私たちはお金で何を生かし続けたいと願うのか?

2026/10/11
更新: 2026/10/11

論評

カンファレンスへ向かう途中、空港を歩きながら周囲の人々を眺めていた。何千人もの人々がゲートの間を行き交い、画面に表示される次の指示に従って移動している。

現代の生活の大半は、お金というパンくずの後を追うことで成り立っているのだと痛感した。私たちは仕事のある場所へ行く。機会のある場所に住む。そして、最も確実な見返りをもたらすものに人生の最高の時間を捧げる。あの空港を見渡しながら、そのパンくずの先に待つ生活を愛している人がどれほどいるのだろうかと考えた。自分の仕事に意義があると信じている人はどれほどいるのか。自らが築いているものに心を動かされている人はどれほどいるのだろうか。

彼らを裁こうとしていたわけではない。私自身もその空港で、自らの恐れを抱えて歩いていたのだ。

最近、人生が過酷に感じられる。家族と私は並外れて懸命に働いている。前へ進み、築き上げ、ひとつの問題を解決してはまた次の問題に取り組んでいる。私たちは安全網もないまま、細い枝の先のほうに立っている。私は自らの恐怖を抑えつつ、それが子どもたちと過ごす時間を奪ってしまわないよう努めている。背負うべき重荷をすべて担いながらも、夫への配慮を失わないように努めている。私たちは自分たちが創り出しているものを深く信じているが、怖くないと言えば嘘になる。

別の人生を望んでいるわけではない。ただ、私たちがここで取り組んでいることを軌道に乗せたいだけなのだ。

人里離れた場所、カリーチ舗装の砂利道の突き当たりにある牧場でレストランを開くことは、およそ分かりやすいビジネスプランとは言えない。それには、家族で食材を育てて調理し、土地や動物の世話をし、人を雇い、見知らぬ客を迎え入れ、もっと楽で便利な道があると分かっていても、逃げ出さずに現場に立ち続けることが求められるのだ。

しかしそれは、顧客側にもある種のことを求める。

私たちのレストランを訪れるには、最寄りの見慣れた看板を目印にハイウェイを降りるだけでは済まない。田舎道を車で走る必要がある。中央集権的な仕組みを使えば翌朝にはほぼ何でも玄関先まで届く時代に、家族経営の店を選ぶという選択が求められる。どこにお金を使うかが、どんな世界が生き残るかを決める手助けになるのだと信じる姿勢が求められるのだ。

それによって、個人店と客とのつながりは、単なる売り手と買い手を超え、もっと大きな価値を共に支え合う誓いとなる。

ますます中央集権化が進む世界において、私たちはどのように支出を分散化できるだろうか。中央集権という巨大な機構から自らの豊かさを少し吸い上げ、地域を個性あるものにしている書房やカフェ、レストラン、農場、精肉店、金物屋、家族経営の店へと向けるにはどうすればよいのか。

私たちはそれを、日々のささやかな決断を一つひとつ積み重ねることで行うのだ。

昨日、夫が必要なものを探していた。私が注文すればすぐに玄関先に届くよ、と伝えた。

「いや」と彼は言った。「金物屋に行って買ってくるよ」

それは取るに足らない、見過ごしてしまうほど小さな決断だった。しかし、それこそが「この店にあり続けてほしい」という意思表示なのだ。私たちはお金を使ってその声を届ける。

私たちはよく、巨大企業が地域社会を奪い去ったかのように語るが、利便性が既定路線として勝利するたびに、私たち自身がその移譲に加担しているのだ。誰もネット注文をするな、チェーン店を利用するなと言っているわけではない。どの家庭も忙しい。家計も厳しい。中央集権的な選択肢しか現実的でないこともある。しかし利便性があまりにも当たり前になりすぎたせいで、私たちがその引き換えに何を差し出しているのかにほとんど気づかなくなっているのだ。

地元の金物屋は、人々の好意だけでは存続できない。独立系の書店は、善意だけで家賃を払うことはできない。家族経営の農場は、SNSの称賛でトラクターを修理することはできない。レストランは、地域の人々が「あってよかった」と言ってくれるだけで従業員を雇い続けることはできない。称賛も大切だが、実際に足を運んで関わることこそが店の扉を開け続けさせるのだ。

目的と繁栄が共存し得ることは分かっている。この使命に取り組む前、私は自らを鼓舞する事業を立ち上げ、何百万ドルもの利益を上げていた。だがコロナ禍の政策によって、何年もかけて築き上げたものが解体された。苦労することが高潔だと信じてテキサスに来たわけではない。もう一度やり直すためにここへ来たのだ。

今、私たちは異なるものを築いている。食べ物、土、動物、家族、もてなし、そして教育が交わる生きた牧場だ。子どもたちはその営みの中で育っている。客は、その土地や出会うことのできる人々と結びついた料理を味わうことができる。牧場は私たちのものだが、そのビジョンは私たちだけの力で育ってきたわけではない。

