人の世を治めた第十七代の天子、仁徳帝と申される方は、難波高津(大阪)に都を移された。この御方は大鷦鷯(おおさざき)の御子と号(ごう)される。御弟の稚郎子(わかいらつこ)と帝位を譲り合われたこと三年に及ぶ。されど兄君がついに御位におつきになった。
もとより慈しみ深き御代の主であらせられ、万民の貧苦をお痛みになった。三年の間、民の課役をゆるされ、お召し物が破れても新たに織られなかった。その徳は天に通じ、風雨時にかなって五穀豊穣となり、土着の民や百姓らは喜びて貢(みつぎ)を奉じた。仁徳帝の御心はことのほか麗しく、高台に登られ、民家の煙の豊かな様子をご覧になった。
【江戸時代の往来物(教科書)『百姓往来』より】
現代も響く、仁徳帝の御心
仁徳帝の治世のエピソードとして「民のかまどの話」は有名だ。人の上に立つ治世者のあるべき姿・理想像として語り継がれてきた。
仁徳帝の高貴さを偲ぶエピソードにふさわしく、「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」という和歌として詠まれている。
仁徳帝が高台に登ってみると、人家の「かまど」から炊煙が立ち上っていないことに気づかれた。そこで租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事も着るものも倹約され、さらに、宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった。
やがて、そうした仁徳帝の仁愛が通じたのか、民は熱意を持って努力して働き、次第に豊かさを回復していく。先の「かまどの歌」は、回復した喜びの御歌なのだ。
古(いにしえ)の天子が民の竈の煙に安らぎを見いだされたように、豊かさの姿が見えにくい今の世にも、為すべきを思い、民の暮らしの温もりを重んずる心を取り戻したい。仁徳帝の御心は、いまもなお問いかけ続けている。

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