臓器移植の名のもとに覆い隠された「死」のシステム

2026/09/13
更新: 2026/09/13

臓器提供による安楽死」という提案の背景には、衝撃的な現実がある。現行の移植システムにおいて、すでに生物学的には生きている人間から臓器が取り出されているという点だ。

論評

『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン(NEJM)』誌に掲載されたある記事が、「提供による死(death by donation)」—本人が望むならば臓器提供によって命を終えることを認めるべきだという考え方—を提唱し、大きな話題を呼んだ。

臓器摘出によって公然と安楽死させるという発想は、多くの人々に衝撃を与えた。しかし、この提案が現行の移植医療の現実に基づいていると見抜いた者はごくわずかだった。現在のシステムは、生物学的にはまだ生きている人間からすでに重要臓器を摘出しているのだ。

移植用の臓器を確保するため、長年にわたり「死」の定義が改変されてきたと記事は指摘する。「ドナーは死んでいなければならない」という「ドナーの死の原則(Dead Donor Rule: DDR)」をクリアするため、ごまかしの手法で死の基準を都合よく広げてきたというのだ。

DDRとは、臓器提供に対する国民の信頼を維持するための倫理基準である。これは、臓器が摘出される前に人間は死んでいなければならず、臓器摘出によって患者が殺害されてはならないと定めている。

しかし同記事は、DDRは絶対的な道徳基準ではなく、絶え間ない解釈と適応の対象となってきたと論じている。

「DDRは移植における『倫理的要』とみなされているが、絶対的な道徳基準というよりは道徳的錨(アンカー)として機能してきたため、その適用には絶え間ない解釈と適応が必要とされてきた」

 

たとえば、NEJM誌の著者らは脳死状態の人間が生物学的には死んでいないことを指摘し、必要に応じて私たちがすでに死の定義を変更してきた実態を示している。

「哲学的・生物学的な不確実性にもかかわらず、脳死は1981年の全米統一死亡認定法(Uniform Determination of Death Act)の制定によって法律および医療行為に採用された。この法律は死を『すべての脳機能の不可逆的な停止』と定義した。

しかし、臨床経験の蓄積により、この包括的な脳死概念の矛盾が露呈した。アラン・シュウモン医師は、脳死判定後も生物学的に長期生存した多数の症例を報告している。これらの患者は成長し、栄養を同化して老廃物を排泄し、感染症や傷から回復し、さらには胎児を妊娠・維持することすらできた。

不確実性の中でも臓器提供は継続され、より本質的な概念的転換が明らかになった。DDRは、死の判定を厳密な生物学的基準から、定義権限を持つ機関によって列挙・承認された診断基準の遵守へとシフトさせたのである。新たな死の概念が社会的・法的基準において受容されるならば、死亡要件も臓器提供システムへの信頼も侵害されたことにはならない。このような文脈化によってDDRは柔軟な道徳的セーフガードとなり、『死』の意味そのものが改定されつつも、生きている人間から臓器を摘出しないという誓約を維持してきたのである」

当然ながら、死の判定を厳密な生物学的基準から遠ざけ、定義機関によって定められた基準に置き換えることは、公衆の信頼を著しく損なう。なぜなら、このような転換が行われた事実を一般市民は一切知らされていないからだ。

臓器提供者として登録する大半の人間は、臓器が摘出される時点では生物学的に死んでいると信じており、「『死』の意味そのもの」が改定されたことなど露ほども知らない。

NEJM誌の記事はまた、心停止後臓器提供(DCDドナー)において、臓器が摘出される時点ではドナーが死んでいるかどうかが定かではないという事実にも言及している。DCD手術は脈拍消失からわずか2〜5分後に開始されるが、この時間枠は通常、蘇生が十分に可能な範囲である。アルバータ大学のアリ・ジョフェ医師は、心停止から最大10分が経過した後に自然蘇生し完全回復した事例を記録している。したがって、DCDドナーは循環および呼吸機能の不可逆的な喪失を義務付ける全米統一死亡認定法下のアメリカの法的死亡基準を満たしていない。

医師らはこれを「永続的(permanent)」という用語に置き換えることで回避している。これは、機能が自然に再開することは見込まれず、介入によって回復させることもない、という意味だ。NEJM誌の記事には次のように記されている。

「DCDの運用が真にDDRを遵守しているかどうかについては議論が続いている。とりわけ『永続性』は必ずしも『不可逆性』と同義ではないからだ。DCDにおいて死が発生するのは蘇生が不可能だからではなく、患者の価値観に基づき意図的に蘇生が見送られ、患者が死への軌道に置かれるためである。そして回復措置がとられないがゆえに、それは『不可逆的』とみなされる。生物学的概念から手続き的概念へのこの死の転換は、DDRを再び文脈化し、実証的な終焉ではなく、一般的な社会的・倫理的理解へと整合させた」

ここでもまた、善意で臓器ドナーに登録する大半の人間は、死とは実証的な終焉であると今なお信じている。臓器摘出の現場において、病院側が死の概念を生物学的なものから手続き的なものへと切り替えたことなど知らされていないのだ。

医師であり生命倫理学者でもあるロバート・トゥルーグ氏は長年にわたり、「脳死」ドナーは依然として生きており、循環呼吸器系基準に従って死亡宣告されたドナーも、臓器摘出の時点では死んでいるかどうか分からないと述べてきた。

そして驚くべきことに、同誌の記事は臓器確保のために「死」の基準を書き換えてきた過去の実績を逆手に取り、臓器摘出による実質的な殺害を正当化している。「ドナーの死の原則(DDR)から外れるように見えても、時代や目的に合わせて死の定義を見直してきたこれまでのパターンと何ら変わりない」という理屈だ。

2009年の論文で、ジョセフ・フェルハイデ、モハメド・ラディ、ジョーン・マクレガーの3名は、現在のジレンマをきわめて明確に枠づけている。

「意識のない患者から臓器を摘出する行為は、脳死(心臓が動いている状態)であれDCD(心停止直後の状態)であれ、実質的には『医師による隠れ安楽死(死の幇助)』に等しい。したがってこれは、刑法に触れるだけでなく、『患者に危害を加えてはならない』という医療の根本原則にも反している」

移植用臓器の供給拡大という要請を鑑み、著者らは次のように付け加えている。「意識障害のある患者からの臓器調達をめぐる対立を解決するために、医師による死の幇助が許容され、かつ望ましいものであるかどうかは、社会が判断しなければならない」

臓器移植のために医師による死の幇助を密かに行い続けるのではなく、私たちは死を生物学的な現実として認識する姿勢へと立ち返る必要がある。臓器不全に苦しむ人々には、真に倫理的な選択肢が与えられるべきである。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。