『九評』編集部新刊『共産主義の最終目的』

第五章(下)邪霊が位を簒奪し文化が廃れる

2019年06月16日 23時15分

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第五章(上)邪霊が位を簒奪し文化が廃れる

目次

4. 富ありて徳もある 内を修めて外を安定させる
5. 人倫の典範と正気を抑え邪を崇める
6. 伝統芸術は神を称え 邪悪な共産党芸術は魔を祭る
7. 普遍的価値「真、善、忍」に対抗する中国共産党
1) 普遍的価値が「無神論」のタブーを打ち破る
2) 中国共産党邪教と江沢民が互いに利用しつつ、普遍的価値に挑む
3) 「欲望」を以って普遍的価値を取り替える
4) 正しい信仰に対する共産主義邪霊の迫害は必ず失敗する
終わりに

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4.富ありて徳もある 内を修めて外を安定させる

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古人曰く、金銭は身体の外にあるものです。人々は皆このことを知っていますが、人々は皆これを求めています。壮年者は欲を満たすため、女性は見栄えのため、年配者は老後の心配をなくすため、知識のある者は名声のため、役人はこのために仕事に尽力する、等々。人々はそのような理由によって金銭を求めるものです。

甚だしい者は金銭のために争い、強者は危険をも冒します。怒りの収まらない者は金銭のために犯行に及び、嫉妬する者は金銭のために怒って死にます。民を富ますことは君主と大臣の役目ですが、拝金主義は卑しいことです。富はあるが徳がない者は衆生に害を及ぼし、富があり徳もある者は皆の望むところです。したがって富がある者は徳を広めなければなりません。

徳は生前に積むものであり、国王、大臣、巨万の富、貴い身分などはいずれも徳によるものです。徳がなければ得られず、徳を失えばすべてを失います。したがって権力や財産を得ようとする者は必ず徳を積まなければならず、苦を嘗めて善い行いをすれば多くの徳を積むことができます。そのためには必ずこの因果関係を知らなければならず、これをはっきりと理解することができれば、為政者と一般大衆は自制することができ、天下は裕福で平穏になります。

    (李洪志「富ありて徳もある」、一九九五年一月二十七日)

人が徳を重んじなければ、天下は大いに乱れて治めることができません。人々は互いに敵対し合い、生きていても楽しくありません。生きていても楽しくないため、生死を恐れなくなります。老子は「民衆が死を恐れなければ、どうやって死をもって恐れさせることができるのか?」これは大きな脅威の到来です。天下太平は民衆の願いですが、もし法令を増やすことによって安定を求めようとするならば、逆効果でしょう。天下が太平ではないという憂いを根治するためには、遍く天下において徳を修めなければなりません。大臣が私腹を肥やさなければ汚職や腐敗は起こりません。民衆が徳と教養を修めれば、為政者と民衆が共に自らの心を修めることとなり、国家全体が安定します。民衆は心から為政者を慕い、国家のまとまりが強くなり、外敵を寄せ付けません。こうして天下の太平が保たれます。これこそ聖人の為すことです。

(李洪志「内を修めて外を安定させる」、一九九六年一月五日)

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伝統的な中国人は、「厚徳載物(こうとくさいぶつ)」と考え、徳は幸せと富みの根本であり、幸運や財産はみな徳から転化されるものだと思っていた。徳は水のようであり、富は船のようなものであるため、水が浅ければ船を浮かすことができないのだ。「徳がその位に釣り合わない」状態は、人に禍(わざわい)をもたらすとされていた。君主にとって、身を修め徳を重んずることは治世の根本である。君主や大臣が神と天を敬い、道徳が高尚であってはじめて、社会全体の人々を善へと導くことができ、国家を安定させ、社会の動揺と外敵の侵略を避けることができる。こうして国民が富み、安心して生活することができる。黄河が清くなり荒海が静かになるように、天下泰平に達するのだ。したがって、歴代の聖王はみな心を正し身を修めることを根本とし、「心を正すことをもって朝廷を正し、朝廷を正すことをもって百官を正し、百官を正すことをもって万民を正し、万民を正すことをもって四方を正す」。伝統的な王朝の先皇明主、たとえば伏羲、黄帝、堯、舜、禹、漢の武帝、唐の太宗、明の成祖、清の康煕帝などの統治手法は中華五千年の王者の道を成就した。

道徳は強い親和力をもっており、人々はそれに憧れ、尊び、親しく従い、自ら行うようになる。舜が堯によって歴山に派遣されるまで、歴山の人たちは土地を争って戦っていた。しかし舜の道徳的感化を受けて、一年後に歴山の人々の間には礼譲の気風が広まった。舜が新しい所に赴くたびに、その地方の民風が純朴となり、人々は彼の近くに引っ越してきた。舜が行く先々のところは、一年で村落になり、二年で都市になり、三年で都と称するにふさわしい規模になった。堯帝は舜に道徳の教化を担当させ、世の人に父義、母慈、兄友、弟恭、子孝という五倫に従わせるよう命じた。民衆は自らその五倫に従い、睦まじく暮らすようになった。こうして泰平な世の中になり、「天下の明徳はみな虞(ぐ)帝より始まる」(『史記・五帝本紀』)として知られた。

