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科学と自由 コントからサミュエルソンまでの社会物理学

2025/05/19
更新: 2025/05/19

1933年に、フリードリヒ・ハイエクは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで行った「経済思想の傾向」と題する講義の中で、経済思想が計画主義と介入主義にシフトしていることを指摘した。彼は、ドイツ歴史学派と制度学派がこの傾向に大きく貢献したと主張した。しかし、実際に、その後の計画主義と介入主義の基礎を築いたのは、新古典派理論の形式主義そのものであった。

1910年代から1920年代にかけて、ハイエクと彼の師であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、新古典派経済学の伝統に属しており、「形式主義」そのものが経済思想の転換を引き起こしたという見解は、ピーター・ベトケが「ハイエクが誤ったところ」と指摘する点である。ハイエクは、同時代の経済学の主流から取り残されつつあった。かつては、イギリスで最も引用される経済学者の一人だったが、戦後には、彼の研究が経済学として成立するかどうかすら疑問視する学者もいた。

その最も象徴的な例が、彼がノーベル賞の講演原稿を『エコノミカ』誌に提出した際、編集部から修正を求められたという出来事だった。市場原理から計画原理への転換は、なぜ起こったのか。それは当時の支配的な知的勢力、すなわち常に共存する傾向にある「科学主義」と「国家主義」である。

科学主義の信奉者、つまり自分たちの理論の正当性と確実性を独断的に信じている人たちは、社会悪を解決する唯一の障害は、実行の問題だと考える傾向があり、彼らは、すでにすべての答えを持っていると信じているので、国家主義への誘惑は逆らえないものとなった。

善意の人間

ポール・サミュエルソンは、1948年に刊行された有名な教科書『Economics(経済学)』(経済学史上最も売れた書籍のひとつ)の中で、ハイエクを批判して次のように述べている。「不変の『未来の波』が、私たちを『農奴制への道』や『ユートピア』へと押し流すことはない。生活の複雑な経済状況が、社会的な調整や計画を必要とする場面では、良識と善意を備えた人々が、政府の権限と創造的行動を引き出すことが期待される」

サミュエルソンの考えでは、いずれ公共の利益だけを考えて行動する善意ある人々が政治に加わり、経済学者は彼らを導いて、失業、インフレ、不況、貧困といった社会悪の解決に貢献すべきだというのである。

この夢こそ、ロバート・ネルソンが2001年の著書『Economics as Religion(宗教としての経済学)』の中で「科学的管理の世俗的な宗教」と呼んだものだ。科学的管理の世俗的な宗教とは、社会の問題を科学の問題と同じように解決できるという考え方のことである。この思考法では、社会の手段と目的はすでに与えられており、残された問題は「調整」ではなく「配分」の問題だとされる。

そして、配分問題を解決するのに、手段と目的が既知であることを前提とする応用数学ほど適した道具があるだろうか? 完璧な世界を実現できるのに、なぜ景気循環や独占を伴う資本主義の混沌を容認するのか? 同時に、ソ連から聞こえてくるいわゆるニュースは、魅力的に思えた。あまりに魅力的だったため、サミュエルソンは「共産主義政府をもつロシアは前進しているように見える」と書いたほどだった。

社会の科学的管理

このような歴史的背景の中で、第二次世界大戦後のアメリカが、社会の科学的管理という考えを受け入れないことは、時代に逆行するように思われた。世界全体がその方向に進んでおり、ソ連の数字が戦後復興の成功を示しているように見えたのであれば、残された問いは一つだけだった。

つまり、アメリカが市場の「見えざる手」に別れを告げ、「善意ある人物」を迎え入れるプロセスをいつ始めるのか、ということだ。この夢とは、社会の最善を思って行動することを前提とされた「計画者」によって、市場メカニズムを操作し、望ましい社会的成果を達成するというものだった。

革新主義時代の文献を読むと、その思想家たちの文章には発見への情熱があふれていた。彼らはまったく新しい何かを見出すという確信に満ちており、「なぜこれまで誰もこのことに気づかなかったのか!」と叫びたくなるような自信を持ち、彼らは過去を退け、科学こそが前進する道であると信じた。19世紀末の新自由主義の改革者たちも、程度の差はあれ、同様の熱意を共有していたが、進歩主義時代は特に、科学的解決の力に対する自信が際立った。

