大紀元時報

特別リポート:封鎖下NYのラブストーリー、近づく妻との最期

2020年04月18日 08時40分
抽象画家のハワード・スミスさん。50年間連れ添った妻のロイスさんは、アルツハイマーを患い介護施設に。写真は4月5、ニューヨーク州ウォーカーバレーの自宅で撮影(2020年 ロイターCaitlin Ochs)
抽象画家のハワード・スミスさん。50年間連れ添った妻のロイスさんは、アルツハイマーを患い介護施設に。写真は4月5、ニューヨーク州ウォーカーバレーの自宅で撮影(2020年 ロイターCaitlin Ochs)

Joshua Schneyer

[ニューヨーク 10日 ロイター] - これは1つのラブストーリーだ。始まりは50年前のパリ。焼き上がって甘く香るアップルシュトルーデルがきっかけだった。だがハワード・スミスさんは、過去のロマンチックな思い出に浸っている暇はないと言う。いま彼が心配しているのは、2人のつながりがどのような結末を迎えるかだ。

抽象画家のハワードさんが、人生の大半をつぎ込んできたのは、細かなディテールとルーティーンへのこだわりだった。彼の絵はモノクロームのように見えるが、何千回もの絵筆のタッチを重ねて構成されていることが多い。美術評論家はその作品について、カオスをコントロールしようという細心の試みであると評してきた。

いまハワードさんは、妻のロイスさんからどれだけ離れているかを正確に把握している。23.7マイル(38.1キロ)だ。そして、最後に彼女に会ったのがいつかも正確に覚えている。31日前だ。

妻のロイス・キットソンさんは、末期のアルツハイマー型認知症を患っている。この過去5年間、ハワードさんは週6日、車を40分運転し、ニューヨーク市の北、ハドソンバレーにある介護施設ニューパルツ・センターで暮らすロイスさんとの面会を続けてきた。

だが、ニューヨークが米国における新型コロナウイルス感染の中心地になって以来、2人は引き離されてしまった。3月11日、ニューパルツ・センターは入居者を守るため、外部からの訪問をすべて断るようになった。3月20日、アンドリュー・クオモ州知事は、州内の住民に自宅待機を命じた。

 

<「もう一度、会えるのか」>

76歳のハワードさんは、「(感染急拡大の)カーブをフラットにする」という対策の必要性は理解しているが、一方で施設で暮らすロイスさんの命は自分の訪問にかかっているかもしれないとも感じている。彼が知りたいのは、このパンデミックによって、いつまで妻に会えないのか、ということだ。そして彼は、同じような別離に耐えている他のすべての人を思いやる。

介護施設を訪問できずにいる家族は、世界中に何千人もいる。なかには、施設のスタッフから定期的な連絡を受けられない人もいる。彼らにとって、入居している家族の運命は、生と死のあいだで宙ぶらりんになっているようにも思える。

「まったくもって流刑のようなものだ」とハワードさんは言う。ハワードさんの祖母は、彼の母親を産んでまもなく、1918年の「スペイン風邪」流行により命を落としている。そのことが特に今、彼の脳裏によみがえる。「もう一度ロイスに会えるようになるのかどうか分からない」

ロイスさんはすでに会話することもなく、目を開けることも稀だ。ハワードさんと過した半世紀の生涯のあれこれを思い出すこともできない。

ハワードさんは覚えている。彼は1970年1月、2人がパリの画廊で出会ったときのことを、50年前ではなく、50分前の出来事であるかのように語る。

パリ13区の彼の部屋でアップルシュトゥルーデルを焼いた夜、2人の友情がそれ以上の関係に変わったときのことも覚えている。タネを混ぜて延ばすには何時間もかかった。オーブンから焼き上がる頃には、メトロの終電は終っていた。ロイスさんはその夜を彼の部屋で過した。その後、彼女は彼の部屋に引っ越してきた。

ロイスさん自身も工芸作家として実績があったが、ハワードさんが創作に専念できるよう、自分は普通の仕事に就くといつも断言していた、とハワードさんは語る。彼女は料理人、臨時教師、麻薬・アルコール依存症カウンセラー、看護助手、彫刻彩色専門家といった仕事に就いた。

「彼女は1970年代の本物のフェミニストだった」とハワードさんは振り返る。やがてニューヨークの「ラディカル・ペインティング・グループ」の一員として名を上げていく夫に対し、ロイスさんは「私が稼ぐから、あなたは絵を描いて」と言っていた、という。

ハワードさんの記憶によれば、ロイスさんはカナダのブリティッシュコロンビア州北部の田舎で育った。ある日、マンハッタンのメトロポリタン美術館での仕事から帰宅するなり、「ジャガイモを育てたい」と夫に言ったという。そこで2人は州の北部に引っ越し、人気玩具「ホッピング」を製造していた工場跡地に住み着いた。

