鑑真の再来 文化の再興

2007/03/24
更新: 2007/03/24

【大紀元日本3月24日】

「若葉して御目の雫拭はばや」。

芭蕉は貞享五年(1688)、唐招提寺を訪れ開山堂に安置される鑑真和上像を拝し、この句を詠んだ。今でも、句碑として旧開山堂の前に立てられているこの句は、わずか17音であるが、淡々とした表現の中で瞑目の鑑真に対する芭蕉の限りない尊崇と敬愛の念がこめられ、作者の心情およびその臨場感を読者と共有させる絶唱である。

衆知のように、中国の高僧・鑑真和上は、聖武天皇の招聘に応えて来日を決意し、度重なる渡海の失敗や大いなる困難辛苦、そして失明しても初志を捨てずに、渡航を志してゆうに12年の歳月を経て754年、つい来日を果たした。

鑑真は来日後、東大寺に日本初の戒壇院を設け、聖武上皇以下に授戒したことを皮切りに、建築、彫刻、医学、思想、美術など当時世界文明の最高峰であった大唐文化を次々と伝えていた。日本文化の発展と向上に多大な貢献をし、日本文化に深遠な影響を与えていた鑑真和上、その史的な意義についていまさら言及するまでもない。

鑑真の再来

偶然とは言え、歴史には重複あるいは擬似現象が度々現れる。

1243年前、唐僧・鑑真は来朝し、日本文明の揺籃であった奈良を中心に関西の舞台で大唐の文化を伝えるために活躍していた。1243年後、この唐僧の足跡を踏むように、「新唐人」の「神韻藝術団」一行は、大唐の神伝文化を伝えるために関西の重鎮大阪を訪れた。この大阪は実は、奈良時代では都の港として遣唐使を送り出した地であったのみならず、日中文化交流の窓口でもあったのである。

3月10日、「神韻藝術団」は「全世界華人新年祝賀祭」の公演を2回行い、扶桑国の民に純真・善美なる大唐の文化、そして歴史の過去・現在・未来にかかわる多くの真実とメッセージを呈示した。彼らは、如意なる真理を持って来日し、正真正銘の神伝文化を伝え、人々の善心と良知を啓発することを使命とするゆえ、その公演は当然ながら、扶桑の民に瑞祥や善美をもたらしていたのである。

「世界一流のハイレベルの公演だ」、「あまりにも美しい。迫力で感動した。衣装もきれいで、体全体で感動した」、「期待していたよりも素晴らしかったので、今、感動している。幸せな気持ちになっている」、「中国の伝統文化がこのように日本で見られてとても嬉しい」、「日本を含めてアジアの古里の一部が中国にあるのだなと思った。日本人はみんなそういうところを持っていると思う」、「非常に素晴らしい。『創世』には終始感動した。ずっと涙を流していた。そのとき神様の存在を感じた。言葉で表現できないが、帰ったら、友人や知人に知らせ、来年はみんな連れてくる」。「この公演は『根探し』という内包を伝えている。つまり生命の根本を求めることだ。これほど素晴らしいものを代々継承していっていただきたい」。

このように、観客は感激・感動した心情を抑えきれず、絶賛し期待もしている。

公演前、国会議員ら政治家から公演を祝う祝辞が多数送られ、そして臨席して公演を鑑賞した政治家もいた。

衆議院議員・平野博文氏は、「中国の伝統文化の栄華を体現する、数々の音楽や舞踏の素晴らしさは、人類すべての人々の美感に訴え、純粋な心を呼び起こし、世界文化の発展と人類共通の願いである平和と愛を呼び起こすことに繋がることでしょう」と、祝辞で記す。

衆議院議員・大塚高司氏は、「日本は、世界文明発祥の地中国から紀元前の時代より様々な高度な文明の伝承を受け、その恩恵に浴し今日の時代に至っております」、「全世界にはばたき、活躍されているみなさまは、世界の国々におけます親善大使であると思います。私どもも自らの胸襟を開きよりよきパートナーとして対応することが、重要であると認識いたしております」、と記す。

衆議院議員・関芳弘氏は鑑賞後、「造像」という演目がもっとも好きだと強調し、日本文化の根は中国にあり、仏教を含め文化の多くは中国から伝わってきたものだ。今日、この公演を見て、日本文化の根は中国にあるという感がよりいっそう強まってきた、とコメントした。同氏は祝辞の中で次のように記す。「世界各地で好評を博している全世界華人新年祝賀祭が、この度日本でも開催されることを、喜ばしく感じています。古くなる唐の香りは、私たちの心に緑をもたらしてくれるものと思います」。

柏崎市議会議員・三井田孝欧氏は祝辞の中で、伝統文化の重視により民族の繁盛に繋がるものと強調し、また、今回中国の神伝文化の本質を伝える新年祝賀祭も必ずや新しい紀元を切り拓くにちがいない、と展望する。

歴史の新紀元を切り拓く 

半世紀以来、中国共産党は神伝文化を否定しつつ破壊してきた。かわりに、「党文化」を中国文化と誤魔化し正当化させようとしてきた。よって、中国人をはじめ歴史の専門家ではないかぎり、中国の神伝文化の真髄について分からなくなった。今回の公演は、「党文化」の形式も内容もなく、遮断された歴史文化の真実を再現し、正真正銘の神伝文化の真髄を明確に伝えることができた。それゆえ、観客たちは「神が伝えたものから始まり、仏教伝来、信仰を大切にしている思いが伝わってくる。心温まる内容が中国共産党のものとの大きな違いである」(東京都議会の土屋敬之議員)、また「本当に中華文明が復興される確かな手応えが感じられた」(日本義塾の太田龍塾長)など、感銘を受けたのである。

