台湾の2026年統一地方選挙を前に、台北市長選が注目を集めている。民進党の立法委員で、国立台北大学犯罪学研究所の准教授でもある沈伯洋氏への支持が、若者や無党派層などに広がっている。沈伯洋氏の名前の「洋」にちなんで「洋流」と呼ばれるこの動きは、従来の民進党支持層以外にも広がっている。
台北市では、国民党を中心とする「青陣営」が、民進党を中心とする「緑陣営」よりも優勢とされてきた。沈氏への支持の広がりが、この構図を変えるのか。台湾政界全体が選挙の行方に関心を寄せている。
本稿では、世論調査や市政への評価、インタビューでの発言、台湾海峡の安全保障情勢から、「洋流」が広がる背景を探る。蔣万安市長の市政運営に対する4つの不満、沈氏の7つの強み、選挙や政治に見られる7つの変化を取り上げる。また、支持層の拡大につながった出来事、中国共産党による国境を越えた弾圧や選挙介入の疑惑、蔣陣営の対応を整理する。
第一 台北市長選の「洋流」とは 沈伯洋氏への支持拡大と世論調査
台北市は、青陣営の支持基盤が強く、民進党にとって厳しい選挙区とされてきた。2022年の台北市長選では、国民党の蔣万安氏が42%、民衆党側の黄珊珊氏が25%、民進党の陳時中氏が30%の票を得た。国民党と民進党の候補者の得票率には、10ポイント余りの差があった。
2026年5月13日、民進党の頼清徳主席は、沈氏を台北市長選の公認候補に正式指名した。沈氏は、強い支持基盤を持つ現職に挑むことになった。
沈氏は、台湾大学で法学の学士号、アメリカのペンシルベニア大学で法学修士号、カリフォルニア大学で犯罪学・法社会学の博士号を取得している。一方、公認当初は、一般の有権者に十分知られていたわけではなかった。
世論調査に表れた追い上げ
5月の公認直後の世論調査では、蔣氏が沈氏を28ポイント引き離していた。
9月22日に公表された戴立安氏による世論調査では、その差が1.2ポイントに縮まった。
約5か月の間に、30ポイント近かった差が、調査の誤差の範囲内とされる水準まで縮まったことになる。短期間で大幅な追い上げが見られた。
街頭でも、沈氏への関心の高まりがうかがえる。サインや記念撮影を求めて数百人が列をつくり、10月4日の選挙事務所開設集会には12万人が集まった。陣営が当初見込んでいた1万人の12倍である。
「洋流」は、選挙の合言葉にとどまらず、台湾各地から関心を集める動きとなっている。

第二 蔣万安市政への4つの不満 生活環境・実績・説明姿勢・AI政策
「洋流」が広がった背景には、沈氏への関心に加え、現市政への不満がある。主なものは、次の4つである。
1.生活環境への不満と市政評価の伸び悩み
この3年間、台北市では生活環境の悪化を訴える声が上がっている。
ネズミの出没
台北地下街のエスカレーターや地下鉄の車内で、ネズミが出没した。信義区の百貨店に入るルイ・ヴィトンの店舗でも確認され、衛生面や安全面への不安が広がった。
樹木の伐採
市政府は、過去1年間に3000本を超える樹木を伐採した。理由の説明が不十分だとして、環境保護団体や市民から反発が出ている。
市政への満足度
『天下雑誌』の最新の県市長施政満足度調査では、蔣氏は22県市の首長の中で13位だった。6直轄市の市長の中では4位で、市政への評価は伸び悩んでいる。
2.暮らしの中で実感できる実績の乏しさ
台北市の歴代市長には、市民の記憶に残る政策や事業がある。
馬英九市長(1998~2006年)
指定ごみ袋の購入を通じて、ごみ処理費を負担する制度を導入した。2001年には、アジアの廃棄物管理分野で優秀賞を受賞した。また、汚水下水道への接続率を40%から80%に引き上げた。
郝龍斌市長(2006~2014年)
市民相談窓口「1999ホットライン」と、シェアサイクル「YouBike」を導入した。いずれも現在まで、市政府の主要なサービスとして利用されている。
柯文哲市長(2014~2022年)
台北流行音楽センターと台北パフォーミングアーツセンターの建設を進めた。両施設は、在任中に開業した。
蔣万安市長(2022年~)