社会物理学とその予期せぬ結果

オーギュスト・コントの興味深い点は、彼の出発点がハイエクと似ていたことだ。つまり、社会には、理性的な計画によってではなく、無数の個々の計画から自然に生まれる自発的秩序が存在するという考え方である。これは彼の著作『Social Statics, or Theory of Spontaneous Order of Human Society(社会静学、または人間社会の自発的秩序の理論)』などに明らかに見られ、しかし、コントがこのビジョンから乖離したのは、「実証哲学」の理論である。

コントにとって、自発的秩序は、進歩の根源ではなく、理性的な社会の基盤にもなり得ない。彼の考えでは、社会は、「科学と科学者によって導かれるべきで、人間と自然との関係、あるいは人間同士の関係は、科学によって方向づけられなければならない」と言うものだった。

『スタンフォード哲学百科事典』は、コントの見解を次のように記している。「『私はどう行動すべきか?』という道徳的問いは、もはや一人称で問われず、『人間をより倫理的にするには何をすべきか?』という工学的問題に変換された」こうして、社会科学者が答えなければならない問いは、工学的な問題となり、この文献では、コントが強調したように、自由の教義は、再編成の障害とみなされた。

コントの再編構想は、彼の「三段階の法則」と結びつき、第一段階は「神学的段階」であり、この段階では社会と政治は宗教の影響を強く受け、第二段階は「空理段階・抽象的段階」で、これはアダム・スミスの自由の大計画に最も近いものと見ることもできた。

そして、第三段階が「科学的(実証的)段階」であり、ここでは社会はもはや宗教や自由によってではなく、科学によって導かれ、これがコントの考える歴史の進路であり、それに対するあらゆる抵抗は「反動的」であり、文明の発展を妨げるものとされた。コントは有名な言葉で、「あらゆる科学の目標は先見性である」と述べている。彼にとって、この実証的段階こそが「人間の精神の最高の達成」とみなした。

フランク・ナイトが「科学による救済」と表現したこの考え方は、社会思想史において、繰り返し登場するテーマであり、この記事で示したように、社会の科学的管理に対する信念は、コントからサミュエルソンにまで及んだ。科学者が社会悪の解決策を見つけたか、あるいはすぐに見つけるだろうと想定していたのだ。

残る障害は、こうした計画の実行に抵抗し、国家権力を制限しようとする「反動的な」古典的リベラル派だけであり、たとえ人間社会の実証科学を唱える理論家たちが非政治的であろうとしても、その前提は必然的に国家主義へとつながった。彼らは、私たちは、すでにすべての知識と解決策を持っていると仮定する。そしてそれにもかかわらず問題が続いているのだから、市場は不十分であり、国家という「見える手」が必要だ、という結論に至った。

この考え方の予期せぬ結果は、ハイエクの言葉でよく捉えられた。「これを理解すれば、方法論と政治の違いがなぜ頻繁に共存するのかも明らかになる。科学によって、個別の出来事や個人の位置を予測できると信じている者は、その力を用いて、自らが望む特定の結果を生み出そうとするのも当然だからだ」

それでは、経済学者の役割とは何か?

社会科学者の役割とは何か? より具体的に言えば、経済学者の役割とは何か? この問いに対しては、先に述べたように、サミュエルソンをはじめとするさまざまな思想家がさまざまな形で答えてきた。説得力のある答えの一つは、ジェームズ・ブキャナンの著書 『What Should Economists Do? (経済学者は何をすべきか?)』にあった。

経済学者の役割は「社会工学」ではなく、「社会的理解を助けること」である。経済学者がこのような役割を担っているのは、彼らが研究対象としている人類の不可避的な無知と、社会問題に対する解決策の根本的に異なる性質、つまり、最終的な答えではなく、両立できない関係性の解決策である。

そして、社会が両立できない関係性に直面するとき、個人が、神学的であれ科学的であれ、国家の下僕になるよりも、自由に選択し、自由に自由を守る自律的な請負人(外注業者)になる方がよいのである。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
経済ジャーナリストで、保守系のシンクタンク「アダム・スミス研究所」と「ミーゼス研究所」から論文を出版しているほか、リバタリアン系シンクタンク「ケイトー研究所」などの国際的なシンクタンクによるインタビューも受けている。主に、自由主義的開発経済学とフリードリヒ・ハイエクの「理性の濫用プロジェクト」を研究している。