鑑真は、戒律を伝え授戒を行うなどの仏教活動というより、文化の使者として大唐の神伝文化を日本に伝えたことによって、日本の文化を繁盛させ扶桑の国民の精神を一段と昇華させた功績のほうが意味深いものと思われる。そして、今日、神伝文化を伝える「親善大使」とされる神韻藝術団の公演も同じく、中共の「党文化」を脱した正真正銘の神伝文化を伝えることによって、「純粋な心を呼び起こし、世界文化の発展と人類共通の願いである平和と愛を呼び起こすことに繋がる」し、「古くなる唐の香りは、私たちの心に緑をもたらしてくれる」効果が得られたのである。この公演は、すでに新しい日中文化の交流を促進し東洋文明の新しい紀元を切り拓き始めたといってもよい。

文明の更新、再興およびその創造は、いつも思想や観念の転換から始まるものである。それでは、長年中共の「党文化」に撹乱されてきた神伝文化の真髄、また、歴史・現在・将来に関する様々なメッセージを明確に知ることができ、且つ史上でいつも東洋文明を共有する日本にとって、新しい神伝文化の伝来によって、きっと燦爛たる日本文化の再興や創造に繋がるものであろう。

鑑真の涙、芭蕉の涙、観客の涙

鑑真は死ぬまでいつも笑顔をしており、その笑顔を見るたびに弟子や人々は励まされるという。こういった鑑真は生前、涙を流したことがあるか否かについて、今は考証しかねる。青々とした若葉で拭いてあげようとしたその涙はおそらく、芭蕉の文学的な抽象でしかなく、実在というより鑑真の慈悲なる心の象徴とされたものであろう。

それでは、鑑真はなぜその慈悲心が動いたのか。鑑真はおそらく、六道輪廻で苦しんでいながらも浮世に執着するばかりでなかなか悟らない衆生を見て、涙を流したのであろう。あるいは、末法時期に新しい鑑真たちが神伝文化と歴史に関する「真相」を伝えるその勇ましい偉業を観て感動したのであろう。あるいは、末法時代に起こる様々な惨事ならびに仏教で言い伝えられる「法輪聖王」がこの世に降りて仏法を伝え人々を救い済度するその大慈悲のために、涙を流していたのであろう。

鑑真を詠った芭蕉の句からして、芭蕉は鑑真を心より尊敬しその精神的内面も洞察できるようである。すなわち、鑑真の心を感じた芭蕉にとって、その涙は鑑真だけのものではなく彼と共有するものである。いわば、精神面で共鳴する人間の間に起こる精神的な共振現象なのである。

新鑑真たちの公演に、ほとんどの観客は感動していた。その中で、公演を見て普段の矜持を忘れ自ずと涙を流した観客もいる。しかも、涙を流した観客はけっして個別ケースではなく、普遍的な現象である。それでは、どうしてこういった現象が起こったのか。

泣くことは、人間の精神状況をもっとも素直に反映する人間の本能である。ましてや劇場で演劇を鑑賞するという通常の利益関係から離れた状況下において涙を流すなら、その行為は虚飾や偽りなどの素因が一切なく、人間の感情が自然に素直に表れたものでしかならない。多くの観客は、信念を貫き真相を世に伝えるだけで命を落とされた法輪功学習者の大慈悲に感動して涙を流し、あるいはステージの純真と善美に心を打たれ、または神伝文化の内包や歴史に関する「真相」を知った感動によって涙を流したのであろう。

大唐の神伝文化を伝えていた鑑真とその涙、千年後、その文化の継承人として芭蕉は鑑真の涙を思い描きつつ自らも涙をこぼす。そして、三世紀後の今、神伝文化伝播の使者はまた来朝し、扶桑国の民を魅了すると共にその涙をも誘う……

涙は決して高雅なる文化そのものではない。しかし、涙ほど偽りなく人間の内面を表せるものもない。逆に言えば、感動・震撼され涙を流すほどの文化なら、人類にとってきっと有益で優れた文化であると反証されるのであろう。日中文化交流史上において、こういったような「体全体で感動し」、「ずっと涙を流していた」意義深い文化体験は、決して多くはない。

文化は人類共通の財産である。中国と親縁が深く神の国日本は史上で、大唐文化の真髄を吸収し大和民族の独自文化を築き上げていた。しかも、中国でも失った大唐文化の数々を今日でもなお保存している。唐風が濃厚たる日本は今、「新唐人」を迎え、あらためて正統なる神伝文化の真髄を受け入れるべきと期待される。衆議院議員・市村浩一郎氏は、このような公演によって、日本を再生することができればとのコメントがあったが、氏の謂う「再生」とはおそらく、経済や政治そのものではなく精神文化の再興によって、民族の興隆と勃興に繋がるものであるに違いない。しかし、観客の反応からすれば、その受容はすでに黙々と行われ、そして実るのもさほど歳月を費やさないようである。

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