聖王は国を治める際に、常に国民の福祉を忘れなかった。貞観(じょうがん)六年(632年)十二月末、唐の太宗皇帝が死刑囚の監獄を視察した。間もなく新年を迎えるのに、家族にも会えず牢獄につながれたままの犯人たちを見て不憫(ふびん)に思った太宗皇帝は、死刑囚をみな家に帰し、翌年の秋に長安の監獄に戻って刑に服するよう命じた。死刑囚に約束を守ってもらうという決定は、砂上の楼閣にちがいないと思われていた。しかし、翌年の九月に、390人の死刑囚は護送なしに全員そろって長安に戻った。「みな時期通りに自ら朝廷に詣で、亡匿した者は一人もなかった」(『資治通鑑』)。太宗皇帝が誠実と信用をもって衆生を教化し感化したため、たとえ死刑囚であっても信用を守り、死刑を受けるために監獄に戻ったのだ。太宗皇帝はこれらの死刑囚たちに恩赦の減刑を施し、このことも千古の美談となった。

清の康煕帝はほぼ毎年、租税減免の措置を施した。康煕十八年、淮河の整備が終わり、元の氾濫区域が良田に変わったため、農民にそこで耕作するよう呼びかけた。康煕帝は、順天、江南、山東、山西、河南、浙江、湖広など被災した261の州・県の租税を免じた。当時、三藩の乱がまだ鎮まらなかったが、天災に遭った年のため、租税を免じることにした。朝廷は毎年、異なる地区を対象に租税免除の政策を実施した。康煕帝は在位していた六十二年の間、天下の租税を545回も免じ、その額は銀に換算すれば1.5億両に達する。それは当時の財政収入(銀換算で2000万~3000万両)の5倍から7倍に相当する。

聖王は民に恵みを施すのみならず、道徳を向上させようと民を教化した。道徳が高尚になれば、天は自ずと人に福を賜わるのだ。

聖王たちは世の人々のために千古にわたる加護、万世にわたる徳行を残した。明の成祖(永楽帝)が鋳造を命じた「永楽の大鐘」は、古今各種の鐘の集大成として「佛鐘の王」と呼ばれている。それは世界で最も重く、最も大きい佛鐘であり、鐘の表裏の至る所に佛教の経文が刻まれている。表には『佛説阿弥陀経』、裏には『妙法蓮華経』、縁には『金剛般若経』などが刻まれ、合計十七種類の経文が刻まれている。

『長阿含経(じょうあごんきょう)・闍尼沙経(じゃにしゃきょう)』の記述によれば、梵音(ぼんおん)には五つの特徴がある。「一つは、その音は正直である。二つは、その音は和やかで雅やかである。三つは、その音は澄み切っている。四つは、その音は深く豊満である。五つは、その音は遍く遠くまで響く。この五つを有するゆえ、梵音と名付けられる」。成祖は、梵音を伝える目的は、「普く衆生のために法輪を転じ」、「あらゆる十方衆生」を含む「普くあらゆることに利する」ためである、とその心を明らかにした。「永楽の大鐘」の音は、その音声や音義がいずれも梵音に合っている。この鐘を一回撞くと、「各々の字が鳴り響き」、遍く遠くまで響き渡る。鐘身に刻まれている二十三万字もの経文、佛号および梵語も、鐘の音とともに人々の耳に入り、人々の心にまで届く。佛法が人の世の物質の場に沁み込み、世の人を覚まし、仏法を広め、万民を善へと導く功力と功徳は実に測り知れない。

聖王の道を見た後に、共産党邪教の国を害する策を観てみれば、共産主義邪霊が道徳文化を破壊する邪悪な方法が明らかになる。中華五千年の文化を最もひどく破壊した中国共産党の首領・江沢民を例にして見てみよう。妖怪がごとき江沢民は、あらゆる邪悪さを備えており、凶悪、陰険、狡猾、残忍、暴虐、淫乱などの悪行は枚挙にいとまがない。江沢民は腐敗と汚職を統治の根本に据えたが、彼の共産党に対する最大の「貢献」は腐敗を制度化し、それを完備させたことだ。江沢民は進んで道徳を破壊する手本を示しただけでなく、法輪功学習者に対し残虐な迫害を行った官僚や、誰よりも汚職、腐敗、女遊びに興じる無能な者を抜擢してきた。江沢民派これらの者を使って善良な人々を弾圧し、邪気を助長させた。江沢民に抜擢された高官の中で、汚職や過度な淫乱などにより失脚した者は何百人もいる。このほか、江沢民の在任中には偽物や有害食品が横行し、北京を含む多くの都市が人間の居住に適さないほどひどく汚染されてきた。江沢民が発明した「金銭外交」は世界中に汚職と腐敗を輸出し、世界各国の政府と官僚を堕落させた。彼は『聖書』に描かれている「売春婦」のように、関係を持った者を漏らさずに罪の深淵に引きずり込んだ。邪霊は、諸々の邪悪を一身に集め、世を乱す化け物である江沢民を利用し、未来永劫復活することができない深淵に人類を突き落とそうとした。

