THE EPOCH TIMES

【神韻芸術】伝統文化の復興、帰国者に迫る大陸の追憶

2008年02月16日 10時23分
  【大紀元日本2月16日】神韻芸術祭が掲げるテーマに、中国の伝統文化の復興がある。中国は、伝統文化がことごとく破壊された文化大革命など、不幸な歴史をたどったことは周知の事実である。しかも、著しい経済発展で急速な進歩を遂げているかのように見せてはいるが、人間性を無視した社会のひずみは今なお多く残されていることも、低調ながらも日本で報道されはじめている。日本人の多くは、大陸で起きたこうした中国の激流の歴史を他人事のようにしかとらえられないが、それを実体験し生き延びて帰国した残留孤児の存在を忘れてはいけない。そうした人々は、日本人の知らない中国の多くの真相を語ることができるからだ。

  12日、13日の新宿厚生年金会館ホールに続き、15日夜には文京シビックホールでも神韻芸術祭の東京公演が催され、会場には中国大陸からの帰国者やその関係者の姿も見られた。初等教育を大陸で受けた年配の帰国者にとっては、大陸にいた頃を追憶させる機会ともなった。

  会場には、本紙連載中の中国残留孤児の手記『縁』の著者でもある飯塚正子さん(73)も駆け付け、自らのアイデンティティーの一部である中国文化と大陸での思い出について、こう語ってくれた。「私が大陸で初等教育を受けた当時は、まだ台湾のように繁体字を使っていました。共産党はすでに発足していましたが、まだまだ駆け出しで、中国の一般大衆も今より遥かに貧乏でしたが、民情はすばらしくやさしかった」。

  飯塚さんは東京で出生したが、1943年に満州開拓団の一員としてわずか8歳で家族とともに黒龍江省に渡り、現地で終戦を迎えて、中国大陸で初等教育を受けた人だ。共産党は、すでに49年に政権を樹立したが、黒龍江省の田舎にはまだまだプロパガンダの嵐が吹くことはなかったという。

  「あの当時、黒龍江省の片田舎の庶民は、非常に貧しく、文字も書けず教養もありませんでしたが、両親をなくして孤児になった日本人のわたしに食料を分け与え、養子として育ててくれました…当時は、娯楽らしい娯楽など中国東北部の片田舎になどなく、一年に数度だけたまにハルピンから、自転車に映写機を担いだ人が村に来て、春先から夏にかけて、夜の青空映画を催していたぐらいです。後は、農作業を延々とやっていました。一日が非常に長く感じたものです」。

  当時の黒龍江省の片田舎には、テレビは勿論のことラジオもなく、新聞もたまに見かける程度で、本といえば共産党の建国精神を伝えるようなものだけで、外国の有名小説や哲学書の類は、すでに検閲の対象として発禁処分となっていたという。

  「当時、小学校はおろか中学進学も難しい状況でしたが、周囲の理解もあってか運よく進学できました。中学では、古文の授業が始まり、唐代の漢詩なども勉強するようになりましたが、共産党の思想と衝突するものは避けられました。しかし、文革の嵐の前だったので精神的には毛沢東思想に苦しめられることもありませんでした」。

  それが文革になると、一般大衆は毛沢東の影に怯え、公安を恐れて、毛沢東万歳を無理やり連呼させられていたが、心中は皆が怒りに震えていたという。「ある日、学校の食堂に行ったら、食事を受ける順番を待つ列中の脇に毛沢東の肖像があり、そこで万歳をして感謝を述べてから、順番に加わるようにシステムが変わっていて唖然としました」。

  文革を境にして、共産党は中国大陸で古典文化を否定するようになり、神韻芸術祭などに見られるような古典芸術は、長春のような都会でもついに見かけることはなかったという。「その替わりに鮮烈に目に焼きついているのは、男女とも緑色の人民服に身を包んでの、軍隊式の直線的な党賛歌の舞踊でした。全体的で、とても恐ろしい気がしました。その代表が、紅衛兵でした」。

  一般社会で共産党賛歌の芸術が吹き荒れる中、庶民の心を和ましていたのは、民謡と秧歌(ヤンコ:田植え踊り)であったという。「共産党が作らせた歌は非常に不自然でしたが、農村に古くから伝承されていた歌謡は、とても自然で楽しいものでした」と飯塚さんは述懐する。

  文革中は、学校で反日・反米教育が促進されたために、残留孤児は中国社会で冷たい眼で見られ、頼みにする人もなく、ただひたすら忍耐の日々であったという。「もし、残留孤児どうしで集まって話し合いなどしたら、事態はもっと大変なことになります。したがって、個人でじっと耐えるしかありませんでした」という。

  共産党は、学校の授業で歴史を歪曲して教え、反米・反日をあおり、民衆の不満のはけ口を外国に向けさせる一方、毛沢東と共産党を礼賛した。当時、高校生が大学に進学する際には、出身身分が一番大事で、労働者や党関係者が優遇されたが、両親が日本人という身分は最悪の部類であったという。

  「それでも私は、師範大學に進み、それからさらに勉強を続けて長春でも学びました。それから、高校の国語の教師になりました。教師になってからは、さすがに孤児だからといって虐められることもなくなりました。私自身、学生が好きであり、熱心に教えましたから、学生たちの尊敬を集めることができたからだと思います」。

  「しかし、文革では、毛沢東が造反有理をスローガンに紅衛兵をけしかけたために、校長以下の教師も大変な思いをしました。当時、北京師範大學・付属中学の校長は、このためにリンチによって殺害されました」。

  文革が吹き荒れた1966年から76年の10年間、国民は政治運動に駆り出され、この間は工場もろくに生産せず、大学は入学を受け付けず、国内の経済力は失墜して、国民みなが貧乏になってしまったという。「大学で専門教育を受けた人は、(都市から地方に)下放されて労働改造されました。そして、労働者が学校のリーダーとなったのです」。

  文革中は、全国的な政治運動によって不実な人が不慮の死を次々と遂げていき、そのような混乱の中で、人々は次第に「麻木(感覚の麻痺)」をきたしていったという。そして、76年9月に毛沢東が死去したことにより文革は終局を迎え、残留孤児たちは帰国のパスポート受領を申請することができた。飯塚さんは、これにより翌年の77年春に故国日本の土を再度踏むことに成功した。

  しかし、これ以降飯塚さんは日本に定住したわけではなく、文革終了後に中国国内で大学の受付が再開したために、教師不足の事情から中国側の要請を受けて、帰国の志を胸に秘めつつも、さらに8年間を教壇の上で過ごし、その後、家族とともに改めて帰国の途に付いた。折しも、日本国内はバブル景気に沸き始めた頃であった。

  ※神韻芸術祭日本公演は、東京・名古屋・大阪の三都市で計9公演行われ、東京公演(2月12~15日)は数々の感動を残して終了。2月17日は午後1時と同6時から名古屋・名鉄ホールで、19日・20日は午後2時と午後7時からNHK大阪ホールで行われる。お問い合わせは、名古屋(052-822-0280)、大阪(06-6967-2629)まで。

 
(記者・青嵐)


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