特別リポート:凍てつく辺境の地、北朝鮮を逃れた脱北者は語る

2018/04/29
更新: 2018/04/29

Seung-Woo Yeom and Hongji Kim

[ソウル 12日 ロイター] – 脱北者のほとんどが、国境の川を越えて北朝鮮から逃れている。ソウルにたどり着いた脱北者に、話を聞いた。

<川で命を落とした父>

ソン・ビョクさん(48)は、プロパガンダ作品のアーティストだった。父親は、2000年に図們江を渡ろうとして溺れて死んだ。ソンさんは2001年に北朝鮮を脱出するとき、家族の写真を持ってきた。

「(2000年の)8月に、食べ物を探して故郷を出た」と、ソンさんは最初に脱北しようと試みた当時を振り返る。

「私たちの町は内陸部にあったので、川の水位はどこが高くて、どこが低いのか分からなかった。その当時は知らなかったが、そのとき川は、雨の多い季節で増水していた。それでも渡らないとだめだと思った。

「中国に渡って、食べ物を手にすることしか考えられなかった。服を脱いで縛り、そのひもで体をつないだ。父には、離さないように言った。川の中ほどまで来たときに、急にひもが軽くなり、振り返ると、父が流されていくのが見えた。

「私は慌てた。父は水にのまれかけていた。私は大急ぎで北朝鮮側に戻り、国境警備兵に父を助けてほしいと頼んだが、彼らは、なぜお前は死なずに逃げてきたのか、と言うだけだった。私は手錠をかけられ、連行された。8月28日のことだった。

「私は、会寧(フェリョン)で保衛省(秘密警察)の拷問を受けた。その後、清津(チョンジン)の強制収容所に4カ月入れられた。釈放後、私は生き延び、生き続けなければならないと思った。

「再び脱出を試みる前に、故郷の家に戻り、家族の写真を持ってきた。もし脱出しようとして死ぬことになっても、少なくともこの写真を持っていたいと思ったのだ。

「父を見つけることはできなかった。韓国に到着後、2004年に中国に戻り、川のほとりで父の弔いをした。心が、まだ痛む」

<母親から贈られたコート>

カンさん(28)の両親は、カンさんが2010年に韓国に脱北した後に、中国国境を経由してコートを送ってくれた。

「母親にこのコートを送ってほしいと頼んだわけではなかったのに。でも私が寒がりだと知っていたから送ってくれた」と、カンさんは言う。彼女は、下の名前の公表を拒んだ。母親は、一緒に蜂蜜も送ったというが、途中で紛失されてしまった。

「このコートは、犬の毛皮。どんな犬かは知らない。2010年当時、約70万北朝鮮ウォン(非公式レートで88ドル=約9500円)もして、本当に高価だった。北朝鮮出身の友人が、中国まで引き取りに行ってくれた。

「受け取ったとき、すぐに気に入った。母が大枚をはたいたに違いないと思った。私の父は党職員で、家族は自家用車を持ち、特別なアパートに住んでいた。

「普通の人は、こんなに高価なコートを着ることができない。兵士でもそうだ。将校は買えるだろう。国境警備隊の隊員も。この種類のコートを買うのは、簡単ではなかった。でも、次第にニセモノが出回るようになった。

「国は、この種のコートを取り締まっていた。本来は軍の支給品なので、デザインを勝手に変える人を監視していた。見ただけで、私のコートは、正規品ではなく、模造品だと分かる。

「模造品は、正規品とだいぶ見た目が違う。軍の将校も、正規品よりデザインがいい模造品の方を好んでいた。裕福な家の子どもがよく着ていた。

「私はこれを着ると太って見えるので、ここでは着ていない。修理すれば、着られると思う」

<国境の収容所から脱出>

 

イ・ウイリュクさん(30)は、中国国境に近い穏城(オンソン)の出身。2010年に脱北する際、身分証明書を持って逃げた。

「北朝鮮を去るとき、身分証明書を持ってきた。発行日は、主体暦95年11月7日(2006年11月7日)だ。

「血液型はA型と書いてあるが、実際はO型だ。北朝鮮で暮らした23年の間、ずっと自分の血液型はAだと思っていた。血液型検査もせずに身分証に適当に記入していたのだ。

「私は、金正日(総書記)の誕生日ごろに韓国に逃れようとして捕まった。誕生日の前後は、国境警備が強化されるのだ。

「灯台下暗しというので、私は警備の鼻先を抜けて(川を)渡れると思っていた。

「私が図們江から逃げようとすると、兵士たちは私に向かって発砲してきた。なんとか逃げおおせて隠れたが、誰かが密告し、捕まってしまった。保衛省(秘密警察)に3カ月拘束され、尋問された。韓国への逃亡を試みたとして、私は政治犯収容所に送られることになった。

「私は、収容所に送られる途中で逃亡した。身を隠し、何とか姉の家までたどり着いた。写真を持ち出したのはそのときだ。帰郷は容易ではなかったので、どこか離れた地域の山中に隠れることにした。