江沢民が最高の権力を得られたのは、共産主義邪霊の「統治モデル」にとって必要だからだ。すなわち江沢民は、共産主義邪霊が全面的に社会の道徳を退廃させ、伝統文化を破壊するという目的を達成する上で最適な人物だったのだ。江沢民が年齢を理由にやむを得ず引退しても、邪霊は江沢民派の残党に政権の重要ポストを占めさせ、「真、善、忍」を迫害し、中国人の伝統的道徳を破壊し、ついには中華民族の存続する道を断ち切らせようと段取りしたのだ。むろん、それと共に共産党も自身の悪事によって崩壊に追い込まれてしまう。江沢民の邪悪極まる行為は、共産党の化け皮を剥がし、悪魔の身体を白日の下に曝した。同時に、共産主義邪党の墓穴もすでに掘られている。

5.人倫の典範と正気を抑え邪を崇める

中国伝統文化は、人の徳性を非常に重んじ、古書には高い道徳心や善なる者になるよう諭す章句が随所に見られる。五千年の歴史を紐解けば、あたかも豊饒(ほうじょう)たる人物像を展示する画廊に入ったようであり、諸々の性格を持つ人物が次々と現れてくる。そこには、粛然として尊敬の念を抱かせる聖王があれば、敬服させられる英雄があり、慨嘆させられる侠客(きょうかく)もある。彼らに読者は憧れの念を抱かざるを得ない。

最も意味深長なのは、歴史書の記載の中において、少年時代の品行や容貌、振る舞いからその人の将来を予見することができることだ。漢王朝の成立期、劉邦を補佐し天下を取った韓信は、中国古代において最も輝かしい名将軍であった。彼は、当時の人々から「無双の国士」「無二の功績、稀代の謀略」と称賛され、後人から「戦神」「兵仙」と尊ばれた。歴史書には、少年時代の韓信の「股くぐりの辱め」という故事が記されているが、韓信は大きな忍の心を持っているからこそ、そのような偉業を成し遂げることができた。この故事は後世の人々に、心を修め徳を養うことについて非常に深い影響を与えた。

中国伝統文化で「徳」が重んじられていたのは、神の導きによるものだ。伝統的な中国人は、徳を一種の物質だと考え、徳の多い人は良い人であり、徳の少ない人は悪い人とされていた。持っている徳の量によって、かなりの程度において、人の悟性の良し悪しが定まるものだ。徳が多ければ悟性が良く、神の教えを理解しやすくなる。逆に、徳が少なく悟性が良くない人は、神の教えを理解しにくい。神が人類を救う時に、後者はかなり危険な境地に陥るのである。

共産主義邪霊は人類を絶滅させるために、神が伝えた徳を重んじる文化を破壊しなければならなかった。したがって、邪霊は善悪を反転させ、世の中の倫理基準を徹底的にかき乱してきた。清王朝末期に乞食をして学校を興した武訓、南宋時代に忠義を尽くした民族の英雄である岳飛への批判を見れば、中国共産党邪霊が人を絶滅させようとする陰謀は一目瞭然である。

武訓は清王朝後期に生まれ、一生物乞いをし、普通の人には耐えられないほどの苦難を耐え忍んだ。三十余年にもわたる物乞いにより、彼は三つの義塾を作り、学校経営の基金とするための学田を三百畝(約20ヘクタールに相当)購入し、学校を作るための資金を一万貫ほど貯めた。これは中国ないし世界教育史上における空前絶後の壮挙である。

武訓亡き後、清の朝廷は彼の業績を国史館に収め、彼の伝記を作ったのみならず、彼の墓、祠(ほこら)、碑を建てた。中華民国時代、彼は「聖人」「金剛」「義士」などと称賛され、彼の類まれなる忍耐力と苦行および義塾を興した壮挙が社会の各階層より讃えられた。武訓は、物乞いの一生と立志して世間の恥を耐え忍ぶ苦行をもって、中国人に伝統的価値の中の「義」を生き生きと解釈して示した。中国共産党が政権を奪い取る前まで、千古の義たる物乞いの武訓は平民教育家として天下に名をはせ、「義挙千秋」、「善行千古」の第一人者と褒め称えられた。

