論評
どの世代も答えを求めてきた。若者はいつの時代も現状に異議を唱え、権威を問い、自分たちが受け継いだ社会よりも良い未来を求めてきた。その衝動は理解できるだけでなく、健全な民主主義にとって不可欠な場合も多い。社会が改革し、革新し、不正を正していく原動力にもなる。
しかし近年、大学のキャンパスやSNS、政治的な議論の場で、ある問いが以前にも増して浮上している。
なぜ一部の若者は、共産主義政権の歴史が示す現実があるにもかかわらず、共産主義を支持したり、社会主義や共産主義の思想に公然と共感を示したりするのか。
この問いには、スローガンや政治的な攻撃ではなく、誠実さと謙虚さ、そして歴史的な視点をもって向き合う必要がある。
多くの若者が共産主義に引かれるのは、独裁や政治的弾圧を望んでいるからではない。彼らが魅力を感じているのは、平等、公正、手頃な住宅、すべての人に機会が開かれていること、そして誰一人取り残されるべきではないという理念だ。
多くの若者は、金融危機、学費の上昇、重い学生ローン、手の届かない住宅価格、賃金の停滞、拡大する富の格差を経験しながら育ってきた。億万長者がさらに富を増やす一方、多くの勤労世帯が家賃の支払いや医療費の負担に苦しむ現実を目にしている。
こうした懸念は現実のものだ。それを無視すれば、若者を抜本的な解決を約束する思想へ、さらに向かわせるだけである。
しかし歴史は、崇高な理念と実際の成果が必ずしも一致しないことを教えている。
共産主義は一貫して平等を掲げてきた。だが実際には、豊かさを広く行き渡らせるのではなく、政治権力の集中をもたらした例が少なくない。
ソ連、毛沢東時代の中国、ポル・ポト政権下のカンボジア、北朝鮮、その他の共産主義政権は、不正をなくしたわけではなかった。むしろ、一つの不平等を別の不平等に置き換えることが多かった。
そこでは国家が個人に対して巨大な権力を持ち、言論を統制し、宗教を弾圧し、民間企業の活動を制限し、政治的な反対者を投獄した。そして多くの場合、多くの人々に甚大な苦痛をもたらした。
これは党派的な主張ではない。何十年にもわたる研究によって記録されてきた歴史的事実だ。
では、なぜこうした歴史の教訓は、若い世代に伝わりにくくなっているのか。
その理由の一つは、歴史との距離にあるのかもしれない。多くのアメリカの若者にとって、冷戦は、かつての世代にとっての第二次世界大戦と同じほど遠い出来事になっている。ベルリンの壁は教科書の中にしか存在しない。
ソ連でパンを求めてできた長い行列、毛沢東による文化大革命、カンボジアの『キリング・フィールド』は、自ら体験した記憶ではない。SNSや20秒ほどの短い動画があふれる時代の中で、膨大な情報に埋もれる歴史の一章になっている。
歴史は、自分自身の記憶でなくなると、その切迫感を失っていく。
もう一つ、率直に認めるべき要因がある。資本主義そのものも、その理想を常に実現してきたわけではない。
自由市場は並外れた革新を生み出し、世界中で数十億人を貧困から引き上げ、創造性や起業家精神に報いてきた。一方で、倫理基準や有効な制度が機能しなければ、資本主義は独占、企業の強欲、腐敗、環境破壊、そして途方もない格差を生み出すこともある。
こうした欠点を認めることは、自由市場を放棄することを意味するわけない。必要なのは、それを改善することである。
資本主義に欠点があるからといって、その答えが必ずしも共産主義であるわけではない。それは、民主主義に失敗があるからといって、権威主義が正当化されるわけではないのと同じである。
中央計画型の体制にはしばしば欠けているものが自由な社会にはある。それは、開かれた議論、自由な選挙、独立した司法、民間の創意と革新、自由な報道を通じて、自らを改革する能力である。
この自己修正能力こそ、民主主義の最大の強みの一つである。
教育機関にも責任がある。学生には、資本主義は批判してはならないものでも、共産主義は検証してはならないものでもないと教えるべきだ。双方を率直に学ぶ必要がある。
自由市場経済が成し遂げた成果と失敗を学ぶと同時に、共産主義政権がもたらした結果についても学ぶべきだ。教育は特定の思想を植え付けるのではなく、自ら問い、考えることを促すものでなければならない。
親にも役割がある。宗教団体、市民団体、メディアにも同じことが言える。
若者には、難しい問いを退けるのではなく、それに向き合ってくれる大人や助言者が必要だ。見下した態度で人の考えが変わることはほとんどない。対話によって変わることはある。
もしかすると、より根本的な問題は、経済そのものを超えたところにあるのかもしれない。
今の多くの若者は、人生の意味や目的、居場所、自分は何者なのかという感覚を求めている。政治運動が、かつて家族や地域社会、宗教組織、市民団体が提供していた共同体の代わりになることも少なくない。
人は孤立を感じると、明確な答えや正義、居場所を与えてくれる運動へ自然と引き寄せられる。
これは単なる政治的課題ではない。文化的な課題でもある。
私たちが取るべき態度は、若者を恐れたり、難しい問いを投げかける彼らを嘲笑したりすることではない。好奇心は自由の敵ではない。無知こそが敵である。
必要なのは、厳密な議論、幅広く注意深く読む姿勢、歴史を理解する力、そして知的な謙虚さを育てることである。
意見の相違を歓迎しつつ、あらゆる思想について、自分たち自身の思想も含め、証拠と歴史、そして人間の尊厳への敬意に照らして検証する姿勢を求めるべきである。
どの世代も、自分たちならより良い社会を築けると信じる。その願いは、人類の大きな強みの一つである。
しかし歴史はまた、社会が繁栄するのは政府が全能になるときではなく、自由が守られ、機会が広がり、制度が適切に監視され責任を問われ、個人が自由に発言し、信仰し、創造し、異議を唱え、自らの夢を追うことができるときだと教えている。
私たちが直面しているのは、思いやりと自由のどちらかを選ぶという問題ではない。アメリカの強さは、その両方を重んじるところにある。
自由を欠いた正義は、抑圧につながる危険がある。責任を伴わない自由は、無関心に陥る危険がある。健全な共和国には、その両方を守る知恵が必要である。
次の世代に私たちが残せる最大の贈り物は、一つの思想を絶対視することではない。歴史の真実、道徳的な勇気、そして批判的に考える自信である。
自由は昔から、ただ思想を受け入れる人々によって支えられてきたのではない。思想を誠実に検証し、敬意を持って問い、歴史を繰り返す前にそこから学ぼうとする市民によって支えられてきたのである。

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