【独占】カブールで戦慄の日々、アフガニスタン現地記者「命懸けの逃走記」

2024/04/29
更新: 2024/04/29

アフガニスタンは内陸国であるが、河川が南アジア、中央アジア、中東の海へと流れる険しい地形を切り開いている。文明の十字路とも称され、貿易路は人類史上最も古く、前代未聞の地政学的な焦点となっている。戦争、死、破壊、大脱走はこの地域にとっては日常茶飯事。首都のカブールで起きた悲劇的な出来事の中で、ある女性記者の物語が際立っていた。

バスナヤニマ・バスさんはインドのオンライン出版『Print』の記者としてカブールに派遣され、タリバンが政権を掌握する約一週間前にカブールを逃亡した。エポックタイムズはインタビューで、バスさんはタリバンがカブール空港を占拠した数日後の逃亡を語った。

彼女は8月8日にカブールに到着した。ちょうど1週間後の8月17日、空港に向かう車の中で、彼女は街の変わりように驚いた。一度訪れたことのある街が全く変わっていた。空の色さえ違って見え、人々の表情にも不安が滲んでいた。市場ではかつての賑わいが消え、代わりに兵士や警察の姿が目立っていた。バスさんは「ここは同じカブールではない。 何が起きたの? これが崩壊した国の姿なのか」と歎息した。

バスさんは当初、8月11日と12日にウズベキスタンとの国境近くに位置するマザリシャリフを訪れ、当時、タリバンは市郊外でアフガン軍と激しい銃撃戦を繰り広げていた。

脱出の勇気

8月15日、タリバンがカブールを完全に掌握する中、バスさんは重要なインタビューを試みていた。彼女の対象は、かつてアフガニスタンの二度の首相として、「カブールの虐殺者」と恐れられた元ムジャヒディン(イスラム義勇兵)の戦士、グルブディン・ヘクマティアル氏だった。

インタビューは、カブールの彼の自宅で行われていたが、事態は彼女の想像をはるかに超えた方向に進むこととなった。インタビューは突然打ち切られ、ヘクマティアル氏は安全な場所に移された。

事の重大さを察知した『Print』の編集者は、彼女に対し即座にアフガニスタンを離れるよう強く促した。数時間後、彼女は大胆な脱出を計画しなければならないことに気づいた。

タリバンがカブールに急速に進軍し、市民や元政府職員たちは脅威にさらされた。元アフガン高官の女性が宿泊していたセレナ・ホテルに、武装したタリバン兵が真夜中に襲撃を始めた。彼女は部屋で静かに息を潜めていたが、タリバン兵が部屋を捜索する音を聞き、恐怖で身を震わせていた。この時、彼女は生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。バスさんは「実際、彼らは私の部屋まで来て、私は完全にしびれた!  私はただ夫に電話し、電話はそのままで、何も話すなと言った」と語った。

8月16日、夜明け前に、彼女は何とかホテルを抜け出し、カブール空港へ向かう決断をした。空港への道中、彼女は100メートルおきに設置された検問所を乗り越えなければならなかった。それぞれの検問所には約20人のタリバン兵がおり、車の中をじっと覗き込む少年兵たちの目が、彼女に忘れられない恐怖を植え付けた。

「少年たちは私たちの窓を叩いたり、中を覗き込んだりした。 午前4時でまだ暗かった。 空港に着くと、すごい人だかりだった。 タリバンがこの場所を占領したのはほんの数時間前だったのに、この人たちはみんな飛行機に乗るのだろうかと思った。するとある女性が、『私たちは命からがら逃げているんだよ』と言ったんだ」とバスさんは語った。

バスさんは今でこそ何が起こったのか理解しているが、当時はすべてが混沌としていた。

空港に到着した時、彼女はそこが異常に混雑しているのを目撃した。タリバンが空港を占領したばかりで、人々の間に絶望的な空気が漂っていた。「多くの人々が無理やり飛行機に乗ろうとしては転落し、 彼らはアメリカに逃げられると思っていたのだ」とバスさんは語った。

すべてのフライトがキャンセルされたため、バスさんは空港を去らなければならなかった。空港は何千人もの人でごった返する中、タリバンの過激派が何らかの理由で群衆に発砲し始めた。彼女の後ろにいた男性が足を撃たれて地面に倒れたとき、彼女は恐怖で凍りつき、叫び始めた。倒れていく人々、叫び声、泣き声が交錯する中、突如現れた見知らぬ男性がバスさんを助けた。彼は彼女の手を引き、荷物を持ち、最終的にはタクシー運転手を説得してインド大使館まで連れて行ってくれた。