1951年、中国共産党は映画『武訓伝』への批判運動を始めた。武訓は興学を手段とした「大ならず者、大債権者、大地主」であるとレッテルを張った。中国共産党の御用メディアの宣伝により、武訓は封建統制に媚び諂(へつら)う代表人物とされ、階級闘争をせず、社会の制度に反対しないばかりか、かえって封建主義の文化を熱狂的に宣伝したとして猛烈に批判された。文化大革命の間に、武訓の墓は紅衛兵に打ち壊され、彼の遺骨も街中で引き回され、さんざん辱められた後に焼かれた。

いかなる社会にとっても百利あって一害もない人物までも、批判され打倒されなければならなかった。武訓の例からも、中華伝統文化に対する邪霊の憎悪が見て取れるだろう。このような政治運動に伴い、伝統的な道徳規範や人間の生来の善悪観がわずか数十年で徹底的に覆された。

岳飛は中華民族の精神思想に巨大な影響を与えた偉人である。彼の才能、品格および気骨は古代の武将の典範と称されている。彼は自らの命をもって中華伝統文化の「忠」の価値を演繹し、岳飛の「精忠報國(国に忠誠を誓い民に報いる)」の精神は後世まで語り継がれることとなり、浩然たる正気は代々の中国人を激励している。

2002年12月、江沢民の愛人・陳至立が司る教育部は、中国の歴史を改ざんし、『全日制普通高級中学歴史教学大綱(試験改修版)』の改訂にあたって、岳飛と文天祥を民族の英雄と称しないようにした。そこで、ある人は江沢民の意向に従って「時代と共に進もう」として、秦檜(しんかい)を忠臣に祭り上げ、売国奴という定論を覆そうと試みた。

「忠」という文字は、心の上に中がある。それは心の中に不偏不党の尺度を有するという意味だ。そしてその尺度とは天が人々の心の中に植え付けた崇高な道徳的法則である。岳飛は忠誠を尽くし国に身を捧げたが、彼はただ朝廷に忠誠を尽くしたのみならず、全国民と中華文明に対しても忠誠を尽くした。邪霊は、岳飛を辱めることで、忠の本来の意味を見失わせ、人々の心の中にあった正気を追い払って、人倫を破壊した。これはなんと隠ぺい的で陰険な手口であろうか。近年、中国共産党およびその御用文化人らに改ざんされた歴史、誹謗中傷された古人は枚挙にいとまがない。

中国共産党は、正なるものを取り除いたうえ、邪なものを正なるものと言いくるめた。中国共産党は、人々に模倣させるべく数多くの「模範人物」を打ち立てた。アヘンを作った張思徳、淫乱なノーマン・ベチューン、中国共産党の扇動を受け14歳の若さで村長を殺した劉胡藍、自らの叔父を殺す命令を下し、さらにアメリカ人宣教師夫婦を殺害したことで国民政府に殺人犯として処決された方志敏等々は皆、「模範人物」として中国共産党に褒め称えられている。

中国共産党が長期にわたって是非善悪を顛倒(てんとう)してきた結果、人々は心における道徳の基準を失い、善悪、良し悪しを弁別することができなくなった。これは、中国共産党の邪悪きわまる最後の一手、すなわち普遍的価値観である「真、善、忍」に対抗するための下準備となったのだ。

6.伝統芸術は神を褒め称え 邪悪な共産党の芸術は魔を褒め称える

中華伝統文化はしばしば「礼楽文明」と呼ばれている。礼とは、神を敬う祭祀を行うことである。『左伝』によれば、「夫れ礼は天の経なり、地の義なり、民の行いなり」である。すなわち、中国人がよく言う「天経地義」(絶対に正しい道理)のことである。天地の神々は人倫と道徳の源であり、礼は天、地、人の間の繋がりを確立した。楽とは、祭祀の中で神を賛美するために演奏される音楽と舞踏である。音楽の演奏付きの舞踏「楽舞」は、天の経、地の義、人の行いを演じるのみならず、道徳教化の効用をも有する。神を賛美し人の心を清めることは、神伝文化における芸術の根本的な目的である。これは中華の「礼楽文明」が破壊される前に有していた真の意味である。

「大楽は天地と和を同じくし、大礼は天地と節を同じくす」(『礼記』楽記)。「大礼は天地と節を同じくす」とは、天尊地卑を指し、礼の本質は「敬」であることを現している。人々は互いに尊敬し合うべきであり、下位にある者は上位にある生命に対してより敬意を表さなければならない。ゆえに、もっとも盛大で厳かな礼節は神々を祭る礼節なのである。

祭祀のとき、古代中国人は音楽や舞踏などの芸術をもって神を賛美した。五経の一つである『詩経』は、「国風」「小雅」「大雅」「頌(しょう)」からなる。「国風」は民間の歌曲であり、「雅」は宴会で演奏される音楽である。「頌」は祭祀の時に楽舞に伴って演奏された音楽であり、もっとも盛大で厳かである。

