「伝える」から「伝わる」への飛躍

2007/03/21
更新: 2007/03/21

【大紀元日本3月21日】文化、を定義することは難しい。

辞書的な解説によれば、文化とは「人類の理想を実現して行く精神の活動」(岩波国語辞典より抜粋)であるという。そうすると文化の創造とは、人類の理想を目指すという方向においての善的な営みであることになる。一般論ならばそれでもよい。

敢えて再び問う。その文化に善悪の別はあるか、ないか。

このままでは答えが出しにくいので、「歴史上から現代に至るまでの、中国の文化において」と、限定的な条件を示すと分かりやすくなる。

そこには明確な善悪の別が存在する。悪の文化が作られてしまったからである。

悪の文化とは何か。それは20世紀の後半に中国の政治権力を握った独裁者が、自分に不都合なものを全て抹殺し、さらに政治的に利用するため奇形化させて作った偽文化のことである。この独裁者を「中国共産党」といい、悪の文化を「党文化」とよぶ。

悪の文化は中国の民をだまし続け、無数の生命を政治の溶鉱炉に突き落とした。

しかし今、この悪の文化に対抗して、人類の理想を目指すという本来の善的な使命に従い本物の中国伝統文化を復活させようと、勇気ある人々が立ち上がった。

中国共産党からの決別を表明した、全世界の華人たちである。

その輝かしい成果である「全世界華人新年祝賀祭」が、2004年より世界各地で開催されている。2007年は世界29都市で76回の公演が行われるが、そのなかの日本の2都市、尼崎と大宮での4公演が3月10日と14日に行われた。

「大唐」文化の特性

「あなたの最も好きな中国史上の時代はいつですか?」と聞かれた中国人は、ほぼ全員が唐代(唐朝618~907)だと答えるという。

唐代にも暗黒の歴史がなかったわけではないのだが、やはりこの時代の、特に開元の治と称えられた玄宗皇帝(在位712~756)のころは、多くの中国人にとって圧倒的な魅力をもつものらしい。

その理由は、中国文化の爛熟期であったから、ということに尽きよう。

三省六部からなる唐の官制は、中国歴代で最も整った制度であった。国政の実務をおこなう官僚には、儒教の経典を範とする登用試験、すなわち科挙によって選抜されるシステムを採用した。あまりの過酷な試験による後代への功罪はあるが、六朝以来の門閥貴族制度を縮小し、試験の成績という客観性を重視したことの意味は大きい。 

これとともに、忠・孝をはじめとする儒教道徳は、中国人の精神的支柱として確立された。なお、試験科目の一つであった詩作は、文人必須の教養として唐代において急速に発達し、中国文学史上に不動の地位を得た。

仏教は六朝時代から盛んであったが、唐代にはさらに隆盛し、玄奘や義浄らの唐僧によってインドからもたらされた仏典が漢訳されて、長安の都に仏教文化の大輪の花を咲かせていた。

西方から商業目的等で来朝したイスラムの民も、長安に多く定住するようになり、清真寺と総称されるイスラム寺院をもつことが許されていた。少数ながらキリスト教徒もいた。マニ教もゾロアスター教もあった。音楽などの芸能にも、西域から入った胡楽が流行し、長安の街中では碧眼の大道芸人が衆目を集めていた。

一方、唐朝の宗である李氏は、老子と同姓であるため道教を手厚く保護した。玄宗自身も神仙思想である道教への傾倒がつよく、道教はひろく民間へも普及した。

つまるところ中華文化の爛熟期である唐代は、漢民族独自の文化だけでなく、異教徒や異民族への包容力がきわめて大きく、あたかもそれらの異文化が共生して一つの総合文化を形成したような、世界史的にも稀有な文化隆盛の時代だったのである。

