上海で遺伝子治療後に男児死亡 中国バイオ産業の急発展に潜むリスク

2026/08/07
更新: 2026/08/07

中国で進められている最先端の遺伝子編集治療をめぐり、深刻な安全性への懸念が浮上している。米医療情報サイト「STAT」は8月5日、上海のバイオ企業「輝大基因(HuidaGene)」が実施したデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)向けの遺伝子編集治療の臨床研究で、4~8歳の男児が治療後に死亡していたと報じた。

同社は2025年8月に発生した事案であることを認め、患者は高用量のアデノ随伴ウイルス(AAV)ベクターによる全身投与後、補体およびサイトカインの過剰な活性化を背景に急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を発症したと説明した。

先月23日にも、科学誌「Science」が上海の研究チームによる脳を標的とした遺伝子編集治療で、発達遅滞のある6歳女児が死亡した事例を報じていた。

相次ぐ死亡事例は、単なる個別の医療事故にとどまらず、中国で急速に拡大してきた研究者主導型臨床試験(IIT)の制度的な問題を浮き彫りにしている。

問われる「高速開発モデル」の安全性

STATが指摘する両事例の共通点は明確である。

第一に、いずれも研究者主導型臨床試験として実施され、国家規制当局による事前審査や監督が限定的だったこと。

第二に、患者はいずれもウイルスベクター投与によって誘発されたとみられる重篤な免疫反応で死亡したこと。

第三に、重大事案が発生した後も、研究機関や企業から十分な情報公開が行われなかったことである。

遺伝子治療は、難治性疾患に対する画期的な治療手段として期待されている一方、人体の遺伝情報に直接介入する極めてリスクの高い医療技術でもある。

特にアデノ随伴ウイルスベクター(AAVベクター)を用いた治療では、投与量が増加するほど免疫反応や臓器障害の危険性が高まることが知られている。今回のデュシェンヌ型筋ジストロフィー治療では、後続試験で体重1キログラム当たり約100兆個のウイルス粒子を投与する計画が示されていた。

専門家の間では、E14(1兆規模)以上の投与量では重篤な副作用への警戒が必要であり、E15(10兆規模以上)は臨床使用が制限される水準とされる。こうした高用量投与を伴う治療では、安全性評価と慎重な段階的試験が不可欠となる。

中国IIT制度の「抜け道」と批判

今回、特に注目されているのが中国のIIT制度である。

通常、新薬や遺伝子治療製品を開発する場合、国家規制当局による厳格な審査を経る必要がある。しかし、中国の研究者主導型臨床試験では、一定の条件下で国家薬品監督管理局(NMPA)の事前承認を必要とせず、医療機関の判断で試験を開始できる仕組みが存在してきた。

この制度は、希少疾患など市場規模が小さい分野で新たな治療法を迅速に患者へ届ける利点がある。一方で、安全性評価、情報公開、責任所在が不十分になる危険性も指摘されている。

米ペンシルベニア大学の遺伝子編集研究者キラン・ムスヌル氏は、中国のIIT研究について「中央レベルの監督と透明性が欠如していることが最大の懸念だ」と指摘した。

同氏は、輝大の試験記録から判断すれば、研究結果はすでにプレプリントとして公開されているべき時期に達しているにもかかわらず、現在も公表されていないと述べ、「同様の事例が他にも存在している可能性があるが、我々には知る手段がない」と警鐘を鳴らしている。

「世界最先端」を掲げる中国バイオ産業の影

輝大は2018年、中国科学院神経科学研究所の研究者・楊輝氏によって設立された。CRISPR技術を利用した次世代遺伝子編集治療の開発を掲げ、短期間で6種類の遺伝子編集療法を人体試験段階まで進めてきた。

中共当局は近年、人工知能やバイオテクノロジーなど戦略分野で国際競争力の向上を推進しており、遺伝子治療分野でも迅速な研究開発を重視してきた。

しかし、技術開発の速度を優先するあまり、安全性確認や倫理的審査が後回しになれば、患者が実験的治療のリスクを負うことになる。

今回の事例では、輝大の元最高経営責任者(CEO)や最高技術責任者(CTO)が退社していたことも明らかになった。両氏は死亡事案との関連を否定しているが、企業内部での情報共有や危機対応の在り方にも疑問が残る。

問われるのは技術ではなく制度の信頼性

遺伝子治療の研究過程で重大な副作用が発生すること自体は、世界的にも例外ではない。過去にも、遺伝子治療の臨床試験や承認後の治療で患者死亡例は報告されている。

しかし、問題なのは事故や副作用の発生だけではない。

科学研究において不可欠なのは、失敗やリスクを迅速かつ透明に公開し、次の安全対策につなげる仕組みである。

中国の遺伝子編集治療をめぐる今回の一連の事例は、最先端技術の競争において、研究速度だけではなく、規制制度、倫理審査、情報公開の信頼性がいかに重要であるかを改めて示している。

「世界最先端」を目指す中国のバイオ産業が国際的な信頼を獲得できるかどうかは、技術力だけでなく、こうした制度的課題にどう向き合うかにかかっている。

林燕