黄帝の時に作られた大型の楽舞『雲門大巻』、堯帝の『大咸』、舜帝の『大韶』、夏王朝の禹の『大夏』、殷王朝の成湯の『大濩(だいご)』、周王朝の武王の『大武』は、上古時代の有名な六曲の楽舞である。『周礼』はそれらを「六代楽舞」と呼んだ。六代の楽舞はみな祭祀に用いられるものであり、『雲門大巻』は天を祭り、『大咸』は地を祭り、『大韶』は四望を祭り、『大夏』は山川を祭り、『大濩』は亡母を祭り、『大武』は先祖を祭った。周の時代の貴族の子弟たちは、この六曲の楽舞を習うことを必須とされた。言い換えれば、彼らは神を祭る礼楽を習得しなければ、社会に出ることができなかった。

良い音楽は、陰陽を調和させ、道徳を涵養し、民を教化し、四方の異民族を帰順させることができる。先史文明時代、朱襄氏が天下を治めたときに陰陽が乱れたため、万物が凋落し、果実が熟することができなかった。そこで、朱襄氏の大臣・士達が五弦の瑟(しつ)を作って演奏し、天下の衆生を安定させた。舜は五弦の琴を弾き、『南風』の詩を詠み、天下を治めた。三蔵法師が経典を得るために西へ旅する途中、中天竺国にたどり着いた。国王の尸羅逸多が三蔵法師を宮殿に招き、「汝の国に聖人が現われ、『秦王破陣楽』を作ったというが、そのお方の人柄を教えてくれないか」と言った。そこで三蔵法師は唐の太宗の武勲を紹介した。国王はたいそう喜び、「私は東方に赴き、拝謁すべきだ」と述べた(『新唐書』第221巻)。

芸術は神から伝えられ、天地万物と意思疎通し、神とのつながりを作る役割がある。これは東方に限られたことではなく、西方にも同じような伝統がある。西方の交響楽も当初、教会で演奏された音楽であり、油絵や彫刻なども最初、主として宗教を題材としたものであった。

神をたたえるほか、芸術は審美と娯楽の効用を兼ね備えている。それは、神が人を造ったとき、人にさまざまな感情を与えたからだ。人間は感情に左右されやすいため、「礼」は人の感情に対する制約となった。もし、人が感情を表現できず、ため込んでばかりいると、それらは臓腑にたまってしまい、疾病を引き起こす。そこで「楽」が、感情を表現することを助ける役割を果たすのだ。ただし、音楽には「楽しみて淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず」という制約あった。感情を述べ表す一方、理性を失ってはならないということだ。

共産党国家は、芸術の持つ大きな力をよく知っているので、芸術を洗脳の道具に変えた。中国共産党が神位を奪い取った後、神を敬い拝むように、人々に拝ませた。人が神や佛を拝めば、神はその人に幸せを賜るが、人が悪魔を拝めば、その人は悪魔にコントロールされるようになり、悪魔は拝む人からエネルギーを吸い取って魔力を増強させるのだ。

中国共産党は人々に、党首をたたえる歌謡『東方紅』を習い歌うよう強要した。『東方紅』の歌詞では、毛沢東を「太陽」「救世主」と讃えている。さらに人々は毛沢東に「朝に指示を伺い、晩に報告する」ように強いられ、まるで宗教の朝と夕方の務めのようなものになった。昔、人は天に誓うが、文化大革命の間は、「毛沢東に誓う」ようにさせられ、毛沢東の肖像の前で懺悔(ざんげ)し、「一瞬頭にひらめいた私心を厳しく批判」した。これらはみな宗教の神を讃える手法を借用したものである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の肖像を掲げて、人々にこれらの共産主義邪教の教主を拝ませた。文化大革命のとき、「八億人には、八つのモデル劇がある」と謳われたが、どれもこれも毛沢東と共産主義邪霊を謳うことを主題としたものである。他の芸術に接することができない人々は、それを聞き慣れ見慣れ、知らず知らずのうちにコントロールされてしまった。歌を歌い、話をすれば、ことごとくその邪霊に忠誠心を表すことになり、同時に邪霊のためにエネルギーを注ぎ込むこととなった。

今日にいたっても、いわゆる「赤い歌」や「主旋律」などの文芸活動はいずれも、映画、テレビドラマ、歌曲、文芸作品などを通じて、芸術の名を借りながら、邪霊による洗脳および憑依(ひょうい)を行うのである。これらの映画やテレビ番組を観、これらの歌曲を聞き、これらの小説や刊行物を読めば、共産主義邪霊によって思想をコントロールされてしまう。毎年行われている「春節晩会」で行われる共産主義邪霊をたたえる露骨なショーは、邪霊が「党文化」を強化させるとともに、廉価な笑い声を通じて、全国の観客たちのエネルギーを吸い込むお祭り騒ぎにほかならない。