彼女の記憶が失われ始めたときのことも覚えている。最初はゆっくりと。そしてある日ついに、浴室で介助していたハワードさんに「あなたは誰」と問いかけてきた。

長時間の電話インタビューとメールのやり取りのなかで、ハワードさんは時折、思い出を語ることに苛立ちを見せることがあった。彼はあるとき、記者に対し「パリでのくだらない話など忘れてしまいたい」と言いだした。「現在について語ろう。どうすればこれを切り抜けられるのか」

そう言いつつ、彼はまた、ロイスさんをめぐる別の思い出を話し始めるのだった。

だから、ハワードさんがいくら「自分はもっと現実的なことに集中している」と言うとしても、これは1つのラブストーリーなのだ。時として、人はラブストーリーから逃げられないのである。

<孤独な別れへの恐怖>

恐らく私たちの多くにとって、今回の危機における最大の心配事は、高齢の親族に(ウイルス感染かどうかはともかく)何かが起きはしまいか、そして地域社会や医療施設がロックダウン状態にある今、彼らのもとに駆けつけられないのではないか、ということだろう。そして多くの人にとって、その心配はさらに、孤独に死んでいくこと、あるいは死にゆく人にお別れを言えない恐怖へと深まっていく。

ハワードさんは、ロイスさんが入っている介護施設で新型コロナウイルスの感染者が発生しているという話は聞いていない。施設の運営者は6日に患者が発生していないことを確認してくれたが、週後半にはコメントを得られなかった。

だがハワードさんは、気持ちのうえでは悪い知らせに備えている。「これがどういうことになるのか、誰にも分かっていない」と彼は言う。「自分自身やロイスのことよりも、社会のことをはるかに強く心配している」

介護施設の入居者にとって、心配事は決して新型コロナウイルスだけではない。施設の多くは人手不足で、入居者は、訪問する家族にしかできない日常的な細かいケアに頼っている。ハワードさんは、全面的な訪問禁止が何カ月も続くとすれば残酷で非人道的なことになる、と言う。

ハワードさんは家で絵を書き続けている。だが、ロイスさんの介護というルーティーンを軸にしていた彼の生活は、当てもなくさまよっている。

「今や、日々の経過は意味を失ってしまった」とハワードさんは言う。「家にいて何か区切りになるものがあるとすれば、えさを要求する猫だけだ」

 

<人生を共に思い出す>

ふだんであれば、ロイスさんが暮らす介護施設にハワードさんが到着するのは、入居者たちが朝食を終えた直後だ。彼は秩序正しくそのタイミングを守った。ロイスさんの意識が一番しっかりしているのは朝だからだ。

ハワードさんはロイスさんのためにクラシック音楽をかけ、本を読み聞かせ、ときには手を握ることもある。

「まだそういうコミュニケーションの方法がある」と彼は言う。

ハワードさんはロイスさんの可動域訓練を手伝い、天候がよければ、彼女の車椅子を押して戸外の新鮮な空気を吸ってもらう。歯を磨いてやり、炎症が軽くなるよう、まぶたを洗う。

ハワードさんが訪れた最後の3回とも、ロイスさんは短時間だが目を開き、彼に微笑みかけた。

「まだ私だと分かってくれる兆候がある」とハワードさんは言う。「散発的だが、症状がここまで進んだ患者としては珍しいことだ」

記者とのやり取りは、孤独な状況に置かれたハワードさんにとって、一抹の慰めをもたらしたように思える。電話での取材が数時間に及ぶこともあり、筆者はふと『アラビアンナイト』を思い出した。彼の妻に関するエピソードを共有することが、現実の脅威に対する救済になるかのように。

たった1人で家にいるあいだ、ハワードさんは写真や何十年も前の日記をひっくり返している。「そうすると、ありとあらゆる思い出が蘇ってくる」と彼は言う。

米国発のポップアートを欧州に紹介するのに貢献した有名なイリーナ・ソナベンド画廊。そこで初めてロイスさんに会ったときの思い出もその1つだ。ロイスさんはチャーミングなカナダ出身の27歳で、美術史専門家としてその画廊で働いていた。その一方でクラシックギターを稽古し、コルドンブルー料理学校でも学んでいた。

ハワードさんは、ロイスさんが画廊の洗練された顧客としゃべりながら、フランス語と英語をやすやすと切り替えているのを目にした。

「ロイスの笑顔には誰もが魅了された」とハワードさんは言う。「施設の介護担当者だって例外ではない。あの施設には彼女のファンクラブがある」

何年も後、パリから戻ってきた2人がマンハッタン中心部の芸術家向けロフトで暮らしていた頃、子どもを持とうと考えるようになったが、ロイスさんは流産してしまった。彼らは州北部で不動産を探し始めた。

