「9歳で天安門へ」90年代生まれの女性の自叙伝

2016/11/06
更新: 2016/11/06

 これは、90年代生まれの女性の自叙伝。多子家庭の貧困、名字によるいじめ、法輪功修煉で一家弾圧、拷問、監禁―。まだ20代の蒋煉嬌さんは、すでに苦の中の苦を体験してきた。

2016年10月、信条の自由を求めて、蒋さんは中国を離れた。本稿は彼女のインタビューに基づいて整理・編集したもの。


 生みの親を知らない子供

私は90年代生まれです。しかし私は生まれる前から危うく命を落としかけました。当時中国では一人っ子政策を実施していたので、計画外の私は生まれてはいけなかったのです。私の母親は妊娠中、ずっと監視されていました。私の父親は村の医者で、堕胎の仕事もしていました。その後、彼は病院の清掃員をするようになりました。子供を流してしまうのは道徳的ではないと思っていましたから。

子供がふつう最初に口にするのは「パパ、ママ」ですが、私は小さい時にパパとママを知りませんでした。お父さんとお母さんがいることを知らなかったのです。私は生後一か月でおばあさんの家に預けられました。私がこの世にいることを他人に知られるのはまずかったのです。私の両親はしばしば私を見に来てくれて、おいしいものを持ってきてくれました。私はずっと両親のことを「おじさん、おばさん」と呼んでいました。私が全てを知るまで、両親は私にとって「おじさんとおばさん」だったのです。

私の家には子供が5人いました。年上の2人の姉と兄がいて、私の下にはもう1人、妹がいました。2人目の姉も生まれてすぐに他人のもとに預けられ、今でも音信不通のままです。その後、私の家が子供を産みすぎたことを親戚に密告されました。私の存在が世間にばれてしまったので、両親は私を家に連れて帰りました。当局からは5000元の罰金を言い渡されました。相当な額です。母親が家にあった一分(一人民元の百分の一)の紙幣と硬貨をかき集め、ジュート製の大きな袋に詰めて役所に持っていきました。こうして私はやっと両親と暮らせるようになったのです。

余談ですが、私たち家族は蒋介石とも関係があるのです。名字が蒋ですから。小さい頃、蒋という名字の人は共産党統治下でけっこうひどい目に遭いました。そのとき、蒋という名字だけで国民党と関係があるように思われていました。歴史の授業になると必ず蒋介石の話が出てきます。彼が革命の成果を横取りしたとか、反動的だとか、とにかくひどいものでした。今は当然ながら共産党の言い分は間違っていると分かりますが、当時はそんなことが分かるはずもありませんでした。女の子だったから、感情がすぐに顔に出てしまいます。蒋介石のことになると、わたしは恥ずかしくて仕方がありませんでした。しかし、私の兄だけは、ずっと蒋介石はいい人だ、と言っていました。蒋委員長はどういう人で、どのような功績があったかを私に話してくれました。良識のある兄を持ったものです。

あの当時のことは、考えただけでも身震いしてしまいます。文化大革命の時も我が家は大きな損害を被りました。私のお父さんのお爺さん、つまりひいおじいさんは道教を信じていました。彼は風水など、いろいろな研究をしていました。しかし、彼は共産党から摘発され、とんがり帽子をかぶせられて集団で批判されました。多くの家族も批判集会に参加しました。私の父親はまだ子供だったので、共産党員に脅されて無理やり批判の言葉を言わされました。私の父親はこのことを滅多に口にしません。彼もつらいのでしょう。ごくたまにしか話さないのです。

私のひいおじいさんはとてもおとなしい人だったので、自分の孫から批判されて、傷ついたと思います。普通の人であれば気が狂ってしまうでしょう。彼は臨終の時、修錬は迷信でも不思議なものでもない、本当のことだと言いました。その影響もあって、私の父は1997年から法輪功の修煉を始め、その影響で私の母も修煉を始めました。そして1998年に私は、両親に倣って、法輪功の修煉を始めました。当時、私は7歳でした。周りの大人たちはみな、私が座禅をしているときの姿が美しいと褒めてくれました。

 

 9歳で両親と共に天安門へ

2000年に入ったころ、政府は私たちが病院で煉功することを禁止しました。私の父親は陳情のため、私たち一家を連れて北京に行きました。

一緒に行った同郷の方々は3、40人ほどでした。ずっと誰かが私たちを尾行していました。河北省に着いた時、私たちは追いつかれそうになり、仕方なく車を降りて歩きました。とても寒く、食べ物は味のない饅頭(マントウ)や漬物しかありませんでした。ある日の夜、私たちはたたき起こされ、もうここも安全ではない、早く行った方がいいと言われました。とても長い道のりでした。およそ30キロ以上は歩いたと思います。中国北部の夜はとても暗く、電気さえありません。月だけが私たちの足元を照らしてくれました。不思議なことに、全く疲れを覚えませんでした。みんなで歩きましたが、誰も大きな声で話す人はいません。互いに励ましあって、やっと北京に着きました。私たちはそのまま天安門に向かいました。

天安門につくと、母親は「法輪大法は素晴らしい」と書かれた横断幕を広げ、大きな声で「法輪大法は素晴らしい」と言いました。すぐさま警官が走って来て母親を地面に押し倒し、殴る蹴るの暴行を加えました。傍らで見ていた私は恐怖で怖気づき、妹は泣き出しました。すると姉も「法輪大法は素晴らしい」と叫び始めました。私は姉の服の端をつかんだまま、小声で「法輪大法は素晴らしい」と言いました。すぐに警察は姉に体当たりし、長い髪をつかんで引っ張り倒しました。姉は当時、まだ16歳でした。中国の警察は、平気で人を殴るのです。