芸術の娯楽性も共産主義邪霊によって、人々の道徳を堕落させるために利用される。人は、理性的で心が穏やかなときに、雑念を排除することができ、より高い次元の宇宙の信息と通ずることができる。しかし今日、人々を恋の闇路に深く陥れるみだらな音楽や、はなはだしく発散する喧噪(けんそう)な音楽は、人の欲望を拡大し、いらだちを増加させている。そのため、人々はもはや自らの内心の声を聴くことができなくなり、神と通じ、共鳴することはいっそうできないのである。

人を善に導くあらゆる書籍はみな、中国共産党によって「違法出版物」とされた。これまで行われたいわゆる「ポルノ・違法物品一掃」運動において、中国共産党は「違法物品」を取り締まるだけでポルノは取り締まらず、各種のポルノグラフィがたくさん出回った。人々は
このような「芸術」の物質場で、自らの魔性を放任している。人の心が猥褻(わいせつ)・妄念という邪な場になった時、神と通ずることさえできないのに、まして神性を特徴とする中華伝統文化を理解することはなおさらだ。これも、共産主義邪霊が伝統文化の破壊を通して人類を滅ぼす隠ぺい的な手段である。

7.普遍的価値「真、善、忍」に対抗する中国共産党

歴史は、共産主義邪霊が思うままに蹂躙(じゅうりん)できるものではなく、中華民族が共産主義邪霊のくびきから逃れる日は必ずやってくる。中国人の心の奥底に刻み込まれた古の文化の記憶は不滅であり、圧政にほころびが現れれば、その神に通ずる性質は驚くべき作用を発揮する。

1)普遍的価値が「無神論」のタブーを打ち破る

「気功ブーム」の出現は正しく、中国人の神性がよみがえった典型的な例である。一見すると、健康増進運動のようなものであるが、それは中国共産党の数十年にわたる無神論のタブーと硬化した思惟方式を打ち破った。人々は、生命の奥義に対し、かなり開放的な態度をもつようになり、1989年の天安門事件以降も、この領域における探究が止まなかった。「気功ブーム」は玉石混交ではあるが、伝統的精神への回帰は無数の中国人の共鳴を引き起こした。その中で、もっとも代表的なのが、「真、善、忍」を原則とした性命双修の「法輪功」である。

法輪功は、「気功ブーム」の背後にある要因を明確に示し、気功はほかでもなく修煉だと指摘し、人体、宇宙、他の空間、人と高次元の生命との間の奥義などを明らかにした。あわせて、ミクロからマクロに至るあらゆる物質の中に「真、善、忍」の特性が存在し、人として生きる目的は返本帰真であると明示した。

中国共産党が数十年にわたって無神論を注ぎ込み、伝統文化を破壊してきたが、依然として人々の心の中にある久遠の渇望を完全に消滅させることはできなかった。人から人へ、心から心へと伝えられることにより、「真、善、忍」を修煉する人は数年間で1億人に達した。「真、善、忍」は正真正銘の中国伝統文化の価値観であり、普遍的価値である。「真、善、忍」を排斥する民族がどこに存在するというのだろうか。さらに重要なのは、法輪功の普及は政治的運動によって推し進められたものではなく、「真、善、忍」に感化されたがために、数多くの一般大衆が自ら良い人になろうとして始めたのである。これは、1949年以来初めてのことであり、社会の道徳回復のために計り知れない作用を及ぼしている。

中国人の誰もが法輪功を修煉するわけではないが、あなたの同僚、家族、あるいは上司、部下が法輪功を修煉しているのであれば、彼らの言行はあなたの周囲にいい影響を与えるのではなかろうか。彼らは、汚職や収賄をせず、品行方正で、人となりが正直であり、まじめに仕事に励み、無私に貢献する。このような人たちが社会の各階層にいれば、道徳の回復を促す積極的な効果をもたらすにちがいない。

2)中国共産党邪教と江沢民が互いに利用しつつ、普遍的価値に挑む

悲しいことに、共産主義邪霊はもちろんただ傍観するはずはない。人類を絶滅させる計画を立てた際、邪霊は荒唐無稽な悪事を強いてやることのできる者を選んだ。それが江沢民である。歴史学者から「身分隠ぺいと政治的詐欺」として告発された江沢民は、「真、善、忍」に深い恨みを抱いていた。

道徳の回復と社会の安定は、当時政権を握っていた江沢民にとって、天より賜った好機ではなかろうか。ところが、権力欲が極度に膨らみ、陰湿な嫉妬心と人をこらしめるのを好む卑劣さをもつ江沢民は、邪霊に気に入られ、その位に持ち上げられた。その結果、中国共産党と江沢民は互いに利用し合い、「真、善、忍」を信仰する法輪功の修煉者に対して全面的に迫害を始めたのである。