市政府は、「エヌビディアの北投士林科技園区への進出」「地下鉄6路線の整備推進策『2.0』」「台北ドームの開業」を3大実績としている。
ただし、地下鉄計画の多くは前任者から引き継いだものである。エヌビディアの進出も、企業側の経営判断によるところが大きい。
こうした事業が日々の暮らしにどのような利益をもたらすのか、市民には実感しにくい面がある。
3.質問への直接的な回答を避ける対応
蔣氏は、市議会での質疑や記者の取材で、質問とは別の話題を持ち出すことがある。
自動運転バスの運行について尋ねられた際には、台北ドームの開業や、コンサートの経済効果に話題を移した。
こうした対応は、政治的なリスクを避けることにはつながるかもしれない。しかし、具体的な問題の解決を求める有権者には、十分な説明とは受け止められにくい。
4.AIを何に役立てるか
蔣氏と沈氏は、AIの活用方針でも違いを見せている。
台北市政府は、2035年までに台北を世界トップ10のAI都市にする目標を掲げている。当初は、自動運転の散水車やシャトル車両、路線バスの導入に重点を置いていた。
これに対しては、市民が必要とするものを十分に把握しているのかという指摘がある。運転手の雇用や交通安全への懸念も出ている。
沈氏は、AIを身近な困りごとの解決に使う方針である。「AIコーチ制度」を提案し、昔ながらの商店街や店舗に専門人材を派遣する。仕事の流れを調べ、それぞれの店で使いやすいAIツールを開発するという。
また、市民の声を受け付けるオンライン窓口を設ける構想も示している。寄せられた相談や要望をまとめて分析し、暮らしの課題を把握する考えである。
第三 沈伯洋氏の7つの強み 専門性と市民との対話
沈氏が党派を超えて支持を集める背景には、政策を説明する力や専門性、市民との接し方がある。主な特徴は、次の7つである。
1.難しい問題を分かりやすく説明する力
沈氏は、予備校講師や大学教員としての経験を持つ。市政の課題や予算の細部を理解したうえで、分かりやすく説明している。
記者から厳しい質問を受けた際も、具体的な実施手順を挙げて答える姿勢を見せている。
2.AIを市政に生かす力
大量のデータや情報戦の分析を得意としている。
世界各地の主要都市で、過去5年間に開かれた市政関連のフォーラムの記録やYouTube動画を集め、AIで分析した。
パリ、ニューヨーク、シカゴなどの都市や、セルビアでのネズミ対策・都市運営の事例を参考にしている。課題を整理し、解決につなげる市政運営を目指している。
3.動画や音声で伝える力
YouTubeやポッドキャストでの情報発信が広がる中、沈氏は落ち着いた受け答えと、筋道の通った説明で関心を集めている。
台湾のテレビ界で知られる王偉忠氏や、ニュースキャスターの李四端氏のインタビュー番組にも出演した。国民党の洪秀柱元主席も、沈氏の話術を公に評価している。
4.都市政策への取り組み
犯罪学の専門知識を持ち、都市計画にも取り組んでいる。都市再開発は、建物の建て替えだけで終わらせるべきではないと主張する。
土地利用の見直し、交通安全の確保、ゆとりのある歩道の整備、介護を支える場所づくり、緑地の確保を、併せて進める考えである。
5.海外の事例を取り入れる力
国際NGOの活動や学術フォーラムに長年参加し、各国の都市運営を学んできた。
東京の事例を参考に、地下鉄駅や公園で荷物の預かり、更衣、シャワーなどのサービスを提供する「スポーツステーション」を構想している。
欧米の「ナイトメイヤー(夜の市長)」制度の導入も提案している。夜間の経済活動と住民生活の間で生じる問題を調整する役割である。
6.市民との距離の近さ
庶民的な家庭に育ち、普段からバイクで街を走り、身近な変化に目を配っている。
市民の生活感覚に合った言葉で語り、安心してゆったり暮らせ、孤独への不安を抱えずに済む台北を目指すとしている。
7.穏やかな受け答え
文章を素早く読み、内容を理解する力があり、説明にも筋道が通っている。
一方、受け答えは穏やかである。政敵への個人攻撃を避け、相手が困らないよう助け舟を出す場面もある。対立の激しい政治の場で、緊張を和らげる役割を果たしている。
