紀尾井坂 柔らかな陽だまりに建つ哀悼碑【坂のある風景】

2022/07/20
更新: 2023/07/20

筆者の手元に、つくづく入手して良かったと思う一冊の「名著」がある。
お笑いタレントのタモリさんが書いた『タモリのTOKYO坂道美学入門』である。書中の写真も、タモリさんが現地で撮影したという。

 

「坂道」は人の心を和らげる

人気タレントとして、無情なスケジュールにがっちり固められ、私的旅行もままならないタモリさんが愛好した唯一の趣味が「地図を読むこと」であったのは、よく知られている。

特に「平面図である地図からは読み取れない、高低差を想像するのが好きだ」と、ブラタモリかどこかの番組でご本人が語っていた。タモリさんが無類の「坂道好き」になった理由は、ここにあるらしい。

本連載では、タモリさんの二番煎じにならないよう意識しながらも、人々の身近にある坂道の風景を、気軽に散歩するような感覚で眺めていきたいと思う。

それと同時に、もう一つの思いが今、見えない手となって筆者の背中を押している。
つい最近のことだが、韓国ソウルにある小さな坂道(それは幅3メートル余り、長さ40メートルほどの何でもない通路であったが)で人が折り重なり、154人の若者が圧死するという大惨事が起きた。

どういう悪魔の仕業かは知らない。ただ、その悲報を聞いて「坂道とは、このような残酷な場所ではない」と叫びたい思いにかられた。坂道の名誉回復をかけて、タモリさんに代わり、その魅力をお届けしたいと考えた次第である。

暗殺された大久保利通を悼む「贈右大臣大久保公哀悼碑」(大紀元)

 

紀尾井坂の変」と呼ばれた事件

秋空が高く晴れた、ある日。
都会の真ん中に陽だまりを求めて、東京都千代田区の紀尾井坂(きおいざか)付近を歩いた。

江戸末期の古地図を見ると、今日の紀尾井町にあたる地域には、扇の要の位置に井伊家があり、東に紀伊徳川家、西に尾張徳川家の江戸屋敷がある。安政3年(1856)の地図なので、井伊家の敷地には井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)つまり桜田門外の変(1860)で討たれて死ぬ、その人の名が記されている。

古地図によると、井伊家と紀伊家の境が谷筋となっている。そこに清水が湧いたことから清水谷(しみずだに)と呼ばれた。麹町から紀尾井坂をゆるやかに下ると、その清水谷に至る。現在では、大きくはないが、山水が整えられた良い風景の公園になっている。

その清水谷公園のなかに「贈右大臣大久保公哀悼碑」と刻む石碑がある。
碑の建立は明治21年(1888)。その10年前にあたる明治11年5月14日の朝、明治維新の元勲で「維新三傑」のひとりであった大久保利通(1830~1878)が、この清水谷を馬車で通り、明治帝の仮住まいであった赤坂離宮へ向かうところを6人の不平士族に襲撃された。大久保は即死に近いかたちで、従者(中村太郎)とともに落命する。

 

「坂」を土地勘にする江戸っ子

歴史上の事件としては「紀尾井坂の変」と呼ばれて現代に伝わるが、大久保が遭難したのは清水谷であって、紀尾井坂ではない。

事件の背景について詳述することは避けるが、それにしても、なぜ「紀尾井坂ちかくの清水谷で起きた異変」が短縮されて「紀尾井坂の変」という通称になったのか。もちろん直接的には、事件を伝える当時の新聞が「紀尾井坂の変」と書いたからであろう。ただ、手元に確認資料がないので、そちらの実証は保留させていただきたい。

以下は、清水谷を散策しながらぼんやり考えた推論に過ぎないが、一つの理由として、江戸人(東京人)は「坂」に意識の重点をおく傾向がつよいからではないか。

大阪は、坂がない代わりに、開削した人の名前がついた「堀」がある。東京は、もちろん水路もあるが、それ以上に多くの「坂」があるため、江戸っ子の土地勘で「ナニナニ坂」と言ったほうが分かりやすいという地理上の利便性があった。

団子坂(だんござか)と聞けば、鷗外や漱石の文学世界が思い浮かぶ。南部坂(なんぶざか)は忠臣蔵の名場面の舞台であり、昌平坂(しょうへいざか)は江戸期以来の学問処であるとすぐに分かる。

すぐに分かるのが江戸っ子の証よ、などと粋がることはない。庶民の日常がそうであるからに過ぎず、「おい、聞いたか。紀尾井坂で何か大事があったらしいぜ」と言ったほうが自然なだけである。江戸につづく明治の代(よ)も、同様であったろう。

令和の時代を生きる東京人は(筆者も含めて)あまりに地上部分が変わり過ぎたため、昔ながらの「坂のある風景」をほとんど忘れていると言ってよい。

そうした意味で冒頭に挙げた本は、福岡出身のタモリさんが示してくれた東京の再発見として筆者には新鮮であった。「坂のある風景」とは、実に良いものである。
 

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