官僚として務めていた頃、王安石は北宗王朝の華やかさの背後に、抜き差しならない問題が山積していることに気が付いた。この種の情況を生み出した主な原因とは、太祖の時期につくられた官位、職務の分離制度と、科挙、推挙等の選官制度が複雑に絡み合って、必要でない官吏や役人を大量に生み出していたことだった。当時、官位あれども職務がない役人は、全体の半数以上に上っていた。この他、宋朝では財政管理が不十分で、毎年赤字の状態であった。王安石は、各種の不合理な腐敗を目にし、改革を即時実行しなければ極めて危険であると強く感じた。

 王安石は宋の仁宗に対し、改革を提案する「万言の書」をしたためたが、受け入れられなかった。神宗の即位後、彼は二度宰相となり、さっそく新法の施行にのりだした。新法には、青苗法、免役法、方田均税法、農田水利法、市易法、保甲法、将兵法、科挙制度改革などがあり、これらが有名な「王安石の改革」だ。

新旧の争い

  王安石の新法は既得権益を持っていた地主階級や保守官僚らに抵触したので、朝廷内で抵抗に遇い、司馬光、欧陽修などの大臣らも反発した。しまいには皇后までが出てきて全面的に王安石に反対し、彼は新法もここまで、改革の道も尽きたと悟った。そこで、彼は朝廷を去り、以来国事には関わらず、仏学に励み、隠遁生活を送った。

人為か、天意か?

 後に宋朝は金国から北方を攻められ、最後の皇帝もまた自害を迫られるにいたった。後の人々は、改革の失敗を王安石の独善のせいにしたが、北宋王朝の滅亡は、宋の神宗の時期が正しく、改革をすべき時であったということを意味している。

 では、改革の失敗は、新法がよくなかったからなのだろうか?実際、王安石の新法は、宋朝の腐敗した社会体制にふさわしい良法であった。かつて新法に反対していた蘇軾も、地方での任官期間中に、新法が民にとって有益であり、反対派のほうが頑固で保守的なだけだということがわかった。

 ならば、なぜ失敗したのか?北宋王朝の滅亡は、人為的な要因以外に、正しく天意であったのかもしれない。

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