THE EPOCH TIMES

チベット人人権活動家ニマ・ラモ氏、テンジン・デレク師事件を語る

2018年08月14日 17時56分

3年前の7月12日、四川省成都にある刑務所で一人のチベット人僧侶が獄中死した。

僧侶の名は「テンジン・デレク・リンポチェ」。チベットの文化と宗教を徹底的に破壊した文化大革命の余韻もまだ冷めやまぬ1980年代、リンポチェはチベットで破壊された仏教寺院の復興に努め、老人福祉施設、児童養護施設、学校を作るなど地域の教育と福祉に尽力し、チベットで絶大な人々の尊敬を集めた。

しかし2002年、四川省成都市で発生した爆発テロ事件に関与したとして当局から不当に連行され、13年間にわたり拘束され、終身刑で2015年獄中で亡くなった。

ダライ·ラマ法王への深い忠誠心を携え、チベット仏教とチベット文化の保存の象徴的存在だったリンポチェの獄中死はチベットの人々に深い悲しみと絶望を与えた。

テンジン・デレク・リンポチェの姪に当たるニマ・ラモ氏は母親と共に面会やテンジン・デレク師の仮釈放を訴え、死去してからは遺体の引き渡し、死に至るまでの状況説明を求める過程で、当局から身柄拘束、隔離監禁、脅迫、虐待など様々な圧力と暴力にさらされた。同氏は伯父の死について証言するため、2016年7月にインドに亡命し、チベット人人権活動家として各地で講演活動をしている。

先月、22日、ニマ・ラモ氏は、広島のアステールプラザで開催されたトークイベントにおいてテンジン・デレク師事件の全容を語った。

荒廃したチベット 復興への希望 

チベット東部のカム地方リタンに生まれたテンジン・デレク・リンポチェは、7歳で出家。地域最大の寺院リタン寺院に学んだ。文化大革命(1966~76)よりも前から宗教と文化の大量破壊が行われていたチベットでは仏教寺院の修行階梯は整っておらず、1982年、リンポチェは他の多くの僧と同様、南インドのデプン寺院で学んだ。83年にはダライ・ラマ法王から偉大な仏道修行者の化身「トゥルク」と認定された。

その当時、中国では胡耀邦、趙紫陽体制のもと民族融和政策への転換を図っていたが、1987年頃からラサでは民衆デモが頻繁に発生し、翌年3月に大規模なデモが発生した際、戒厳令が発令され、当局はチベットに対し、抑圧政策に転じた。

そんな中、チベットの人々から帰還を請われていたリンポチェはインドでの修行を終え、仏教の指導者としてチベットに帰還した。帰還後、自ら転生僧(リンポチェ)と認定されたオト寺を皮切りに、東チベットで九カ所のお寺を再建し、老人福祉施設、児童養護施設、学校のない遊牧民の住む地域にも学校を作るなど、地域の復興に努めていた。

ダライ・ラマ法王の教えを直に受け帰還したテンジン・デレク・リンポチェはチベット人から尊敬と手厚い歓迎を受けた。しかしその一方で、中国当局から「危険分子」として警戒され、監視対象とされることとなった。保育園でも学校でも師が何かを作ろうとすると地元の政府が妨害した。97年になると当局から追われるようになり、逃亡生活を強いられるようになった。

仕組まれた成都「爆弾テロ」事件

2002年7月8日、逃亡生活は思いもよらぬ形で突如、終わらされた。3日前に四川省成都氏で発生した爆弾テロ事件に関与したと見なされ、一切の証拠を示されることもなく、テンジン・デレク・リンポチェは弟子五人とともに拘束された。12月、非公開法廷が行なわれ、弁護士もつかない不当裁判によりリンポチェは執行猶予付き死刑、弟子の一人、ロサントンドゥプ氏は死刑を言い渡された。翌年、1月、ロサントンドゥプ氏は処刑された。

その暴挙に国連人権委員会の委員長書簡、米上院の非難決議、欧州各国の釈放要求が相次ぎ、日本も超党派国会議員でつくる「チベット問題を考える議員連盟」の緊急声明を発表した。国際的な非難が高まるのを受け、2005年、当局はリンポチェを終身刑に減刑した。

しかし当局はこの件に関して徹底的な封殺を行った。リンポチェへの終身刑に反対する者も捕まり、昔、リンポチェと一緒働いたという理由だけで逮捕された人もいた。

当時の国家主席、江沢民の体制下、チベットでは言論や通信の監視は厳しくなる一方だ。2001年、世界同時多発テロ「9・11」の発生を受け、中国共産党政権は「反テロ活動」を口実に、ウイグル、チベットの「分離主義者」、法輪功を名指しで「テロ組織」に分類、徹底した取締りを実施していた。

ヒューマン·ライツ·ウォッチ2004年の報告書によると、テンジン・デレク・リンポチェの拘束はダライ・ラマ14世の宗教的指導力を弱めるためであり、政治的な意図によるものと断じている。

繰りかえし浴びせられる侮蔑の言葉 殴る蹴るの暴行

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