第四 「洋流」が示す7つの変化 個人攻撃から政策重視の選挙へ
「洋流」は、支持者を集めるだけの動きではない。ベテランのメディア関係者からは、台湾の民主政治を成熟させる動きだと評価する声もある。
その特徴は、次の7つに整理できる。
1.個人攻撃に頼らない選挙
誹謗中傷や、相手を中国寄りと決めつける攻撃を避ける姿勢を示している。安易なレッテル貼りではなく、議論を通じた選挙を目指している。
2.政策と将来像を競う選挙
自ら政策づくりに関わり、実施手順や財源を説明している。相手への攻撃ではなく、政策の内容を選挙戦の中心に据えている。
3.問題を解決する政治
過ちを認めようとしない行政の体質を改め、交通や生活環境など、市民の暮らしに直結する課題に取り組もうとしている。
4.市民が参加する政治
代表者に判断を委ねる仕組みを補い、市民が直接問題を伝え、政策の決定にも参加できる仕組みを目指している。
5.対等な立場での対話
市民が自由に意見を述べる「市民ソープボックス」の活動を進めている。候補者と有権者が対等な立場で、直接話し合う機会を設けている。
6.一人ひとりの暮らしを尊重する政治
公務員の過重な負担に目を向け、業務負担の軽減や保育施設の整備を主張している。
公務員も有権者も、それぞれ暮らしや感情を持つ一人の人間として尊重する姿勢である。
7.党派を超えた取材と議論
王偉忠氏、李四端氏、林書煒氏ら、青陣営とつながりを持つベテランのメディア関係者も、党派的な先入観にとらわれず、専門的な立場から質問している。
こうした対話を通じて、従来の支持層の枠を超えた議論が生まれている。
第五 支持拡大につながった2つの出来事 趙少康氏の番組と蔡康永氏の集会出席
1.趙少康氏のインタビュー
沈氏は、ベテランのメディア関係者である趙少康氏に招かれ、テレビインタビューに出演した。3人の司会者から厳しい質問を受けたが、落ち着いて答えた。
主なやり取りと番組後の反応は、次の6点である。
大麻合法化をめぐる批判への対応
青陣営から大麻合法化を主張していると批判された際、沈氏は、薬物対策では「治療と教育が重要で、収監の効果は乏しい」とする2つの発言を紹介した。
その後、いずれも蔣氏が立法委員時代に述べたものだと明かし、批判に反論した。
具体的な薬物対策
学校周辺では、薬物に関する問題が集中する場所を重点的に取り締まる方針を示した。
また、全12回の薬物使用防止教育を提案した。内容の7割をストレスへの対処、3割を薬物使用への誘いを断る方法の習得に充てるとしている。
リコールの権利
公職者の解職を求めるリコールは、憲法で保障された権利だと強調した。
政党間で考え方が異なるのは民主主義では当然であり、意見の違いだけで社会が分断されているとみなすべきではないと述べた。
中国共産党の脅威への対応
自身が、国境を越えた弾圧や監視の対象になっていると説明した。
そのうえで、恐怖を表に出せば相手の心理戦に乗せられることになるとして、ひるまない姿勢を示した。
支持を得るための努力
他党の支持者だけでなく、自身をよく知らない民進党の支持者にも、理解を得る努力が必要だと述べた。
番組後の趙氏の評価
番組終了後、趙氏は沈氏のフェイスブックに「今日の伯洋は格好よかった」とコメントを寄せた。
2.蔡康永氏の集会出席と鄭麗文氏の発言
10月4日の選挙事務所開設集会には、著名な司会者の蔡康永氏が目立たない形で出席し、沈氏への支持を表明した。
中国のインターネット上では、この行動に対する反応が広がった。この話題は微博の検索ランキングで1位となり、複数の中国ブランドが蔡氏との関係を打ち切った。中国軍のアカウント「軍正平」も、警告する投稿を行った。
沈氏と蔣氏は、ともに台湾の自由と民主主義を尊重するよう求めた。蔣氏も、中国側は台湾の自由で民主的な暮らしを尊重すべきだと公に呼びかけた。
一方、国民党の鄭麗文主席は、蔡氏に次のように問いかけた。
「中国大陸でこれほど長く活動し、これほど大きなビジネス上の利益を得てきたのに、本当に全て手放すつもりなのですか?」