中国人はこの文化を、人為の産物ではなく、天からの啓示であると考えている。この「全世界華人新年祝賀祭」も、天啓である「大唐」文化がその精神的な基調とされている。

とりわけ、最初の演目『創世』にはその哲学が見事に象徴されており、人為的に作られた「悪の文化」に対して圧倒的な超越性を示すことで、冒頭から観客の心を一気に掴んだ。

唐という時代の懐の広さ

さて、唐代当時の日本人のなかにも、その百花繚乱の文化を現地で見る幸運を得たものがあった。遣唐使として唐土へ渡った留学生たちである。

その中のひとり阿倍仲麻呂(701~770年)は、第8回遣唐使の留学生として吉備真備らとともに717年に入唐した。時に17歳(19歳説もある)。長安の大学に学んだ仲麻呂は、科挙にも合格し、唐における官位を順調に昇進して玄宗皇帝の寵を受けるまでに出世した。そのため、吉備真備は天平7年(735年)に帰国できたが、仲麻呂はそのまま唐の官人として玄宗に仕えることになり、ついに再び日本の土を踏むことなく生涯を終える。

阿倍仲麻呂の伝記については周知の通りであるので、ここで詳述する必要はあまりない。ただ興味深いのは、たとえ仲麻呂に非凡な才能があったからとしても、中華思想の観点

からすれば東方の異民族である日本の青年を、皇帝に謁見できる官位をもつ高官にまで取り立てた唐王朝の許容度の広さである。

唐代の仲麻呂の例をのぞいて、東海の向こうから来た日本人が中国の高級官僚になれた例など、私は寡聞にして聞かない。

先にも述べたが、そのことからしてもこの時代の唐土の風は、総じて異文化を遠ざける逆風ではなく、むしろ迎客の順風であったことが想像される。

そう考えると実に愉快で、その風のなかへ、一度我が身も置いてみたい気がする。

中国文化の真の担い手は誰であるべきか

中国人、というと日本ではいわゆる「中華人民共和国」の人だけを指すと思われがちだが、これは正確な認識ではないだろう。

中国人、華人、中国系、チャイニーズ、呼称はいずれでもよい。彼らは世界各地にたくましく存在し、自己のアイデンティティを堅持しながら、それぞれの土地で中華民族の文化を守り続けている。その民族の文化の源流として、とくに唐王朝時代の文化、すなわち多文化共生の豊かで華やかだった時代の文化を、彼らはこよなく愛し、いまも自民族の誇りとしているのである。

つまり、逆説的ではあるが、居住する場所にかかわらず、その文化的背景と民族の魂を共有する全ての人々が中国人であると言えるのではないか。

それならば中国文化も、この人たちの手にこそ委ねられるべきであろう。

ところが20世紀の後半に入ると、中国国内において共産主義の政権が誕生した。それは革命の名のもとにおこなわれた伝統文化の徹底的破壊、および政治利用という、恐るべき暗黒時代の到来であった。中国共産党による伝統文化の破壊は、すさまじい自然破壊と同様、ことごとく天意に背く悪行であったことは言うまでもない。

そして、残念ながら21世紀の今も、中国国内の文化は悪魔の手に渡ったままである。

「全世界華人新年祝賀祭」日本公演

全世界の華人は、この同胞の受難を決して看過しなかった。

先日、尼崎と大宮で開催された「全世界華人新年祝賀祭」は、唐時代のそれを忠実に再現した美しい舞踊や音楽であるとともに、まったく中国政府のヒモ付きではない、本物の中国伝統文化の真髄を、初めて日本で披露してくれたことは誠に意義深い。

それにしても日本の観客を驚嘆させたのは、出演者のレベルの高さである。

モンゴル族・チベット族・タイ族・満州族など、それぞれの民族舞踊は実に美しく艶やかで、この機会をおいて他では決して見られない貴重なものであろう。

また同時に、中共によって抑圧を受けてきた中国の少数民族が、この新年祝賀祭のステージでは見事な共生の文化となって花開いていることに観客は気づかされるのである。

『帰位』という演目では、中共の迫害によって亡くなった法輪功学習者の善良な魂が天界へ昇華されるとともに、彼女を死に至らしめた悪者たちへ神仏の罰が下される、という明快な因果応報を表現している。

