【百年真相】中共がひた隠す 中国史上唯一の民主選挙は1948年に起きていた

2026/03/31
更新: 2026/03/31

毎年3月になると、中国大陸では「全国人民代表大会」が予定通り開催される。中国共産党(中共)はこれを「全過程人民民主(あらゆる過程において人民が主役である民主主義)」であると大々的に宣伝し、代表の一人ひとりを「民意の代弁者」として仕立て上げる。滑稽なのは、1954年から70年近くも代表を務め続けた申紀蘭だ。彼女は「普段、有権者と交流していますか?」との問いに対し、「いいえ。私たちは組織の民主的な選出に従っているのですから、個別に有権者と会うような不適切なことはしません」と、民主主義の定義を根底から覆すような回答をした。

このような「民主」などは単なる子供騙しであり、絶望すら覚える。

しかし、歴史は私たちに、中国にもかつて真の民主選挙があったことを教えてくれている。1948年、国共内戦の戦火の中で、農婦から兵士、知識人から辺境の少数民族に至るまで、数億人の中国人が投票用紙を手にし、自らの手で国民大会代表を選出した。そして、選ばれた代表たちの手によって、国のリーダーである総統が選ばれたのだ。

本稿は、中国大陸の歴史上、唯一にして正真正銘の全民選挙について紐解いていく。

蔣介石の宣告:憲政時期への突入

総統選挙を実施するためには、まず「憲政時期」に入らなければならない。では、憲政時期とは何だろうか。

20世紀初頭の中国はまさに多難であった。外には列強の圧力を受け、内では軍閥が混戦し、民衆の暮らしは困窮を極めていた。

1911年、孫文が指導する辛亥革命が勃発し、満州清朝政権を打倒して中華民国が成立した。

国家の統一と現代的な民主制度の確立を実現するため、孫文が率いる国民党は「軍政・訓政・憲政」という三段階の概念を提示した。

軍政時期(1924年〜1928年)には、国民政府が北伐を行い、中国をほぼ統一した。

訓政時期は過渡期である。この段階で国民党政府は、孫文の「三民主義」(民族・民権・民生)に基づき、民衆に政治知識を教授する「訓導」を行い、民主政治に参加できるよう憲政実施の準備を整えた。

そして憲政時期こそが最終目標であり、人民が指導者を直接選挙し、現代的な民主制度を確立する段階を指す。

1936年、中華民国政府は憲法草案をほぼ完成させたが、直後に抗日戦争が勃発し、制憲作業は一時中断を余儀なくされた。

1945年の抗戦勝利後、国共両党は平和的な建国問題について重慶交渉や政治協商会議を相次いで開いたが、交渉は失敗に終わった。中共が真剣に和平交渉に取り組む姿勢がないと見限った国民政府は、単独で憲政を推進することを決定し、1946年末に「制憲国民大会」を招集して憲法を制定すると宣言した。

1946年12月25日、「中華民国憲法」が通過。31日、蔣介石は南京で憲法発布令に署名した。

「中華民国憲法」は1947年1月1日に公布され、同年12月25日に正式施行。中国は憲政時期へと突入した。

国民大会代表の選挙

憲政時代の第一歩は、中華民国第一回国民大会代表を選出し、その後に代表たちが総統および副総統を選挙することであった。

憲法に基づき、全国で3045名の「国民大会代表(総統を選挙する議員)」が選出される予定となった。中国は広大であるため、各省の投票日は完全には一致せず、1948年1月21日から23日にかけて実施された。

中国史上初の選挙に参加し、自らの手で代表を選ぶことに、当時の人々は非常に興奮した。

ある著者の回想によれば、小学校の「公民」の教師が授業中に大興奮でこう語ったという。「我が中華民国で国を挙げた初の大選挙(総選挙)が行われる。これからは国民が選んだ総統が国を治めるのだ」。

浙江省余姚(よよう)を例に挙げよう。当時、余姚は一つの県であり、国民代表の枠は1名、候補者は2名であった。

一人の候補者は地元・周巷鎮の出身で、抗戦勝利後に余姚県長を務めたことがあり、地元では誰もが知る人物だった。もう一人の候補者は女性で、四門鎮の出身、蔣介石夫人である宋美齢が留学していた時からの親友であった。

つまり、余姚の選挙は「地元叩き上げ」と「海外派エリート」の争いとなった。

投票の際、周巷の人々の多くは同郷の男性に、四門の人々は同郷の女性に票を投じた。

最終的には、知名度で勝る男性候補者が勝利を収めた。

また、この著者は新聞で、上海のある候補者が「陽春麺(かけそば)」で票を集めていたという記事を読んだそうだ。彼に一票を投じれば麺が一杯無料になるという。生活が苦しかった当時、温かい一杯の麺は多くの人々にとって大きな誘惑であった。

立法委員の選挙

総統を選出する「国民大会代表」の選挙と並行して、全国各地で立法委員選挙も行われた。

訓政時期の立法院は国民政府の付属機関に過ぎなかったが、憲政時期に入ると真の民意機関となった。現在も台湾には立法院が存在し、2024年から2028年は第11期立法院にあたる。

立法院では計700名余りの代表を選出することになった。当時の中華民国が名目上統治していた中国の人口4億7千万人で計算すると、平均して60万人に1人の代表を選ぶ計算になる。

立法委員の選挙方式は国民大会代表とは異なり、地域、職業、および自治民族の三つの枠組みで定数が割り振られた。その大部分は地域代表である。例えば、人口300万人以下の省からは5名、300万人を超える場合は100万人ごとに1名を追加し、さらに女性代表の枠も確保されていた。

