解説
定期的に、大衆は新たな微生物の脅威に直面する。そのパターンは常に一定だ。悲劇的な死や集団感染が発生すると、ニュース編集室は「死のウイルス」「謎のアウトブレイク」「懸念を強める保健当局」といった劇的な言葉を動員する。ソーシャルメディアが公衆の恐怖をさらに増幅させ、公衆衛生機関が慎重な声明を出すと、ジャーナリストはそれをしばしば煽情的な表現に言い換える。数日のうちに、それまでその用語すら知らなかった人々が、文明を滅ぼすような流行が差し迫っていると確信するに至る。今月、その対象はハンタウイルスだ。テレビをつければ、この「新しい病気」を描き出すニュース番組が溢れている。
大半のアメリカ人にとって、ハンタウイルスは新しい病気ではない。それは何十年も前から存在しており、特にネズミなどの齧歯類(げっしるい)に接触する機会の多い農村地域で見られてきた。医師、とりわけ呼吸器・重症管理医学の専門家は、1990年代からハンタウイルス肺症候群(HPS)を認識している。当時、アメリカ南西部で発生した重症呼吸器疾患の集団発生を受け、調査官たちはシカマウスが媒介する「シンノンブレウイルス」を特定した。それ以来、米国における確定症例の総数は極めて少ないままである。CDC(疾病対策センター)のデータによれば、全国で30年以上にわたる累計症例数は、ようやく1千件を超える程度だ¹。この事実だけでも、現在のメディア報道を特徴づけている感情的なトーンを再考する根拠となるはずである。
3億3千万人を超える人口の中で、30年間に約1千件の確定症例しか出していない疾患は、社会の存続を脅かす脅威ではない。COVID-19と比較できるものでもなく、広範な社会的パニックを正当化するものでもない。しかし、現代のメディア・システムは、希少な感染症を均衡の取れた視点で提示する構造的な能力を欠いている。恐怖はエンゲージメントを高め、それが収益につながる。劇的な物語は、常に冷静な疫学的分析を覆い隠してしまうのだ。
臨床医として、私はハンタウイルスを無視すべきだと言っているわけではない。ハンタウイルス肺症候群は確かに重篤になり得る。入院患者の致死率は、特に診断が遅れた場合、いくつかの報告では30〜40%に達することもある²。患者は発熱、筋肉痛、咳を呈し、急速に進行する呼吸不全に陥る。本物のHPS症例を治療した集中治療医は、この病がいかに壊滅的になり得るかを理解している。しかし、「重症度」と「有病率(広がり)」は別物である。ある疾患が危険であると同時に、極めて稀であるということは十分にあり得る。
現代の公的言説は、しばしばこれら二つの概念を区別できていない。この区別が重要なのは、誇張されたリスク認識がそれ自体で負の結果をもたらすからだ。絶え間ない恐怖のメッセージは人間の行動を変え、政策の優先順位を歪め、公衆の信頼を損なう。COVID-19の後、社会は節度あるコミュニケーションの重要性を学んだはずだと思うかもしれない。しかし実際には、多くの機関がパニックの永続的なサイクルに囚われているように見える。珍しい病原体が見つかるたびに、即座に「破滅」のレンズを通して枠組みが作られる。孤立した出来事のすべてが、潜在的な「新たな危機」となる。その結果、人々は不確実性を即座に災厄と解釈するように心理的に条件付けられてしまった。
皮肉なことに、ハンタウイルスの実際の予防策は驚くほど平凡であり、何十年も前から知られている。ネズミの発生を防ぐこと。物置や小屋など、汚染が激しい閉鎖空間を掃除する際は手袋とマスクを使用すること。糞便を掃く前に換気すること。食品容器を密閉すること。衛生状態を維持すること。これらは実用的な環境衛生上の推奨事項であり、文明を揺るがすような義務ではない。広範な大衆パニックを正当化するエビデンスに基づいた根拠は存在しない。
現在のサイクルのより厄介な側面の一つは、見出しが「分母という文脈」をしばしば省略することだ。ある報道が「ハンタウイルスによる死亡を確認」と報じても、そのような事象が極めて稀であることには触れない。人間の心理は、孤立した劇的な物語を誤認する傾向がある。人々は自然に疫学的な分母で考えることはせず、感情的に考える。健康な人が稀な感染症で亡くなるようなショッキングな事例は、記憶に残りやすい。すると、人はその印象の強さを「リスクの高さ」と取り違え、実際よりも頻繁に起こる危険であるかのように思い込んでしまう。ジャーナリストはこの現象を認識しており、公衆衛生の伝達者もその影響を認識すべきである。