「捕まらずに移動するには、身分証が必要だった。この12枚の写真は、思い出に浸りたいときのために持ってきた。

「忘れないように、裏に何の写真か書き留めておいた」

<チョンさんと軍服>

チョン・ミンウさん(29)は、中国国境に近い恵山(ヘサン)の出身。北朝鮮人民軍の元将校で、軍服姿で北朝鮮を脱出した。韓国の情報当局がその軍服を没収したが、知り合いの北朝鮮軍筋に頼んで、新しいものを送ってもらったという。

「韓国に到着したのは2013年11月22日。自分の部隊から脱走したわけではない。カネを稼ぐために来た。国境警備兵には、出国すると話した。われわれは軍人同士なので、それで済んだ。

「タイまでたどり着いたところで、友人に衣服を借りて、軍服は念のためバッグにしまっておいた。もし北朝鮮に戻ることがあれば、必要になるからだ。北朝鮮では、軍服と身分証は貴重な財産だ。軍は、何でもできる。

「私が元々着てきた軍服は、韓国の情報当局に渡した。これも本物だが、韓国に密輸したものだ。

「これは、綿でできた夏服。脱北者が経験を語るテレビ番組『いま会いに行きます』に出演した時に着た。こうした軍服は、北朝鮮の市場では売っていない。私はいまも北朝鮮の軍当局者とやり取りがあるので、2014年に頼んで送ってもらった。

「費用はすべて自分で払った。川を越えて中国側に荷物を届ける料金や、中国から韓国までの送料もだ。総額数百ドルかかった。

「私の軍服は支給品だったが、自分で作る軍人もいる。約4万北朝鮮ウォン(非公式レートで5ドル)ぐらいで、仕立てたり、直してくれたりする仕立て屋がいる。

「本来、軍服は売ってはいけないものだ。軍備品は、裏で取引される。軍人は、よりかっこいい軍服を着るために、買ったり直したりするのだ。

「北朝鮮では、非番の日でも毎日軍服を着ていた。普通の服は着れなかった。もし着たら、車に乗れない。私からタバコを盗もうとしたり、ケンカをしかけてきたりする人がいるかもしれなかった。

「もし北に戻ったなら、車に乗ったり他人から盗んだりするために、あの制服が必要になる」

<金日成主席の教え>

イ・ミンボクさん(60)は、北朝鮮の農業科学院の研究員だった。イさんが、最初に脱北を試みて失敗したのは1990年のこと。その後、1991年6月に脱北に成功し、1995年に韓国にたどり着いた。家族が送ってくれたという日記を見せてくれた。

「私には研究者気質なところがある。金日成主席の教えは、日記をつけることをすすめている。北朝鮮では誰もが金日成主席の教えに忠実に従わなければならない。従って、私も日記をつけていた。

「ここでは金日成主席は悪者だが、北朝鮮では全てを超越した存在だ。彼はよく勉強し、人々を目標に向かって導いたと教わった。私はその教えに従って生きていた。日記を書いたのは、指導者への忠誠心からだ。それが私たちのイデオロギーであり、私はそれを厳格に守っていた。

「考え方の異なる人など、誰もいなかった。

「日記は、韓国に到着して10年たったころに手元に届いた。私は当時、北朝鮮の家族に送金を続けており、家族が日記を送ってくれた。日記には、不満は何も書かなかった。もし書いていたら、大問題になっていただろう。

「日記は、北朝鮮時代の私の人生の記録だ。これらを題材に本を書くことを考えている。南北統一が実現したときに、いかに北朝鮮人の思考を変えるかという本だ。私の日記を見れば、北朝鮮人の考え方や、その構造が分かる。これを証拠として、テキストにすべきだ。

「語るだけでは、伝わらない」

<だまされて韓国に>

 

キム・リョンヒさん(49)は、平壌出身。脱北する考えはまったくなかった。2011年に肝臓治療のため中国に渡ろうとしたが、ブローカーにだまされて韓国に連れてこられたという。北朝鮮に帰国したいが、それは韓国では違法行為になる。

「娘に会えないことより、両親に会えないことの方がつらい。両親は私の全てだった。最初の何年かは、両親のことを考えるたびに、息が苦しくなった。

「弟が、両親と平壌で一緒に住んでいる。母は片方の目が見えない。帰国がかなう前に両親が死んでしまうことを一番恐れている。

「娘とは、手紙や写真をやり取りしている。中国に住むいとこが仲介してくれる。娘の名前は、イ・リョングム。1993年2月15日生まれ。ここに来て一緒に生活してほしいとは思わない。

「娘は小さいとき、テコンドーを習っていた。対韓国の諜報活動に加わりたいと言っていた。恐れを知らない子だった。テコンドーを習ったのも、韓国に対する諜報活動に加わりたかったからだ。

「だから、娘が料理人になったと聞いた時は本当に驚いた。送ってくれたビデオの中で、理由を説明してくれた。私が去った後、彼女は平壌の父親の元に身を寄せて、父親のために料理をしていた。家庭で私の役割を穴埋めするために、シェフになろうと決めたと言っていた。

「それを聞いて、悲しかった」

(翻訳:山口香子、編集:伊藤典子)

Reuters
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