2025年の中国を振り返るとき、多くの人が思い浮かべる出来事の一つが、俳優アラン・ユー(于朦朧)の不可解な死である。
一人の芸能人の突然の死は、単なる事故や芸能ニュースとして消費されることなく、社会全体に深い不安と疑念を広げ、2025年を象徴する事件として記憶されることになった。
于朦朧は1988年生まれ。
2017年、ドラマ『三生三世十里桃花』で注目を集めたが、その後の数年間は芸能界の表舞台から距離を置く時期が続いた。業界内では「事実上、干されたのではないか」との指摘も出ていた。

事件当時、彼は国民的スターではなく、芸能界では中堅クラスに位置づけられていた。知名度も広い層に浸透していたとは言い難い。一方で、誠実な人柄や端正な外見に惹かれた固定ファンは一定数存在し、派手な露出はなくとも、静かに支持され続けていた俳優でもあった。
しかし事件後、その状況は一変する。
いまでは、華人圏全体で共有される存在となり、名実ともにトップスターの位置にある。
彼の死をきっかけに、彼を初めて知った人々、いわゆる「路人粉(通りすがりの人々)」が支持者へと変わり、その広がりが評価を一気に押し上げた。「生きていたころに出会いたかった」と心を痛める声が、後を絶たない。
その死は、2025年9月11日未明、北京の高級住宅地にある集合住宅で起きたと公式には報じられた。警察は「飲酒後の事故による転落」と説明し、「刑事事件ではない」と判断して短期間で捜査を終了した。

しかし、この公式発表は当初から、市民を到底納得させられるものではなかった。墜落時の状況そのものに不自然さがあり、説明の欠落や矛盾が重なったことで、「公式発表全体が信用できない」という認識が急速に共有されていった。
事件の経緯や疑惑は多岐にわたり、一言や二言で説明できるものではない。
詳しい経緯や主な疑問点は過去記事に譲り、本稿ではこの事件が中国社会にもたらした影響に焦点を当てる。
まず特筆すべきは、この事件が中国では国家ぐるみの隠ぺいが行われていると強く疑われている点である。
多くの特権階級の人々の関与が取り沙汰され、警察や当局が真相解明よりも事件の早期収束や幕引きを優先したのではないか、という見方が広がっている。市民調査によって証拠や関係者が浮上しても、当局が動く可能性はほぼないと受け止められている。
この認識が共有されたことで、事件の解明を公的機関に委ねるという発想そのものが失われた。
その結果、人々は「誰もやらないなら自分たちでやるしかない」と考え、映像解析や資料整理、関係者の洗い出しといった調査を個人単位で始めることになった。
警察も司法も沈黙する中で、人々は映像の解析、公開資料の突き合わせ、関係者のつながりや資金の流れの検証などを個人単位で進め、「全民ホームズ(国民総探偵)」と呼ばれる状態が生まれた。

市民一人ひとりが手がかりを持ち寄り、共有し、検証する。
しかし、その地上での調査は、やがて決定的な壁に突き当たった。公的記録は開示されず、証言は消え、関係者は沈黙を余儀なくされる。どれほど矛盾を積み上げても、司法に届く道は見えなかった。
この行き詰まりの先で、人々は別の方向へ目を向け始めた。
警察も裁判所も動かないなら、せめて何かを掴みたい。その切実さから、市民の関心は霊媒や電子音声現象(EVP)など、検証が困難な領域にまで広がっていった。霊界からの追跡は、終わるどころか今も続いている。正しいかどうか以前に、「そこにしか突破口が残されていない」と感じる人が少なくないという事実自体が、異様である。
市民調査が進む中で、事件への関与が疑われる人物や組織を整理した、詳細な「加害者リスト」も作られた。
俳優、プロデューサー、投資関係者、芸能事務所幹部、特権階級の人物らが、名前と関係性とともに整理され、ネット上で共有されていった。
このリストは単なる噂話として消えることはなかった。
名前が挙がった人物は、市民によるボイコットの対象となり、公の場に姿を見せるたびに、SNSや動画サイトのコメント欄は抗議の書き込みで埋め尽くされた。
投稿には「アラン・ユーに正義を」といった訴えや、強い非難の言葉が並び、出演情報や露出が出るたびに批判が集中した。
一部では、名指しされた人物が外出先やイベント周辺で市民から激しい非難を浴び、追い立てられるような状況になったとする証言も共有されている。
こうした圧力が積み重なった結果、主催者や企業側がリスクを避ける判断に動き、出演見合わせや契約の見直し、公演やイベントの中止に至る例が相次いだ。
名前がリストに載ること自体が、芸能活動に直接的な影響を及ぼす現実的なリスクとして受け止められるようになった。
象徴的なのは、「疑惑の人物が写った写真一枚」がSNSで拡散されることで、予定されていた公演が中止に追い込まれる現象である。
たとえ法的な証拠でなくとも、市民が「NO」を突きつけるスピードは当局の検閲を上回り、企業側もその圧力に屈せざるを得ない状況が生まれている。
ボイコットは一過性ではない。
リストは更新され続け、誰を観ないか、誰の作品を再生しないか、どの企業の商品を買わないかを、市民がそれぞれの判断で選び続けている。加害者リストに名前が載ることは、今もなお芸能活動そのものを揺るがす現実的なリスクとなっている。
この事件をめぐって、日本ではあまり知られていないが、海外の華人圏では今も執念とも言える動きが続いている。
署名活動、翻訳、情報整理、拡散は止まらず、「事件を忘れさせない」こと自体が目的となった長期的な追跡が進行中である。追悼にとどまらず、真相を求める圧力であり、沈黙に抗う意思表示である。

特に大きいのは、この事件を通じて、多くの華人が中国共産党体制の本質を突きつけられたと感じている点だ。
警察も司法も動かず、説明もなされず、声を上げれば封じられる。その構造を目の当たりにし、「これは個別の悲劇ではなく、体制そのものの問題だ」と受け止める人が急増した。
その結果、海外の華人の間では、中国共産党やその関連組織からの脱退を表明する動きが目立って増えている。一人の俳優の死が引き金となり、「これ以上、この体制に属していたくない」「沈黙の側に立つことをやめたい」と決断する人が後を絶たない。
こうして一人の芸能人の死が国家体制への認識を根底から揺さぶり、社会の空気をここまで変えた。
それ自体が、2025年の中国が置かれていた異常な状況を物語っている。
アラン・ユー(于朦朧)事件は、今も終わっていない。
真相が語られない限り、疑問は消えず、追跡も、署名も、ボイコットも続く。
2025年中国を象徴する出来事として、この事件は現在進行形で社会に影を落とし続けている。






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