責任ある情報の伝え方とは、そのリスクを他の身近な危険と「比較」して、全体像の中での位置づけを明らかにすることだ。アメリカ人がハンタウイルスで死亡する確率は、心血管疾患、肥満関連の合併症、糖尿病、オピオイドの過剰摂取、インフルエンザ、アルコール関連疾患、あるいは通常の交通事故で死亡する確率よりも遥かに低い³。しかし、心血管疾患や交通事故といった「日常的な死の要因」は、あまりにありふれているため、ニュース速報で流れるような派手な演出には向かない。なぜなら、目新しさがないからだ。慢性的な殺し屋たちは疫学的には重要だが、感情的には退屈である。一方で、稀な病原体は魅力的なテレビ番組を作り出す。
COVID-19以降、もう一つの現象が生まれた。それは、公衆衛生機関が「注目を集めること自体」を目的化し始めたことだ。パンデミックを経て、公衆衛生は文化的・政治的に大きな影響力を持つようになった。その結果、客観的なデータがそれほど深刻でなくても、あらゆる感染症のニュースを「緊急事態」として演出しようとする傾向が生じている。
当局が警戒を呼びかけるのは当然だが、それはパニックを煽ることとは別物だ。どんな些細な事象も「世界の終わり」のように報じ続ければ、当局への信頼は少しずつ削られていく。やがて人々は、本当に危険な事態と、メディアが作り上げた偽りの不安を見分けられなくなるだろう。この「信頼の崩壊」こそが、過去数年間で公衆衛生が被った最も深刻な長期的ダメージになる可能性がある。
恐怖の心理学には、ここで特別な注意を払う必要がある。急性期の緊急事態において恐怖は生物学的な適応反応だが、慢性的な社会的恐怖は深く腐食的だ。煽情的な物語にさらされ続けることは、ストレスホルモンを増加させ、不安障害を悪化させ、感情的な疲弊を招く⁴。COVIDの間、何百万人もの人々が、常に神経を張り詰めさせ、ささいな脅威にも敏感に反応し続ける状態で生活した。数年経った今もそれを続けている人々がいる。目に見えない脅威を恐れるよう繰り返し訓練された社会は、やがて日常生活そのものを危険なものと解釈し始める。
これは社会の結束、教育、商業、さらには医療上の意思決定にまで波及効果を及ぼす。絶え間ない恐怖のメッセージにさらされた患者は、不必要な検査を求めたり、日常的な活動を避けたり、個人のリスクに対して歪んだ認識を持つようになる。医師は、実際の疫学よりもソーシャルメディアのアルゴリズムによって疾患の有病率を理解している個人に遭遇することが増えている。このような手法は、本来あるべき情報伝達ではなく、むしろ大衆を恐怖でコントロールする「集団的な心理操作」に近いものに変質している。
歴史的に、感染症の伝達は今とは異なっていた。かつての医学の時代には、医師は安定をもたらす存在として機能し、正当な脅威に対処しつつ不必要なパニックを鎮めていた。現代のメディア環境はそのバランスを逆転させた。データよりも感情の方が速く拡散する。文字数制限や見出し文化の中で、微妙なニュアンスは消えていく。相対的リスクを説明する冷静な疫学者は、「死のウイルスが懸念を広げる」と告げる劇的なテロップには太刀打ちできない。
ハンタウイルスの議論はまた、不都合な現実を露呈させている。すなわち、多くの人々がもはや、公的機関が均衡の取れた情報を提供してくれると信じていないということだ。その不信感は自然発生したものではない。COVIDの間における矛盾したメッセージ、誇張された予測、検閲論争、そして方針転換の積み重ねによって構築されたものだ⁵。一度信頼性が損なわれると、その後のあらゆる警告は懐疑のフィルターを通されることになる。皮肉なことに、めったに起きないような出来事を大げさに伝え続けることは、「オオカミ少年」のような逆効果を招く。いざ本当に命に関わる深刻な脅威が現れたとしても、人々は「またいつもの大げさな警告か」と聞き流し、適切な対応を取らなくなってしまう可能性があるのだ。一度失われた組織への信頼を取り戻すのは困難である。
もう一つ見過ごされている問題は、希少な感染症がいかに即座に政治化されるかという点だ。現代の言説は、等しく役に立たない二つの陣営に分かれる傾向がある。一方はあらゆる病原体を破滅的なものとして描き、他方はあらゆる公衆衛生のメッセージを反射的に拒絶する。どちらの反応もニュアンスを捨て去っている。真剣な医学には、感情的あるいはイデオロギー的ではなく、脅威を比例的に評価する能力が必要だ。
ハンタウイルスには科学的にアプローチすべきである。流行地域で活動する臨床医は、その症候群を認識すべきだ。公衆衛生機関は齧歯類の個体数を監視し、予防について公衆を教育すべきだ。研究者はウイルスの生態、伝播パターン、および支持療法の戦略を研究し続けるべきである⁶。これらの行動のどれ一つとして、パニックや検閲、メディアのヒステリーを必要としない。課題は、恐怖そのものが制度化されてしまったことにある。現代の通信システムは、感情的なエンゲージメントを最大化することに報酬を与える。冷静さはめったにトレンド入りしないが、破滅は常にトレンドとなる。