中国共産党邪霊は長期に渡る統治の過程において、中国人の体に一層の「恐怖」という物質を注ぎ込んだ。数十年の下準備がこのまま水の泡に帰すことを恐れ、邪霊は人々が持つ政治に対する深い恐怖心を再度呼び覚まそうとした。そのため、「法輪功」弾圧は初めから挙国体制で行われ、全国民が動員された。共産党中央政治局からその末端の町内会まで、解放軍軍事委員会から小学校の教室まで、会議が繰り返し開かれ、自らの「立場を表明し」、法輪功を「告発し批判する」ように強いられた。テレビ、新聞、ラジオ、そして昔はなかったインターネットをも駆使して、連日連夜デマを飛ばして誹謗中傷した。一時は、天地を覆い尽くさんばかりの勢いで、天地が真っ暗になり、文化大革命が再来したような勢いであった。中国共産党が求めたのはまさに、この効果であった。邪霊は、人々の脳裏から徐々に薄れつつあった記憶を再び呼び起こし、数十年の血腥(ちなまぐさ)い記憶を再度思い起こさせた。思うままに殺戮を繰り返す共産党の残忍非道な記憶を再び思い起こさせ、人々を「真、善、忍」という普遍的価値と対立する立場に駆り立てた。

「真、善、忍」を弾圧する過程で、中国共産党が使った手段はみな、「詐欺、邪悪、暴力」である。これまでの政治運動に比べ、今回の運動に関わった人数は史上最多となる。さらに弾圧の対象は、もっとも平和的であり、いかなる政治的要望もなく、自らの信仰を持つ修煉者である。信仰を持つ人は意志がもっとも強い。その上この弾圧は、中国共産党が国の門戸を開け、外国の投資を誘致し、国際的に注目されている時期に行われた。したがって、大勢の人々に対する弾圧は非常に困難であった。中国共産党にとって、数十年にわたって積み上げてきた迫害の経験と力量をすべて使ってもまだ足りなかった。この状況から見れば、中国共産党が弾圧を実施するために、どれほどデマを流し、どれほど誹謗中傷し、どれほど人々を扇動し、どれほどの人力と財力を使い、どれほど汚い手口で国民や国際社会を騙したか、想像に難くないであろう。そして、自由主義社会の資本による中国への投資はみな、中国共産党が弾圧を行う際の資本とされたのである。

目下、世の人はまだ、中国共産党が犯罪的な弾圧運動で人類にどれほど巨大な損失をもたらしたのかを、知るすべがない。もしいつの日か、誰かが次のような機密事項を暴露すれば、われわれはどう思うのだろうか。江沢民はかつて、軍隊と警察を使って、五百人の法輪功修煉者をある製鉄所の沸騰した溶鉱炉の中に投げ入れた。善を求めてひたすら心を修め、いつも他人を重んじ、無私無我で、道徳的に向上し神へ通ずる道を歩む正真正銘の良い人が、生きたまま熔鉱に焼かれて死んだ。強い生命力をもつ五百人の体が、この世から完全に蒸発するまで千度以上の熔鉱に少しずつじりじりと焼かれていったのである。これが本当だと知ったなら、皆さんはきっと驚愕するにちがいない。しかし、妖怪たる江沢民の邪悪性は、まさにかくのごときなのだ。その邪悪性は、江沢民を選んだ悪魔までも驚愕するほどである。その毒性はヘビやサソリも及ばず、南山の竹を全部使ってもそれが犯した大罪の一万分の一を記すこともできない。江沢民の邪悪極まる本性からすれば、このように暴虐で、人と神が共に憤慨する罪をいくら犯しても不思議ではないのだ。

二十年近く続いた凄惨(せいさん)な迫害により、人々は法輪功に触れようとせず、「真、善、忍」に賛同することを恐れている。嘘とプロパガンダにより、人々は「真、善、忍」を洪水や猛獣と見なし、ひたすら避ける一方である。もし、誰かが「真、善、忍」の三文字がプリントされたTシャツを着て、天安門広場で散歩すれば、おびただしい数の警察とパトカーが瞬時にやってくる。インターネットで「真、善、忍」を検索すれば、出てくるのは、それに対する批判のみだ。「真、善、忍」はインターネット上でもっとも厳しく遮断されている言葉の一つとなっている。厳しいネット検閲により、人々は普段の日常生活の中でも「真、善、忍」の三文字を使うことができない。また、「迷信」、「愚昧」、「政治活動」というレッテルが張られたため、人々はこの三文字の本当の意味を考える勇気さえ無くしてしまった。

普遍的価値は、人の行為を指導する作用を持つ。恐怖心から、あるいは検閲による語彙(ごい)の遮断から、さらには共産党文化の影響のために、人が日頃の交流と思考において普遍的価値である「真、善、忍」に触れることができないとき、その人は自らを普遍的価値から隔絶しているに等しい。これは非常に危険なことである。