また『造像』では、一心に仏像を彫る石工の夢のなかに現れた神仏たちが生き生きと動き出し、善良な石工に啓示をあたえるという内容で、観客を大いに楽しませてくれた。

『燭光』では、蓮花の燭光を両手にかざし、迫害で亡くなった法輪功学習者の無数の魂を悼むとともに、暗闇のなかに一点の燭光が灯されるように、未来への確かな希望が表現されていた。

今回の日本公演における成功の鍵は、日本人の観客(あるいは法輪功学習者以外の観客)から見て各演目がどれだけ共感しやすい内容にされているか、ということであったが、その点からしてもよく合致したものであったと評価できるだろう。

さらには、司会者のお二人が、大変好感のもてる楽しい進行をしてくれたことにも感謝しなければなるまい。

ただ一点だけ希望するならば、歌詞のなかに何回もでてくる「真相」という重要語については、ぜひ日本人の観客にもう少し説明していただきたかったと思う。

その前提が明示されないと、最も大切な主催者の意志が伝わりにくくなるからである。

中国伝統文化の一大ルネサンス

ところで、舞台上の出演者、およびこの催しの準備のために奮闘してきたスタッフの多くは法輪功の学習者であるという。

法輪功とは、1992年に李洪志氏によって創始された「真・善・忍」と称する精神修養を重んずる気功団体であるが、中国国内にいるその学習者たちは、中国共産党によって凄惨な迫害を受け、いまも不当逮捕・虐待・拷問等により多数の犠牲者を出している。

その原因を簡潔に言えば、権力を握っている悪の側が善の出現を極端に恐れているからであり、法輪功の人々に迫害される理由は一切ない。

この「全世界華人新年祝賀祭」に携わる人々には、直接的な目的として、それら迫害を受けている法輪功の同胞を一刻も早く救いたいという願いが、当然ながらある。

そのため、歌詞や演目のなかに法輪功の理念を表現した内容がしばしば含まれていることに気づくのだが、法輪功学習者ではない私から、彼らの名誉のために一言付言すれば、彼らは決して法輪功の宣伝のためにこれを企画したのではない、ということである。

「これは中共のために失われた中国伝統文化の復興、つまり一大ルネサンスなのです」と、主催者は説明する。

中国文化の淵源である「大唐」文化が多民族・多宗教との共生と連帯によって形成されたように、「全世界華人新年祝賀祭」というこの世界的な催しが目指す精神も、一つの信仰や教義にとどまらない、人類に普遍的な道徳性と神仏の大きな慈愛なのである。

その上で、中国伝統文化の復興という極めて平和的な手段によって悪の文化を一掃しようとするもの、と私は理解する。

主催者のその言葉に、日本人である私も大いに賛同し、激励したいと心から思う。

「全世界華人新年祝賀祭」日本公演は、数々の困難を乗り越えて無事に終わった。

私の周囲の座席にいた日本人観客の反応を見ていても、それが十分に感動的なものであったことが伺える。

また、日本国内の法輪功学習者の方々からすれば、これまで中共による迫害の真相を必死で伝えようとしてきた苦労がようやく報われて、「伝える」段階から、「伝わる」段階へと大飛躍できた手ごたえを実感されていることであろう。

そのことを、いま私も静かに喜んでいる。

来年もまた、この「全世界華人新年祝賀祭」の日本公演が予定されていると聞く。

私たち日本の観客は、現代の阿倍仲麻呂となって、遠からぬ将来に再びこのすばらしいステージを堪能させていただけることは誠に喜ばしく、今から次回が待ち遠しい。

世界各地で絶賛されているこの「全世界華人新年祝賀祭」であるが、一方で、各国に潜入している中国共産党の特務機関からさまざまな妨害工作を受けているという。

最後に、中共のそのような卑劣な所業にも屈せず、すばらしいステージを作り上げてくれたすべての出演者・スタッフの方々へ、私たち日本人も大いに敬意を表し、心からの拍手を贈りたい。

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