用語自体もこの効果に寄与している。「死のウイルス」といったフレーズは、技術的には正確だが、有病率のデータが剥ぎ取られた状態では実質的に誤解を招く。その基準で言えば、落雷、サメの襲撃、蜂刺されによるアナフィラキシーも「死の」事象である。重要なのは、何かが人を殺せるかどうかではなく、それが平均的な個人に影響を与える可能性がどの程度あるかだ。分母の文脈を欠いた公衆衛生は、感情的な劇場に過ぎなくなる。
これらの繰り返されるパニック・サイクルには、重要な社会学的側面もある。人間には、感知された脅威の周りに集まるという古くからの本能がある。集団的な恐怖は、少なくとも一時的には社会的な結束を生み出す。メディアのエコシステムはこの傾向を利用する。共有された不安は、注目、エンゲージメント、そして部族的なアイデンティティを生成する。COVIDの間、恐怖は公衆衛生上の問題であるだけでなく、一種の「文化的通貨」となった。多くの意味で、社会はまだその枠組みから心理的に脱却できていない。その結果、新たな病原体が現れるたびに、未解決のパンデミック・トラウマを通じて無意識に解釈されてしまうのだ。
これが重要なのは、主に恐怖によって統治される社会はやがて不合理になるからだ。合理的な社会は不確実性を許容する。リスクを文脈化する。人生には避けられない危険が含まれており、すべての危険が最大限の介入を必要とするわけではないことを認識している。対照的に、恐怖に支配された社会は、終わりのない安心を求め、常に誰かを見張るような監視体制を欲するようになる。そして、たとえ発生する確率が極めて低い脅威であっても、個人の自由やプライバシーを力ずくで制限するような、過剰な対策を求めるようになるのだ。医学界はこの変容を加速させるのではなく、抵抗すべきである。
ハンタウイルスの物語におけるもう一つの重要な側面は、「啓発」と「増幅」の境界がますます曖昧になっていることだ。公衆衛生上の啓発は正当かつ必要である。医師は珍しい症候群を認識すべきであり、検査機関は診断能力を維持すべきだ。農村部の人々は、どのようにネズミに接触するかを理解しておくべきである。しかし、コミュニケーションが均衡を失い、意味のある形で存在しない全社会的な脅威を示唆し始めるとき、啓発は増幅へと変わる。この区別は微妙に見えるかもしれないが、決定的に重要である。
COVID-19の時代、多くの機関は感情的な緊急性を利用してコンプライアンス(遵守)を最大化するコミュニケーション戦略を採用した。未知のアウトブレイクが発生した混乱した初期段階において、それらの決定の一部は理解できるものだった。しかし、緊急事態用のコミュニケーション・スタイルは、現在、パンデミックの可能性など微塵もない疾患に対しても常態化してしまっている。一度社会が永続的な緊急事態の枠組みに慣れてしまうと、普通のリスク許容度に戻ることは困難になる。
これは「背景的流行心理(background epidemic psychology)」とも呼ぶべき状態を生み出す。すなわち、人々が常に次の大惨事に備えて身構えている状態だ。稀な感染症や動物由来のウイルス、単発的な死亡ニュースなどは、人々の不安をあおりやすい。その結果、事実に反して「社会全体を揺るがす大事件」であるかのように、心理的な拡大解釈がなされてしまう。公衆は、確率の現実的な評価ではなく、災厄の予期の中に生きるようになる。逆説的だが、この力学は社会の回復力(レジリエンス)を育むどころか、損なう可能性がある。
人間は、真実の情報と明確な文脈が提供されれば、驚くほど適応能力を発揮する。大半の人は、ある病気が重篤でありながら稀であるということを理解できる。文明が脅かされていると信じ込むことなく、予防的な衛生管理が合理的であることを理解できる。しかし、機関が繰り返し感情に訴える物語を通じて情報を提示すれば、公衆はやがてパニックと無関心の間を揺れ動くようになる。
どちらの反応も健全ではない。我々はその疲弊の兆候をすでに目にしている。多くのアメリカ人は今、感染症に関する見出しに対して、過剰な恐怖を抱くか、あるいは即座に切り捨てるかのどちらかで反応する。中間地点である「合理的な警戒」は浸食されてしまった。その浸食は危険である。成熟した公衆衛生システムを支えるのは、国民からの「信頼」だ。そして、その信頼は情報の「正しさ(信頼性)」から生まれ、情報の正しさは、リスクの大きさにふさわしい「節度ある伝え方(均衡)」によって保たれるからだ。
したがって、医師の役割には、病気を診断するだけでなく、不必要な社会的不安を防ぐことも含まれるべきである。医学には常に「安心させること(reassurance)」が含まれてきた。優れた臨床医は単に病理を特定するだけでなく、それを文脈化する。患者が胸の痛みを訴えたとき、医師はデータを集める前に即座に死を宣告したりはしない。確率を評価し、誠実に伝え、危険に注意を払いながらも不必要なパニックを避ける。公衆衛生も同じ原則の下で運営されるべきだ。現代のメディア環境において、自制が促されることは稀である。
