論評
故リチャード・ジョン・ノイハウス神父はかつて、生命倫理学者について「考えられないことを、議論可能なものへ、さらに正当化可能なものへと導き、最後には当たり前のものとして定着させることを職業としている」と述べたことで知られている。
彼の指摘は正しかった。急進的な生命倫理政策が、何もないところから突然現れるわけではない。論争を呼ぶ、時には有害ですらある考え方が、一般の人々の目にはほとんど触れない生命倫理や医学の専門誌で議論される。そして、その分野でおおむね合意が形成されると、かつて「考えられない」とされた政策が「突然」正当化され、やがて当然の公共政策となっていく。
二つの例を挙げよう。かつて、自殺幇助の合法化は到底受け入れられないものと考えられていた。その後、生命倫理学者がそうした法律を支持する議論を始めると、死を早める行為は議論の対象となり、次に正当化され、現在では多くの地域で、何千人もの人々がその方法によって死亡しているにもかかわらず、珍しいものではなくなった。
同様に、2009年ごろから、性別違和を抱える子供を思春期抑制剤で「治療」すべきだと主張する論文が専門誌に掲載され始めた。それからわずか十数年後、バイデン政権は思春期抑制剤を用いた性別移行を正当なものとみなし、政府の公式政策とした。さらに複数の民主党優勢州では、それに同意しない親から親権を取り上げることを認める法律まで制定された。
だからこそ、生命倫理の議論において、臓器提供の「デッド・ドナー・ルール(死者提供者原則、DDR)」が現在攻撃の対象となっていることに注意を払わなければならない。DDRとは、生命維持に不可欠な臓器を摘出する前に、提供者が確実に死亡していなければならないという原則である。これに付随する原則として、臓器を得るために人を死なせてはならないという考え方もある。
ところが、DDRの撤廃は今や生命倫理の世界で「議論可能」な段階に入っている。これは潜在的に壊滅的な結果を招きかねない。もし人々が、自分や家族が重病や重傷を負った際に、生きているうちに臓器を摘出される危険がある、あるいはさらに悪いことに、臓器を得るために殺される可能性さえあると考えるようになれば、移植医療への信頼は、マグニチュード7.5の地震に見舞われた粗雑な建物のように崩壊しかねない。
しかし、多くの生命倫理学者はそう考えていないようだ。影響力のある医学誌『Journal of Medical Ethics』の最新号では、ある生命倫理学教授が、DDRはそれほど論争のない他の生命倫理上の方針と整合していないと主張している。
例えば、その教授は、利他的な腎臓提供では、生きている提供者の腎機能を低下させるという害を与えてもDDRには違反しないのだから、生きている提供者から肝臓を摘出することも認められるべきだと主張している。
腎臓を一つ提供したことで提供者が死亡することはまれであり、最悪の結果が起きたとしても、それは意図したものではない。しかし、生きている人から肝臓を摘出すれば、その人は例外なく数時間以内に死亡する。これは極めて重大な違いである。
同様に、その教授は、胎児を救うための手術では切開などによって母親に身体的な害が生じるものの、母親自身が赤ちゃんの命を優先してそれを受け入れる場合があると指摘している。さらに、赤ちゃんを救うために緊急帝王切開を行い、それによって母親が死亡する可能性が高いケースについても、医師が患者に害を与える一例だと主張する。そして、一貫性を保つのであれば、提供者がまだ生きている段階で生命維持に不可欠な臓器を摘出することも認めるべきだとしている。
最初の二つのケースでは、意図せず死亡する可能性があるかもしれない。しかし、最後のケースでは確実に死亡する。
さらに明確な主張もある。7月に『New England Journal of Medicine(NEJM)』に掲載された提言記事では、安楽死と臓器摘出を組み合わせること――これはすでにカナダ、オランダ、ベルギーなどで行われている――だけでなく、安楽死が合法化されている地域では、より良い状態の臓器を得るため、臓器摘出そのものを死に至らせる手段とすべきだと論じている。著者らは、この政策案を「臓器提供による死(death by organ donation)」と呼んでいる。
著者らによると、「臓器提供による死」を導入すれば、心臓の提供が可能になり、温阻血時間を短縮することで移植を受ける患者の予後を改善できるという。それによって移植臓器の初期機能不全の発生率を、脳死後の臓器提供と同程度まで低下させられる可能性がある。さらに、臓器提供者を大幅に増やし、多くの命を救える可能性があるとしている。
では、このような「死なせて臓器を摘出する」という提案は、どこまで医学界で受け入れられる議論になっているのだろうか。
NEJMや『Journal of Medical Ethics』以上に権威ある医学誌を見つけるのは難しい。実際、臓器を得るために人を死なせるという考えは、主流の世界でも十分に「議論可能」なものとなり、「臓器提供による死」を提唱する著者の一人が、米国のNPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)の正式なインタビューに登場するまでになっている。
DDRを生命倫理上の攻撃対象とすることは、賢明ではなく、潜在的に有害でもある。移植医療に対する国民の信頼は、すでに非常に脆弱だからである。
その信頼をさらに揺るがす出来事として、ロバート・F・ケネディ・ジュニア米保健福祉長官は最近、フロリダ州とケンタッキー州の二つの臓器調達機関について、政府の認定を取り消したことで大きく報じられた。理由は重大な倫理上の問題であり、その中には、ケンタッキー州の機関が、臓器提供者がまだ動いていたにもかかわらず、臓器摘出を続行するよう求めた事例も含まれていた。
幸いにも、医師たちは手術の実施を拒否した。臓器調達機関の対応とは無関係に、その患者は回復し、最終的には退院することができた。
ここで重要なのは、「臓器提供による死」という考え方は、生命倫理の世界でも依然として論争の対象であり、自殺幇助が認められている地域でさえ、現在も違法だということである。しかし、現状がそうだからといって安心してよいわけではない。移植医療の倫理を守ることは、生命倫理学者だけに委ねるにはあまりにも重要な問題である。
臓器提供が残酷なものへと変質することを防ぎ、多くの命を救ってきた移植医療への国民の信頼を維持したいのであれば、この議論をこれ以上進めてはならず、臓器を得るために人を死なせることは決してないということを、明確に示さなければならない。
そうして初めて、この有害な提案を、本来あるべき生命倫理上の「考えられない」領域へと戻すことができるのである。

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