この発言に対しては、民主主義の価値や個人の尊厳よりも、商業上の利益を優先しているとの批判が出た。青陣営の対中姿勢を疑問視する声も上がった。
第六 中国による選挙介入疑惑 候補者・家族への監視と越境弾圧
選挙戦が激しくなる中、中国共産党による台湾の選挙への干渉が疑われる事案が相次いでいる。こうした動きは、蔣氏の選挙戦にも影響を及ぼしている。
1.頼清徳氏の息子の住居を監視したとされる事件
アメリカの南カリフォルニアを拠点とする中国系の張婉瑩容疑者(34)が、10月4日にアメリカで逮捕された。
張容疑者は、中国共産党の指示を受けてシアトルに赴き、頼清徳氏の息子の住居をひそかに撮影・監視したとされる。中国側の工作活動への関与が疑われている。
台湾の選挙に影響を与えるため、頼氏に不利な情報を集めようとしたとされる事件である。国境を越えた監視や弾圧への懸念を強めるものとなった。
2.沈氏一家を39日間監視したとされる事件
香港から送り込まれた人物らが、沈氏と家族を39日間にわたり尾行・監視したとされる。
台湾の検察は、香港の2人を指名手配し、台湾の関係者4人を起訴した。
検察によると、関係者らは中国共産党から依頼を受け、沈氏の自宅前で昼夜を問わず撮影・監視していたという。子供も対象になっていたとされる。
台湾では、中国共産党が首長選挙に介入し、候補者の家族まで監視しているとして、強い反発が広がった。
3.蔡康永氏への批判とブランドの関係打ち切り
蔡康永氏は公開の集会に出席した後、中国共産党側から強い圧力を受けた。中国ブランドによる関係打ち切りも相次いだ。
この出来事は、沈氏が警告してきた認知戦や心理戦への関心を高めた。情報や心理に働きかけ、相手の判断や行動に影響を与えようとする動きである。
中国共産党に近いとみられる陣営への見方にも、影響を及ぼしている。
第七 蔣万安陣営はどう対応するのか 批判強化と選挙態勢の見直し
一部の政治評論家は、「洋流」を、似た考えを持つ人々の間だけで盛り上がる現象とみている。
一方、蔣陣営には、沈氏への支持拡大を警戒しているとみられる動きがある。主なものは、次の3つである。
1.大幅な優勢を示す世論調査が公表されていない
9月22日に戴立安氏が、両者の差は1.2ポイントだと発表してから約2週間、青陣営は蔣氏の大幅な優勢を示す説得力のある世論調査を公表していない。
このため、陣営内部の非公開調査でも支持率が接近しているのではないかとの見方がある。
ただし、別の調査が公表されていないことだけで、非公開調査の結果を判断することはできない。
2.沈氏への批判を強めている
蔣陣営は、現職として市政の実績を訴えられる立場にある。一方、最近は沈氏が14年前に書いた文章を繰り返し取り上げ、批判している。
その取り上げ方については、文章の趣旨を歪めているとの指摘がある。
こうした対応は、実績を訴えるだけでなく、相手への批判を強める必要があると陣営が判断していることをうかがわせる。
3.広報戦略を担う人物が選挙陣営に戻った
国民党のメディア対応やインターネット戦略を担う陳国軍氏が、悠遊カードを運営する悠遊卡公司の総経理を急きょ辞任し、蔣氏の選挙陣営に戻った。
陣営の体制を立て直すための動きとみられる。再選に向け、選挙態勢を強化する狙いがうかがえる。
台北市長選の行方 党派を超えた支持は投票につながるか
2026年の台北市長選では、候補者の政策に加え、市民との対話や、暮らしの課題への向き合い方が問われている。
「洋流」の広がりには、青陣営と緑陣営の対立や個人攻撃だけではなく、具体的な政策を求める有権者の動きが表れている。国際的な視野、AIの活用、問題を解決する力、一人ひとりの暮らしへの配慮が、判断の材料となっている。
党派を超えた支持がどこまで広がり、投票につながるのか。選挙の結果とともに、政策と対話を重視する動きが台湾の政治に根付くかどうかも、焦点である。
外部からの圧力に対し、自由と民主主義を守るためにどう対応するか。その姿勢も、国際社会から注目されている。

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