「死を覚悟で運動を阻止」 天安門事件当時の中国元首相日記、香港で出版へ

2010/06/06
更新: 2010/06/06

【大紀元日本6月6日】中国政府が、政治改革を求めた学生民主運動に武力弾圧で対応し、大勢の若者を殺害した「六・四天安門事件」が、今年で21周年になる。当時の首相であり、武力弾圧の陣頭指揮を取った李鵬氏の事件前後の日記を収録した本が、今月22日、香港で出版されることとなった。命をかけても、学生の運動を抑えようとしたことや、弾圧を決定した_deng_小平氏が、事件渦中に、江沢民趙紫陽・元総書記の後任に指名した内容などが記されている。

「李鵬六・四日記」と題するこの本の原稿は、計279ページ。同氏の1989年4月15日から6月24日までの日記を編集したもので、香港「新世紀出版社」は今年1月に原稿を入手し、数カ月の査証や事実確認を経て、出版を決定した。

発行人である鮑朴氏(故・趙紫陽元総書記の秘書・鮑彤氏の息子)によると、ある仲介人から日記の原稿を入手したという。仲介人の名前は明らかにされていない。

天安門事件の武力弾圧の首謀者と世に認識されている李鵬氏は、今年81歳になる。以前から日記の出版を強く願い、15周年目の2004年には出版する予定だったが、胡錦濤・総書記と温家宝・首相に阻止されたという。

本の序言には、李鵬氏が2003年12月6日に書いた言葉、「自分が知っているこの動乱の真相を明らかにしなければならない。歴史の最も重要な証明として」と記されている。

同事件に関する重大決定はすべて、当時、軍のトップだった_deng_小平氏が下した、と同著は記している。

それによると、当時の中国最高指導部内では、同学生民主運動への対応について激しい対立があった。 4月下旬、事件発生の当初から、李鵬氏と当時の総書記・趙紫陽氏の間で意見が対立した。趙紫陽氏は学生の行動は愛国心に由来しているため、穏便な対応を講じるべきと主張し、一方、李氏は「学生民主運動の目的は共産党政権を崩壊させるためで、反革命的である」と主張した。

同年5月2日の日記では、同事件を「文化大革命」に例えて、次の言がを綴られている。「動乱が発生してから、私は最悪の結果を想定した。自分と家族の命を犠牲にしても、中国で再び文化大革命のような悲劇を再演させないと決めた」

また、軍隊を北京市に進駐させ、大学生を武力弾圧するという決定は、5月17日、_deng_小平氏の自宅に召集された最高指導部メンバーの会議で行われた。当時、趙紫陽・元総書記を除いて、ほかのメンバー全員が_deng_小平氏の決定に賛成したという。

その二日後の5月19日、_deng_小平氏は、江沢民氏を趙紫陽・元総書記の後任にすると最高指導部に内部通達した、と記されている。

武力弾圧の数時間前にあたる6月3日夜、李鵬氏は人民大会堂で陣頭指揮の会議を召集。江沢民氏は天安門広場付近のある建物の4階で、大勢の大学生が集まっている広場の状況を確認していたという。

李鵬氏は1998年、全国人民代表大会委員長の座から退いて、事実上、政界を引退している。

(翻訳編集・叶子)
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