鄧小平の暗殺未遂は7回 公開された中国国家機密文書 

2016/04/25 13:00

 2012年、薄熙来の側近だった王立軍氏が米駐成都総領事館に駆け込み、薄熙来氏と周永康氏の企てたクーデターが明るみになった。党内の権力闘争に杞憂した胡錦濤・国家主席(当時)は、中国共産党内で起きた指導部や軍のリーダーを狙った暗殺事件を記した国家機密文書の一部を公開することを決めた。要人は何度となく暗殺未遂にあっており、熾烈な争いが繰り広げられていることがかいま見える。

 公開された文章によると、毛沢東とともに改革を指導した鄧小平は60年代から80年代末まで、7回の暗殺未遂事件が企てられていた。(以下、敬称略)

 1969年、軟禁先で銃乱射襲撃事件

 1969年10月21日、鄧小平が江西省新建県望城崗の廃校となっていた歩兵学校に移送され軟禁された。3日目の早朝、武装した複数の「民兵」が現場になだれ込み、鄧小平の居所に銃を乱射したが、目標を誤り、鄧小平を監視していた警備隊の宿舎を銃撃した。

 1973年、搭乗予定だった飛行機が空中分解

 1973年2月20日、復職決定により、江西省で軟禁中の鄧小平を北京に戻すため、中央委員会事務局が旧ソ連製旅客機イル14を手配した。しかし江西省軍区が緊急通達を受け、鄧小平は軍区参謀長率いる護衛隊と共に、臨時連結された一等個室の専用鉄道車両で北京に向かうことになったが、このイル14はその後、北京に向けて飛行中に安徽省上空で空中分解した。

 1975年、山歩き中の狙撃事件

 1975年9月、鄧小平、華国鋒、江青ら一行が、当時農業の規範モデルとされた山西省大寨村で「大寨に学べ」という現場会議を主催した。大寨招待所に宿泊した鄧小平が夕方、秘書や護衛と共に山を散策していたところ、突然何者かに銃で狙撃された。狙撃は失敗したが、犯人は未だに捕まっていない。

 1976年、軟禁中の招待所が火事に

 1976年の「四・五」天安門事件(第一次天安門事件)後、デモの首謀者とみなされた鄧小平は党内外の全ての職務をはく奪され、北京軍区の玉泉山招待所5号棟の1階に軟禁されていた。4月のある夕方、同招待所1階で電源のショートによる火災が発生し、すべての部屋が焼け落ちた。その夜、思想教育の学習に参加した後浴場へ行った鄧小平は、難を逃れた。

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