私たちは警察車両に引きずり込まれ、警棒とスタンガンによる拷問を受けました。警察は私たちを殴り、暴行を加えました。様々な叫び声が折り重なっていました。私は特に背が小さかったので、大人たちの足の間から頭を出して見ていました。鼻から血を流している人もいました。私がこうして頭を出して見ていると、警棒が私の頭に当たりました。私はたちまち意識を失いました。

私が覚えているのは長い通路にいたことだけです。どこかはわかりません。後に母親から、そこは拘置所だと教えられました。意識が朦朧とする中、依然として叫び声が聞こえていました。警察は、まだ私たちを殴っていました。言葉にならないような叫び声もありました。みんな殴られて叫んでいました。人がたくさんいました。私は空腹を感じましたが、何も食べるものはありません。暴行が落ち着くと、みんなで李洪志先生(法輪功の創始者)が書いた詩を暗唱しました。

そして、私を含む子供まで、一人ひとり尋問されました。地元の公安局からも警官が来ました。両親と姉、兄は手錠で拘束されました。警官は私の手にも手錠をはめようとしましたが、なかなかうまくいきませんでした。私の手を妹の手と一緒に拘束しようとしても無駄でした。手が細すぎたのです。その時、私は9歳、妹は8歳、兄は12歳でした。

両親と姉が捕らえられ、残された子供たちも自由を失いました。私たちは北京から地元に送り返されました。私の父親はある中学校のグラウンドで判決を言い渡されました。それでも彼は「李先生は濡れ衣を着せられたのだ」と大声で言いました。父親は3年間の禁錮刑に処せられ、母親は2年の労働教育を言い渡されました。姉は拘置所に1カ月の間、閉じ込められました。

 

 極限状態の生活

私たち兄妹はまだ病院の宿舎に住んでいましたが、もはや元通りの生活ではなく、監獄にいるようなものでした。病院や学校、地元の警察署が私たちの行動を24時間監視していました。食事、睡眠、登下校にはすべて監視の人が付きまといました。ドアは夜になると鍵が掛けられました。鍵は病院の事務員が管理し、朝になると鍵を開けてくれました。病院の職員が私たちを学校まで連れていき、授業の合間には先生が私たちを監視していました。

当時はまだ配給制でしたから毎月政府から10キロの米、10キロの麺類と1.5キロの油を貰いました。しかしこれでは足りなかったため、何とか食べ物をもう少し支給してくれるよう病院に頼みました。病院の副院長は何秀林という人ですが、いつも「支給したばかりじゃないか、お前たちにはそれで十分だろう」と言いました。すると私たちは何も言えなくなりました。お腹を空かせるしかありません。妹はお腹が空くと寝るようにしていました。私はどうしても眠れませんでした。私は水をたくさん飲んで飢えをしのぎました。

私たちは常に飢えていたから、なんでもおいしく感じられました。時折病院の職員や学校の先生が食事に招いてくれることがあったのですが、それがとにかく楽しみでした。しかし、それはめったにないことでした。ある年のお正月、湯圓(タンエン)が食べたくなりました。家に小麦粉があったので丸めてタンエンにしようと思いました。兄が小麦粉を捏ねて、何とかそれらしきものにしました。大きさは特大でしたけど。そして煮て食べました。調味料がなかったからなんの味もしませんでした。でも何とか「タンエン」は食べられましたし、ぐっすり眠れました。

その後、本能なのか、食べ物があるときはとにかく多く食べていたころがあります。高校のとき、みぞおち部分が膨らんでいました。たぶん勉強で頭を使うから、エネルギーの消費が多かったのでしょう。お腹がいっぱいになっても食べ続けました。そのため、みぞおち部分が膨らむようになったのです。それが胃であるとは当時知りませんでした。

肉なんてありませんでした。野菜すら買えなかったのです。山菜をたくさん取っては食べました。夏になると友達の家に生えている杏や桃、またさくらんぼを食べさせてもらいました。友達が木の上に上って果実を摘み、私たちが地面から拾って食べました。

私は、すでに子供の時から、辛酸を嘗めてきたと思います。今でも食べ物を非常に大事にします。油で炒めてなくても、塩気がないものでも食べられます。すべて、私の体験によるものです。

あるときテレビ局がやって来て、取材をすると言いました。両親が拘束されているから、あなたたち子供の近況を知らせるのが目的だと言いました。そして病院の院長や副院長がいかに私たち兄妹を気にかけているかを撮影しました。近所のお姉さんもやって来て、シーツを敷いてくれたり、ご飯を作ったりしました。しかし、撮影が終わると、誰も手伝いに来なくなりました。

テレビ局は、私たちの食事のシーンを撮ると言いました。午前中から正午まで待ち、午後2時になってもテレビ局はまだ来ません。お腹を空かせた私たちはご飯を食べてしまいました。そしてやっと彼らがやって来て、ご飯を食べるまねをしてほしいと言いました。3人の子供は、空っぽの茶碗を手に持ってご飯をかき込む動作をしました。そして私たちの学校生活を撮影し、いかに先生が私たちの面倒をよく見ているかを撮影しました。

後になって分かったのですが、私たちは単に利用されただけでした。テレビで放映され、プロパガンダとして利用されたのです。私たちの両親がいかに分からず屋で、共産党と国家がいかに子供たちの面倒を見ているかを宣伝をするためでした。中国のテレビ番組を絶対に信用してはいけません。共産党が宣伝しているのは、全て嘘なのです。

(つづく)

(取材・整理:李慧、編集:蘇明真、翻訳:文亮)

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