そのなかに、ウォーカーバレーという街の1エーカーの敷地にある玩具工場跡があった。屋根は崩れ、多くの窓ガラスが銃弾で割れていた。どうやら、誰かが射撃練習の標的として愛用していたようだ。建物本体は、軽量コンクリート造りの長い増築部分があった。「ホッピング」がブームになったとき、急造で建てられた部分だ。

工場を住居兼アートスタジオとして改造するという、骨の折れるプロジェクトが控えていることを認めつつ、ロイスさんはハワードさんに「残念だけど、ここしかないと思う」と言った。

彼らは工場跡を2万8500ドルで購入して改造作業に取りかかり、数年後に本格的に引っ越してきた。2人とも50歳に近づきつつあった。新しい住居は広く、その後の生活に埋めきれない空白があることを感じさせた。

1994年、彼らは中国から養女を迎えた。当時1歳だったローレルさんである。ロイスさんは子育てに没頭した。

98年の母の日、きれいな筆記体で書かれた日記で、ロイスさんは喜びを爆発させている。「今日は、本当に素晴らしい朝で始まったことを書いておかなければ」 4歳のローレルさんが母親のベッドまで、チョコレートをかけたドーナツとホットコーヒーという朝食を持ってきてくれた、と彼女は書いている。

ロイスさんは、日記を書く理由の1つとして「いつの日か娘が読めるように」と書いている。「ローレルの生い立ちについて、私ができるだけ記録しておくことはとても大切だ。家族のエピソードや病気、災害など、彼女を特定の時代、場所、個人に繋げてくれるような絆は、中国の家庭とのあいだには何もないのだから」

ロイスさんには、スタジオでゴールドのジュエリーを作るという仕事もあった。だが2000年代初頭には、その後を予感させる微かな兆しが現われていた。夜間にてんかんの発作を起こしたことが1回あり、忘れっぽくなっていった。

2008年、ロイスさんはてんかんであることがわかり、2010年初めにはアルツハイマー病と診断された。

「すべてが変わった」とハワードさんは言う。「だが私は単に創作生活を調整しただけで、絵を描くときにロイスと一緒にいるようにして、彼女の介護をした」

 

<父を気遣う娘>

ロイスさんがアルツハイマー病の診断を受けてから数年、ハワードさんは彼女と共に家にいることが多くなった。症状が進むにつれて、入浴や食事、トイレの使用が困難になっていった。2015年に介護施設に移る前、ハワードさんは最後にロイスさんをパリに連れて行った。この旅行のときの写真には、レストランで空のワイングラスを持つロイスさんが映っている。

「その頃には、1杯飲んだか2杯飲んだかも忘れるようになっていた」とハワードさんは言う。

ハワードさんは粘り強くロイスさんについての情報を得ようとしてきた。

今年3月末、彼はニューパルツ・センターの医師から心強いメールを受け取った。その1節には、「今日ロイスさんを診察し、よい状態だったことをお知らせしたいと思います。彼女は朝食を完食し、車椅子で立ち上がりました」と書かれていた。

その後、気掛かりな動きもあった。ハワードさんは、嚥下機能に問題のあったロイスさんが最近の食事で3回嘔吐したことを知った。それから地元メディアの報道で、近所の高齢者施設内で新型コロナウイルスによる死亡例があったこと、同じ地域の他2施設でもそれぞれ最初の感染例が報告されたことに気づいた。

また、ドイツ、スイスの美術館・画廊からは、彼の作品展が中止されたとの連絡があった。世界中で美術館は閉鎖されている。人々が同じ空間で美術を鑑賞することはあまりにも危険なのだ。

「こうしたことで思い悩んではいない」とハワードさんは言う。「ただ、この呪わしいウイルスを制圧したい」

介護施設に移ってから、ロイスさんは衰弱の段階に入った。当時、介護スタッフはハワードさんに、ロイスさんはあまり長くは生きられないだろうと告げた。だが驚いたことに、彼が頻繁に訪問するあいだに、ロイスさんは何度か死の瀬戸際から回復することができた。

「彼女がどれほど粘り強いか、誰も分かっていなかったと思う」と彼は言う。

一部の介護施設は、外部からの訪問禁止の例外を少なくとも1つだけ認めている。入居者に死が迫ったとき、家族1人が最後に訪問することができる。だがハワードさんは、そのような形での訪問には何の興味もない、と言う。彼が訪れるのは、ロイスさんを生き延びさせるためなのだから。

(翻訳:エァクレーレン)

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