生前金正恩を批判 中国訪問の願望も 脱北した黄元書記死去

2010/10/17
更新: 2010/10/17

【大紀元日本10月17日】「金正日はまもなく自ら滅亡する。それを見届けない限り死ぬわけにはいかない」。北朝鮮から韓国に亡命していた黄長燁・元朝鮮労働党書記(87)は、健康状態を聞かれるたびにこう語っていた。しかし、金正日と後継者の三男が並んで朝鮮労働党の創建65周年記念日祝典式に出席した10日、ソウル市内の自宅で死亡しているのが見つかった。

黄長燁(ファン・ジャンヨプ)氏は、北朝鮮の指導理論であるチュチェ思想(主体思想)の権威として知られ、金正日(キム・ジョンイル)朝鮮労働党総書記の父、故金日成(キム・イルソン)北朝鮮元国家主席のゴーストライターとも言われていた。97年2月、チュチェ思想の講演のために訪日後、帰路の北京で韓国大使館に亡命を申請した。同年4月韓国に亡命後は、執筆・講演活動等を通じて、金正日による独裁体制を強く批判し、人権侵害の状況を広く訴えてきた。

10日午前9時半(日本時間)ごろ、自宅を警備中の警護員が、浴槽で倒れている黄氏を発見した。韓国の警察は、心臓麻痺で死亡したとみている。この日は、朝鮮労働党の創建65周年記念日で、ピョンヤンで盛大な記念行事が行われることになっていたことから、一部には暗殺説もささやかれたが、韓国・聯合ニュースによると、黄元書記は24時間体制で身辺警護を受けており、外部から何者かが侵入した形跡や外傷がないことから、事件性は低いとみられている。

朝鮮日報14日の報道によると、黄長燁氏は生前、公開の場で金正日政権を厳しく批判している。普段感情を表すことが少なかった黄氏は、金正日のことになると非常に憤り、金正日をずっと「やつ」とか「盗賊」と呼んでいたという。金正日の三男、金正恩(キム・ジョンウン)が正式に後継者になるという情報が入った際には、「(金正日の)やつはなんと厚顏無恥な盜賊だ。全くの恥知らずだ。(金正恩の)やつが後継者になったからといって、何ができるというのか。すぐに滅亡するに決まっている」と語ったと伝えている。

黄氏には、残された宿願がもう一つあった。それは中国の友人に会い、「中国は北朝鮮を支える手を放すべきだ」と言いたかった、と朝鮮日報が伝えた。中国への訪問について、かつて「今はまだ時機が熟していないが、いつかそこへ向かうべきだ」と言ったことがあったという。

今年3月末には、米国訪問中に、「北朝鮮政権の運命は中国の手中にある」「中国が北朝鮮との同盟関係を切断したら、それは北朝鮮にとって死亡宣告となる」などと発言した。また、中国は、北朝鮮の領土に野心を持っているというよりは、北朝鮮が自由民主化されたら国境周辺の朝鮮族に影響してしまい、中国の分裂をもたらすことを一番恐れていると指摘していた。

韓国は国民勲章授与

黄長燁氏は、金泳三(キム・ヨンサム)氏が大統領を務める97年に韓国へ亡命し、その直後から、頻繁に北朝鮮批判を行っていた。ところが、金大中(キム・テジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)時代には、政府が「太陽政策」によって南北関係の改善を図ろうとしたことから、黄氏の公開の場での活動は大きく制約を受けた。黄氏は生前これを厳しく非難し、次のように語ったことがあるという。

「金正日体制が今も続いているのは、金大中、盧武鉉政府のせいだ。‘太陽政策’は北朝鮮の人々をさらに深い苦しみに陥れ、金正日を助けただけだ。‘叛逆’政策と言ってもいい」(朝鮮日報14日)

08年の李明博(イ・ミョンパク)政権発足後は、黄氏は海外旅行や執筆・講演などの自由が認められ、大学での講演や対北朝鮮放送への出演など、公開活動を積極的に行っていた。

12日には、「北朝鮮の人権改善に向け尽力した」として韓国政府から無窮花(ムグンファ)章(国民勲章1等級)が贈られ、14日には、遺体が国立墓地「顕忠院」に埋葬された。「顕忠院」は、「社会に顕著な貢献をした人物」を埋葬する墓地とされており、朝鮮戦争で犠牲になった軍人らが祀られている。

黄長燁氏は、戦前に日本の中央大学への留学経験を持ち、日本のメディアのインタビューにも日本語で応じることができたという。韓国亡命前の97年2月の来日に続いて、今年4月には、拉致被害者家族らとの面会のために再度日本を訪問した。99年には、文芸春秋から『金正日への宣戦布告・黄長燁回想録』が出版されている。

(編集・大江)
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