3)「欲望」を以って普遍的価値を取り替える

共産党が普遍的価値である「真、善、忍」を迫害したことにより、共産主義邪霊という偽りの神も中国人からの信仰を失った。そこで、邪霊は慌てて「欲望」をもって信仰心の空白を埋めようとした。江沢民は「黙って金儲け」と鼓吹(こすい)したが、これは共産主義邪教の親玉の本心の発露に過ぎない。人類史上において、「欲望」を国家の信仰、国教として国民に教え込んだのは、中国共産党が初めてである。ある人が、中国大陸の空気は、汚染物質を除けば残るのは欲望だけだ、と形容した。中国は全国民がお金を奪い合い、情欲を放縦する、腐敗しきった時代に突入したのだ。

中国共産党の企(たくら)みによって、人々の心が「欲望」に支配されてしまえば、「真、善、忍」の場所がなくなるのではあるまいか。神とのつながりが断ち切られれば、中華民族の未来はどこにあるのだろうか。

人にはみな生まれつき、善を求める心がある。これは神が人を造るときに埋め込んでおいた貴重な種だ。人の世で輪廻する中で、その種が自らの貪欲と悪行によって覆いかぶせられ、あるいは堕落した文化によって遮断されてしまうと、神が人を救うために帰ってきた時、神の慈悲たる甘雨をもってしても、もはやその貴重な種をうるおし、芽を出させることはできなくなる。人を救う真理を上の空で聞き、耳にしても分からず、受け入れを拒むならば、その人は救いようがなくなってしまう。

神が残した天に通ずる中華伝統文化は、人の心にある善良の種を常に洗い清め、神の最後の回帰を待つ。邪霊は、神伝文化を破壊し、人を普遍的価値である「真、善、忍」から遠のかせる。すなわち、その貴重な種を永遠に真理から遮断すると同時に、人の心を堕落させることによって、その種を腐らせ、永遠によみがえる機会を失わせるのだ。

4)正しい信仰に対する共産主義邪霊の迫害は必ず失敗する

これまで、中国共産党は誰かを打倒しようとすれば、三日もかからなかった。しかし、今回の「真、善、忍」に対する迫害は必ず失敗に終わるだろう。法輪功学習者たちはこれまで決して、迫害に反対する努力をあきらめなかった。「真、善、忍」に基づいて良い人になり、身を修め精神を涵養(かんよう)することに、何の間違いもない。

「真、善、忍」によって再び浄化され、道徳の境地が昇華した大勢の修煉者は、ほかでもなく神の道を歩んでいる人々なのだ。これは、江沢民と中国共産党が決して理解できないことであり、法輪功修煉者たちが決して打倒されない原因でもある。実は、これも神が予め用意したことであり、今日の世の人のために一つの事実を証明したのだ。つまり、人が神への確固たる信仰を持ちさえすれば、猖獗(しようけつ)を極めているように見える悪魔であっても、とうていその陰謀を実現できないのだ。

結びの言葉

創世主は最後に衆生を救い済度するために、自ら中国の地に、博大で奥深く、崇高なる中華伝統文化を築き上げた。天の川の燦々(さんさん)たる星々もその美しさに比類できるものではなく、高山の「雪蓮」をもってしてもその聖潔さに勝ることはできない。広大なる天空もその大きさを喩えることができず、浩瀚(こうかん)たる海洋もその深さを語るに足りない。

伝統文化の中の信仰体系、言語文字、修煉文化、王者の道、人倫典範、芸術審美等はいずれも、人が神の伝える法を理解できるようにするためのものだ。人は神伝文化の理解力があれば、宇宙万象、是非善悪を含む、天上地下の情報を得ることができる。そして天象を読み取ることができ、宇宙の天理、天道の標準・要求を知ることができる。これにより、人類社会の道徳が急速に堕落せずに一定の水準に保たれるのだ。同時に、最後の乱世の中で、善良な心を持つ人の道しるべとなり、慧眼(けいがん)をもって正邪を弁別し、救い済度される機会を失わせない作用もある。

共産邪霊の最終目的は人類を壊滅させることである。邪霊は神位を奪い取った後、伝統文化を非情なまでに破壊し、世にもまれな財宝と遺産は数十年の間に消え去った。邪悪な中国共産党は、文化の喪失によってもたらされた信仰の真空、道徳の堕落、価値観の混乱、そして百年来の国民を虐殺し文化を破壊する過程で積み上げてきた邪悪な「経験」を利用して、普遍的価値「真、善、忍」を信仰する修煉者に対して、横暴にも迫害を引き起こした。

しかし、魔が一尺高まれば、道は一丈も高まる。これは、邪霊にはまったく思いもよらなかったことである。神は、邪霊が忌憚なく伝統文化を破壊し、神の民と神の道を歩んでいる修煉者を思うままに迫害することを容認するはずがないのだ。

茫々(ぼうぼう)たる宇宙の中、いかなる生命も神の掌握から逃れることはできない。神はこれらのことを見ている。邪悪な中国共産党と江沢民のやることなすこと全てが、天地と神々を激怒させている。法の網が引き上げられつつある。この過程において、貴い中国人よ、あなたたちの一念は何よりも重要なのだ。

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