当時の直轄市は南京、上海、北平、青島、天津、重慶、大連、ハルビン、漢口、広州、西安、瀋陽の12都市あり、各5名ずつの枠があった。

少数民族地域も除外されてはいない。モンゴルとチベットの自治区には計6名の枠が設けられた。

その他、工業団体、教育団体、労働団体、華僑団体なども、資格を持つ有権者が直接代表を選出した。

計算上、この選挙では計773名の立法委員が選出される予定であった。しかし、中国共産党が選挙参加を拒否し、新疆やチベットで全代表を選出できなかったため、最終的に選出されたのは759名であった。

1948年5月、これらの立法委員が南京に集結し、孫科を立法院院長に選出した。

民衆の参与と熱狂

1948年の選挙は、現代の西洋の選挙と似ていた。20歳以上の市民は有権者登録ができ、投票方式は「単記、無記名、秘密」であった。

一部の職業団体や自治区の少数民族を除き、全国各地に選挙事務所(投票所)が設置され、人々は近場で投票することができた。

当時の写真を見ると、投票所にはボーイスカウトが立ち、秩序を維持している様子がわかる。

投票所内には記載台が用意され、有権者は秘密裏に投票できた。また、投票のルールを説明する係員も配置されていた。

人々の熱意は高く、労働者、農民、女性、知識人、国軍兵士、少数民族など、あらゆる階層の人々が詰めかけた。

総統候補であった蔣介石も、一般市民として南京の投票所で一票を投じた。

当時は国共内戦の最中であったが、中国史上初の選挙に対する関心は極めて高く、ラジオは絶えず情報を流し、新聞は号外を発行した。選挙はまさに「抗日勝利以来、最大のイベント」であった。

残念ながら、当時の国民政府は全国の投票者数を統計していなかったが、もし有権者の30%が投票したと仮定すれば、約1億5千万人が参加したことになり、当時としては世界最大の民主投票と言える。

投票率自体は低かったかもしれないが、この国民大会代表および立法委員の選挙は、今日に至るまで、中国大陸において国民が直接投票で代表を選んだ唯一の選挙である。

総統選挙

続いてのメインイベントは、総統および副総統の選挙である。

憲法の規定により、候補者が過半数の票を獲得して初めて当選となる。

総統候補は蔣介石と居正の二人であった。蔣介石については説明不要だろう。居正は清朝を倒した革命組織「中国同盟会」の初期メンバーの一人で国民党の元老であり、かつて国民政府の司法院院長を務めた人物だ。

居正はかつて孫文の「連俄容共(ロシアと連帯し中共を受け入れる)」路線に公然と反対し、蔣介石とも対立した過去があるが、抗戦勃発後は和解し、心を一つにして抗日に励んだ。一部の国大代表が連署で彼を総統候補に推薦したのである。

国民大会代表による投票後、公開開票が行われた。結果は、蔣介石が2430票、居正が269票であった。

当時の写真は、現在の米英など西洋諸国の選挙結果発表の光景と非常に似通っている。

興味深いことに、35票の無効票があった。棄権した者、印を書き間違えた者、孫文の名前を書いた者、あるいは蔣介石の名前の上に「二重丸」を書いた者などがいたのである。

激戦の副総統選挙

総統選挙に懸念がなかった一方で、副総統選挙は実に白熱したものとなった。李宗仁、孫科、程潜、于右任ら6名が立候補を表明し、そのうち4名は国民党、1名は中国民主社会党、1名は無所属であった。

副総統も過半数の得票が必要であり、誰も過半数に届かない場合は最下位を脱落させ、次の回へ進む仕組みであった。

候補者の中で知名度が高かったのは李宗仁と孫科である。李宗仁は広西派軍閥の出身で、抗日戦争で武功を挙げた人物。孫科は孫文の一人息子であり、当時は国民政府副主席、立法院院長を務めていた。

蔣介石は孫科を支持した。正副総統のバランスを考え、副総統には文官を据えたかったからだ。また、李宗仁とは以前から折り合いが悪く、彼が足かせになることを危惧していた。

投票期間中にはハプニングも起きた。4月24日の第2回投票後、蔣介石は程潜に辞退を求め、程潜はこれに同意した。

これを知った李宗仁は「退くことで進む」戦略をとり、自らも辞退を宣言。これにより候補者が孫科一人となり、孫科もやむなく辞退を表明した。

蔣介石は白崇禧を呼び出し、李宗仁に「自分はどちらにも偏りはない。ぜひ出馬を続けてほしい」と伝言させた。その後、国民大会代表主席団は胡適を立てて李宗仁を説得した。

こうして第3回、第4回の投票が行われ、最終的に李宗仁が1438票、孫科が1295票を獲得した。李宗仁の票は過半数には届かなかったものの、選挙法の規定に基づき相対的多数を得たことで当選が決まった。

就任式

1948年5月20日、南京で蔣介石と李宗仁の盛大な就任式が行われ、各国から3千名以上の来賓がその瞬間を見守った。これ以降、中華民国の正副総統の就任日はこの日に定められている。

しかし、春の夢は長くは続かなかった。1949年、国民党は台湾へ敗退し、中共が権力を奪取。中国大陸から民主選挙の火は消えた。

これ以後、中国大陸に民主選挙が戻ることはなかった。中共の一党独裁の下、「憲法」も民主諸政党も単なる飾り物と化した。

1948年の選挙は、中国大陸における最初で最後の民主選挙となったのである。

李紅