家畜を譲りたいと申し出てくれた人々がいる。ある男性は、私たちが築いているものに関わりたいと、30頭のヤギを譲ってくれた。定期的にレストランを訪れたり、箱入りの農産物をオンラインで注文したり、私の記事やSNSにコメントを寄せたり、Substackを購読したり、時には現金を送ってくれたりして支えてくれる人々もいる。支援は何千もの形で届き、私はそのすべてを「あなた方に生き残ってほしい」という地域社会からの声として受け止めている。私たちが築いているものは、地域社会が支えてくれて初めて成り立つ。だがそれは、あらゆる地域のすべての家族経営の事業にも当てはまることだ。

地域の支えのない粘り強さだけでは、何も変わらない。しかし、粘り強さが地域の支えと結びついたならどうだろうか。可能性は無限に広がる。一つひとつの行動が、波紋の一部となっていく。

おそらく人々は、良いと信じるものを外側に立って拍手するだけでは物足りないのだ。時には、自らの手をその中に差し入れたいと願う。築く側の私たちは、人々がどこからその物語に参加できるのかが見えるよう、十分に率直でなければならない。

だが、それは私にとって簡単なことではない。これまで私は、一人で重荷を背負い、自力で答えを出し、完成した成果だけを人前に見せるやり方に慣れてきたからだ。先行きなど分からないと認めることは、自らの弱さをさらけ出す怖さを伴う。私たちは必死に踏みとどまっているが、この状態を保ち続けるのは過酷だ。どれほど崇高な志があろうと収支という現実が消えるわけではないし、価値ある営みだからといって自然と採算が取れるようになるわけでもないのだ。

多くの人がこの感覚を理解してくれるはずだ。誰もが牧場でレストランを開いているわけではないだろう。配偶者を介護しているのかもしれないし、孫を育てているのかもしれない。小さな事業を維持しようとしているのか、庭に作物を植えているのか、喪失の後に再建を図っているのか、あるいはまだ誰の目にも見えない何かを創り出そうとしているのかもしれない。自ら選んだ人生に感謝しつつも、それがうまくいかないかもしれないという恐怖を抱えている。その両方が真実であり得るのだ。

ホリデーシーズンが近づく中、私たちは買い物をする前に、これまでとは異なる問いを投げかけてみてもよいのではないだろうか。「私は自分のお金で、何を生かし続けたいと願うのか?」と。

その答えは、農場からのクリスマスギフトバスケットかもしれないし、地元の店で買う一冊の本かもしれない。独立系レストランでのディナーかもしれないし、自分の街の誰かが作った贈り物かもしれない。ほんの少し余計にお金を払うこと、少し長く待つこと、あるいは少し遠くまで車を走らせることかもしれない。機械が摩擦のない利便性を提供してくるときに、不完全で人間味のある選択肢を選ぶことを意味するのかもしれない。

これは慈善活動ではない。意図を持った商取引なのだ。買い物のひとつひとつが、自分たちが望む世界についての意思表示になるのだと認識することである。

突き詰めれば、私は自らの人生で前向きな波紋を広げたいと願っている。人々が私の中に自分自身の姿を見出してくれることを望んでいる。誰もが牧場を築くべきだからではなく、誰もが自らの手で強固にすべき価値あるものを持っているからだ。ひとりの人間が意図を持った選択をするとき、別の誰かが何かを築き続けることができる。その築き手が誰かを雇い、誰かに食事を提供し、子どもを教え、あるいは地域社会のかけらを生かし続ける。波紋は外へと広がっていく。

私は今も、私たちがここで取り組んでいることを成功させたいと思っている。それが偽らざる本音だ。だが同時に、私たちの取り組みを通じて、人々が中央集権化に対して無力ではないことを思い出してほしいとも願っている。私たちは自らの豊かさをほんの少し別の方向へ振り向けることができる。受動的な称賛ではなく、参加することを選ぶことができる。そして自分たちのお金を使って、明確に、何度でもこう意思表示できるのだ。「これこそが、私が世界に残したいものなのだ」と。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
「ソブリンティ・ランチ(Sovereignty Ranch)」で環境再生型(リジェネラティブ)農業および牧畜を営むモリー・エンゲルハートは、食料主権の確立、土壌の再生、そして自給自足的な暮らし(ホームステッディング)に関する啓発活動に尽力している。彼女は『Debunked by Nature: Debunk Everything You Thought You Knew About Food, Farming, and Freedom(自然に打ち砕かれた幻想――食、農業、そして自由についてあなたが知っていると思い込んでいたすべてを覆す)』の著者でもある。同書は、ヴィーガンシェフ兼ロサンゼルスのレストラン経営者から、土にまみれて働く農家へと転身した彼女の歩みと、いかにして自然が自らの文化的プログラミング(刷り込み)を打ち砕いたかを赤裸々かつ刺激的に綴った記録である。