「あの日、少なくとも50~60人は撃たれていたと思う。 一人の少年が 頭を撃たれて死んだ。 彼の母親がやってきて、タリバンが他の家族を撃つところから彼の遺体を救った」とバスさんは回想した。

バスさんがインド大使館に到着すると、武装したタリバン勢力が彼女の入館を阻止した。大使館のゲートでの45分間の交渉の末、彼女は記者証を肩掛け式の対戦車砲を持ったタリバンの指導者に見せ、「本物のタリバン」なら「外国人女性」をこれほど長く道路に立たせることはないだろうと叱責した。

翌8月17日、彼女はついにインド空軍のC-17グローブマスター輸送機に乗り込んで帰国した。

カブール空港爆発

8月26日、カブールのハミド・カルザイ国際空港のアビー・ゲート近くで、自爆テロが発生した。この攻撃は、13人の米国軍人と約170人のアフガニスタン人の命を奪った。米軍が今月発表した報告書によると、この爆発はアブドゥル・ラフマン・アル・ロガリによって実行された。彼は以前、アフガニスタンの連合軍拘置所に収容されていたが、タリバンの支配下で釈放された後に、攻撃を仕掛けた。

バスさんはその日、事件現場に非常に近い場所にいた。彼女はインドの大使であるルドリンドラ・タンドン氏を含む一団に同行しており、アビー・ゲートで長時間の待機を強いられていた。バスさんは、「外にはたくさんの人がいて、私たちの窓をノックしていた、『ここにいたら殺されるから、子供を連れて、せめて夫か妻を連れて家の中に入れ』と言う人もいた」と語った。

それから数日間、空港周辺には絶望的な群衆が集まり続け、逃げ出すことを望みながら炎天下で待ち続けた。爆弾テロについて聞いたとき、バスさんは自分がいかに幸運であったかを思い知った。バスさんは「あのときも、こんなことがあったかもしれないと思ったんだ」と語った。

彼女はビザの発給を担当していたアメリカの何人かが、爆発で死んだかもしれないことに気づいた。バスさんは「そこにいたかもしれない13人のアメリカ人、若い少年少女たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだっだ」と述べた。「 C-17に搭乗したとき、私はパスポートの手続きをした多くのアメリカ兵、若い女の子や男の子と交流した。たぶん、何人かはその場にいた」と語った。

彼女は、窓の外では母親たちが子供を引き渡す覚悟で助けを求めていたことを思い出した。 死者の数は報道されているよりもっと多いのではないかと疑っていた。

カオスからの生還

タリバンによってカブールの美容院が封鎖されたという出来事が、バスさんの記憶を呼び覚ました。彼女が訪れた美容院は、若い女が営んでいたものだった。バスさんによると、タリバンの到来により、その美容院は閉鎖され、看板やポスターは破壊された。

バスさんはその美容院に2度も足を運んで、サロンのオーナーと友達になった。オーナーは、1996年にタリバンがアフガニスタンを支配したとき、2歳だったそうだ。その後、彼女の家族はパキスタンに逃れた。彼女はイスラマバードで美容コースを受け、帰国後は夫とともにサロンを開業した。

バスさんは「私は彼女に、『タリバンが復活すると言われているけど、どうするの?』と尋ねた。彼女は『私はサロンを閉鎖するつもりはない。タリバンもそれを知っているから』と答えた」と言った。

バスさんは、アフガニスタンから脱出した若いサロンオーナーとの連絡を保ち続けている。バスさんは「タリバンは毎晩、夕食を作るよう彼女に頼んでいる。そのため、毎晩20~25人のタリバンの戦闘員や指導者が彼らの家に来て、彼女は彼らのために毎日ロティとケバブを作っている。もちろん、彼はいい稼ぎをしていた。でも今は、それがすべてなくなってしまったん だろう」と語った。

インドと南アジアの地政学を専門とする記者。不安定なインド・パキスタン国境から報道を行なっており、インドの主流メディアに約10年にわたり寄稿してきた。主要な関心分野は地域に立脚したメディア、持続可能な開発、リーダーシップ。扱う問題は多岐にわたる。
徐天睿
エポックタイムズ記者。日米中関係 、アジア情勢、中国政治に詳しい。大学では国際教養を専攻。中国古典文化と旅行が好き。世界の真実の姿を伝えます!