現代のジャーナリズムの経済学は、感情的なエスカレーションを強く支持している。「ネズミが媒介する珍しいウイルスで、一人が亡くなる単発的な事案が発生」という見出しでは、ほとんど関心を引かない。「死のウイルスが懸念を呼ぶ」という見出しは、ソーシャルメディア上で急速に拡散する。恐怖は収益化されたのだ。アルゴリズムは感情を活性化させるコンテンツを優先的に増幅させる。怒りや不安がユーザーの注意を惹きつけるからだ。このような環境下では、緻密な疫学は商業的に不利な立場にある。
この問題はハンタウイルスに限ったことではない。我々は、エムポックス(サル痘)、鳥インフルエンザ、「謎の病気」、その他数え切れないほどの感染症の脅威において、同様のサイクルを目にしてきた。その中には最終的に臨床的に重要となるものもあるが、多くはそうではない。しかし、伝達のパターンは驚くほど一貫している。劇的な導入、憶測によるエスカレーション、バイラルな拡散、そして予測された大惨事が現実化しなかったことによる最終的な公衆の疲弊である。時間が経つにつれ、このサイクルは社会がリスクを正確に評価する集団的な能力を損なわせる。
低確率の事象と真のシステム的脅威を区別できない文明は、感情的に不安定になる。そうした社会は、人々の感情を操ろうとする勢力に利用されやすくなる。また、恐怖に任せて極端なルールを作ってしまうような、行き当たりばったりの政策決定に歯止めが効かなくなり、 人々の間に拭いきれない不信感が定着してしまう。公衆衛生のコミュニケーションは、回復力を損なうのではなく、強化するものであるべきだ。
おそらく、より深い問題は文化的なものだろう。現代社会は、不確実性そのものと向き合うことにますます苦労している。我々は、絶対的な安全など存在しない世界で絶対的な安全を求めている。感染症、環境リスク、事故、そして生物学的な予測不可能性は、人間の存在と切り離せないものだ。成熟した社会は、宿命論やヒステリーに陥ることなく、この現実を認識する。
ハンタウイルスは実在する。重症化することもある。科学的な敬意を払うに値する。しかし、それ(ハンタウイルス)が恐ろしい病気である事実は変わらない一方で、現実に感染する可能性は、依然として極めて低いままである。これら二つの言明は同時に真である。このニュアンスは、現代の公的言説においてしばしば欠落している。現在のハンタウイルス・ブームから得られる教訓があるとすれば、それは単にメディアがリスクを誇張しているということではない。社会が「比例的な思考」を学び直さなければならないということだ。公衆衛生は恐怖を与えるのではなく情報を与えるべきであり、医師は煽るのではなく教育すべきであり、ジャーナリストは扇情的に扱うのではなく文脈化すべきである。そして公衆は、ドラマではなくデータを要求すべきだ。恐怖は一時的に大衆の注目を集めるかもしれないが、持続的な社会の安定は信頼にかかっているのである。
真の教訓は、ネズミに関するものではない。我々自身に関するものなのだ。
参考文献
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MacNeil A, Nichol ST, Spiropoulou CF. Hantavirus pulmonary syndrome. Virus Res. 2011;162(1-2):138-147.
Centers for Disease Control and Prevention. Leading causes of death. Atlanta (GA): CDC; 2026.
McEwen BS. Protective and damaging effects of stress mediators. N Engl J Med. 1998;338(3):171-179.
Ioannidis JPA. The end of the COVID-19 pandemic. Eur J Clin Invest. 2022;52(6):e13782.
Jonsson CB, Figueiredo LT, Vapalahti O. A global perspective on hantavirus ecology, epidemiology, and disease. Clin Microbiol Rev. 2010;23(2):412-441.
ブラウンストーン研究所(Brownstone Institute)より

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