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なぜカナダの最大野党・保守党は選挙で連敗するのか

2025/05/27
更新: 2025/05/27

今年の連邦選挙で、カナダ最大野党・保守党のピエール・ポワリエーヴル党首が敗れたのは、単なる戦略ミスやメディアの偏向によるものではなかった。それは、カナダの保守派が半世紀にわたってたどってきた文化的後退というパターンの、新たな一章を示していた。保守派が経済について語る一方で、左派は文化を、ひいては未来そのものを掌握している。

10年間のアジア駐在を終えて帰国したカナダ人として、かつて故郷と呼んでいたこの国が倦怠期に入っているのを目の当たりにしてきた。住宅は手が届かないほど高騰し、犯罪は増加の一途をたどり、国民的な言説は脆くなっている。それでもなお、必然的な進歩、多文化の調和、道徳的優越性といった公式のナラティブは、頑なに維持されたままだ。欠けているのは繁栄だけではなく、意味、自信、そして文化的な明確さである。

保守派は、この進歩的なナラティブ(ストーリー)に挑戦することに一貫して失敗してきた。ジョン・ディーフェンベーカー氏からスティーブン・ハーパー氏に至るまで、彼らはカナダ社会を支える文化的前提にはほとんど触れず、もっぱら経済の管理者として統治してきた。

ポワリエーヴル氏が次期首相として期待を集めていた時期でさえ、彼はインフレや政府の介入からの「自由」には焦点を当てたが、首尾一貫したカナダのアイデンティティのための「自由」は、ほとんど提示しなかった

このパターンは明らかだ。保守派が税制改革を進める一方で、左派は学校、メディア、官僚機構、裁判所を通じて国家の物語を書き換えていく。勝利でさえ、防戦的で一時的なものに感じられる。その結果どうなるか。財政問題においては保守的な考えが辛うじて容認されるが、道徳や文化に関する議論からは排除されてしまう公共空間が生まれるのだ。

ポワリエーヴル氏の経済的自由を求めるメッセージは、住宅費の高騰、サービスの低下、そして機会が遠のき、自分たちの手の届かないところへと引きずり込まれていくという感覚に幻滅している若い有権者の共感を呼んだ。しかし、彼の選挙運動には文化的な勇気が欠けていた。彼は「カナダ人であることは何を意味するのか?」「私たちは何を守るべきなのか?」といった、国民生活に活力を与える問いを避けた。こうした問いを避けたことで、彼はより深い争点から手を引いたのである。

保守派の一部では、「文化戦争」を不真面目なもの、あるいは経済政策や憲法統治の本筋から注意を逸らすだけのものとして切り捨てる風潮がある。だが、歴史はその見方が誤りであることを示している。国家とは、私たちが自分自身に語る物語にほかならない。

その物語の主導権を失えば、国家そのものを失うことになる。左派はこのことを理解している。だからこそ、彼らは官僚機構や労働組合だけでなく、学校、企業の人事部、放送局、芸術評議会、映画委員会といった文化的拠点の支配をめぐっても戦うのだ。予算は移ろい、政権は栄枯盛衰を繰り返す。しかし、文化的制度は、人々が自分自身をどう捉えるか、そして指導者に何を求めるかを形作る力を持っている。

対照的に保守派は、不寛容だとか意地悪だとかいうレッテルを貼られることを恐れ、対立を避けてきた。その結果、保守的な有権者たちは、制度的な孤立感のようなものを味わうことになった。ポワリエーヴル氏は、このパターンを打ち破る用意があるように見えた。だが、肝心なときに彼はひるんだ。たとえば、2024年の米大統領選でトランプ勝利の一因ともなったジョー・ローガンのポッドキャストへの出演といった、大胆なチャンスを見送ったのである。代わりに彼は安全策をとり、そして敗北した。

しかし、その敗北は単なる戦術的なものではなかった。それは文明的な敗北でもあった。アイデンティティ政治、被害者意識、そして形骸化したリベラリズムといった文化的な正統性に挑むことを拒んだことで、ポワリエーヴル氏が示したのは「刷新なき救済」にすぎなかった。そして、カナダ国民はそれに気づいた。選挙戦の終盤、彼の姿勢ににじんだアンビバレンス(両義性)が、かつての明晰さを曇らせた。彼もまた、結局はただの政治家に過ぎないのか、と多くの有権者が問いかけた。

保守派の後退は、一夜にして始まったわけではない。それは、左派が長年にわたって理解し、右派が長年にわたって無視してきた事実の結果である。すなわち、政治は文化の「下流」にあるということだ。その逆ではない。保守派が財政の均衡に努めていた間に、進歩派は教育機関の改革を進めた。

かつては西洋文明の柱として歴史、文学、哲学を教えていた大学は、今や西洋文明という概念そのものを解体する場となった。公共放送は、かつての「国をつくるメディア」から、「ナラティブを管理する装置」へと姿を変えた。さらには、小学校でさえ市民性や公民的美徳が「インクルージョン(それぞれの個性や能力、考え方を認め合いながら活躍できている状態)」やアイデンティティ政治に置き換えられていった。

保守党の各世代は、こうした文化的変化と折り合いをつけられると自らに言い聞かせてきた。ブライアン・マルロニー氏は、たとえ誰がメディアを支配しようと、自由貿易さえあれば繁栄は確保できると考えていたようだ。スティーヴン・ハーパー氏は、あたかも財政管理と安全保障政策だけで文化の腐敗を乗り越えられると信じていたかのように振る舞った。ポワリエーヴル氏もまた、その雄弁さにもかかわらず、多様性や多文化主義、急進的進歩主義といった「聖域」にはほとんど触れず、経済的な不満を巧みに利用しようとした。

左派は文化の構築をやめなかった。彼らは保守派が理解していないことを理解していた。学校を制し、メディアを制し、歌を制すれば、次世代の魂をつかむことができるのだ。進歩派が文化的な高みをつかむ一方で、保守派は財政の議論に閉じこもり、数字が物語ることを期待した。しかし、スプレッドシートは人々の心を動かすことはできない。ナラティブはそうさせるのだ。

カナダの保守主義は今、選択を迫られている。衰退を続けるのか、それとも説得力のある道徳的なビジョンを提示するのか。それは、家族、信仰、伝統に根ざした保守主義を取り戻すことを意味する。自由を可能にする秩序。単なる権利ではなく、責任としての市民意識だ。

未来を勝ち取るために、保守派は文化を二次的なものとして扱うのをやめなければならない。腐敗したイデオロギーに異議を唱え、信じるに値する物語を示す必要がある。義務や尊厳、共通の目的を語る物語を。

それがなければ、討論では勝っても国を失うことになる。

この記事の原文(完全版)は、カナダメディア「C2Cジャーナル」に最近掲載されたものである。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
カナダメディア「C2Cジャーナル」のアソシエイト・エディター。ウェスタン・オンタリオ大学で学士号を、クイーンズ大学で修士号を取得して以来、カナダ、韓国、中国、ベトナムで中等教育および高等教育の英語カリキュラムの設計と指導に携わっている。