反骨のルポライター・杜斌氏(下)数十万もの同胞が餓死

2017/05/15
更新: 2017/05/15

1999年まで国営メディアのカメラマンとして働いたが、その後人権派活動家の活動に注目し、共産党政権の抱える問題に鋭く切り込む数々の本を海外で出版した杜斌氏。現在は北京に住み、フリーライター、作家、ドキュメンタリー制作者など数々の顔を持つ。

共産党政権からは「政府のあら捜しをする輩」と危険視されている。政府関連部門の圧力によりニューヨークタイムズの契約カメラマンの仕事をやめさせられたあと、不当に拘束されるという体験もしたが、本人は「私は自分のしていることに価値を見出している」と語る。新たに出版した『長春餓殍戦(長春飢餓戦争、邦訳無し)』では、共産党の歴史におけるもう一つのタブーに迫っている。

共産党政権に不都合な報道を行ったため拘束

記者 共産党政権に不都合な報道を行ったために拘束されたと聞きましたが?

杜斌 そうです。2013年の6月4日の直前に国内安全保衛支隊(国保)から拘束され、4つの罪状疑いがあると告げられました。1つはデマを流して公共の秩序を乱したこと、2つ目は違法出版物の印刷、3つ目は他人やその所有物に危害や損害を与えたこと、4つ目は公共の場所の秩序を乱したことです。国保の人からは「お前がやったことは、一昔前なら1週間以内に確実に殺されるところだ」と言われました。

鉄製のケージに入れられ、中に置いてあった鉄製の椅子に両足を縛り付けられた私は「罪など犯していない」と反論しました。すると彼らは、私の執筆した『天安門屠殺(天安門大虐殺)』がねつ造だというのです。本を書いた目的を聞かれたので「目的は全部本に書いたはずだ。まず、どれだけの学生や市民が命を落としたのかはっきりさせること。次に、事件によって亡命を余儀なくされた人たちを帰国させること、そして、共産党政権の殺人鬼たちに事件の償いをさせることだ」と言い返しました。

1989年6月、学生たちによる民主化運動が武力で鎮圧された。戦車の前に立つ青年(GettyImages)

「中国政府は天安門事件で民主化を求めた学生や市民たちの名誉を回復すべきだ」と主張する人たちがいますが、私は反対です。あなたは殺人鬼に自分の名誉を回復してもらいたいですか? それに、彼らが「私が殺しました、ごめんなさい」と謝ればそれで万事解決するとでも? なすべきことは名誉回復ではなく「断罪」だけです。中国共産党を裁くことしか道は残されていないのです。

国保の人は、馬三家強制労働収容所に関する本もねつ造だと言うので、私は「分かった。なら君が本の中で上げた馬三家の被害者をここに連れてきて、本当かどうか尋ねてみるがいい!なぜ被害者の調査確認をしないのだ?」と反論しました。

すると彼らは、なぜこうした写真を撮るのかと問うので、「それは、私は自分たちを人間だと思っているからだ」と答えました。「きみたちは我々を家畜のように扱うことはできないのだ」と。私はごく普通の人間で、私が興味あるのは、普通の人々の喜怒哀楽です。普通の人々が差別され、不当に命を落とすことに対して、私は見過ごせないのです。

数十万もの同胞が餓死 なぜ『長春餓殍戦』を書こうと思ったのか  

 
「長春包囲戦」の図(『長春飢餓戦争』より)

 記者 なぜ、この本を書こうと思ったのですか?資料の収集には困難を極めたと思いますが、どうやって集めたのですか?

 杜斌 国民党の立てこもった長春を林彪指揮下の共産党軍が包囲して、中の人々を餓死させたという事実は、中国ではずっと「敏感な事件」として扱われてきました。南京大虐殺と違い、この事件は中国人自身が数十万もの同胞を餓死させたのです。この本の執筆にはある程度のリスクが伴いました。

本の中で、私がはっきりさせたかったのは次のような点です。まず、政権を奪うために、なぜ数十万の一般市民を餓死させる必要があったのか。そして、市民たちはどんな風に餓死していったのか。最終的に何人が命を落としたのか。そしてこの作戦の責任者は誰だったのか。この歴史的犯罪の責任を負うべきは誰なのか、といったことです。

敢えて危険を冒してでもこの本を書こうと思ったのは、私がこの事件をどうしても忘れられなかったからです。私はあの場所で何が起きたかを知ってしまった。もし私がなにも行動せず、口をつぐんだままにしていたら、毎日その事を思い出し、夜も眠れないほどの罪悪感を抱いたことでしょう。まるで、当局から不当に連れ去られ、拘束され、罪に問われた友人を見捨てたみたいに。

友のために何も記さず、何の声も挙げなかったとしたら、私はそんな自分を恥じるでしょう。一人のカメラマンとして、物書きのはしくれとして、もし何もしなければこんなに恥ずかしいことはない。自分にできることがあるのなら、私はそれをするだけです。

文献資料を探すのはとても骨が折れることでした。本を書き上げるため、資料収集に10年近く費やしました。古本販売のネットサイトを調べ、「1948長春」、「長春 包囲 東北野戦軍 林彪」といったキーワードで毎日検索を繰り返し、関連する本を見つけたらすぐに購入しました。

資料収集を終え、この事件をできる限り明らかにしなければ、長春事件のことを忘れることなどできませんでした。忘れ去ってからでないと、他のことに手を付けることができなかったのです。今はもう、この本を執筆し終えて力を尽くしたと実感できましたから、ひとまずはこの件をわきに置いてもいいでしょう。

証拠に基づき記述 証拠がなければ書かない

 記者 『長春餓殍戦』を日付順の記録形式で書かれたのはなぜですか?

杜斌 執筆中、思うままに書けないもどかしさに苦しさも覚えました。自由に書けば、自分の感情が文中に現れてしまいます。苦悩した結果、「証拠に基づき記述し、証拠が無ければ何も書かない」ということに決めました。そして、文中のすべての記載は根拠に基づき記し、全ての引用部分には出典を付けました。

最終的に日記形式で当時を再現することにしたのは理由があります。ある日の中国共産党軍は何をしていたのか、蒋介石の軍隊はどうしていたのか、長春城内の一般市民たちは、長春の外で暮らしていた一般市民はどうだったのか。さらに蒋介石は、毛沢東は、上級士官たちは…私は、こうした(当時に生きた人々の)視点を通じて、読み手に当時起きた事実を事細かに示すことにしました。

『毛主席的炼狱(毛主席の煉獄)』、『毛泽东的人肉政权(毛沢東の人肉政権)』、『天安門屠殺』といった他の本でも、私は日付順の記録形式をとっています。それは、収集した資料は、できる限り原文そのまま用いるべきだと思っているからです。なぜなら、過去の歴史は(現代に)還元する必要があるからです。

もし私が、こうした資料を土台に好きなように筆を走らせたとしたら、出来上がった本は(元の資料と)違った雰囲気が漂うと思います。もしかしたら、そうしたほうが読者が増えて、大衆受けするかもしれませんが、歴史をありのままに表現しようとするならば、日記形式がより適切な手法だと思っています。

実は、私が参照した資料の2/3は、政府の公の出版物と党の内部資料なのです。内部資料も国家機密などではなく、元の持ち主が処分して古本として出回っていたものを集めたに過ぎないのです。

「難民に使って」新聞社に宛てられた寄付

 

 記者 資料に目を通しているとき、特に心に残ったものはありましたか?

杜斌 1948年、中国で布教活動を行っていた宣教師の新聞『天津益世報』に、中国東北地方から数万の難民が避難してきたと記されていました。彼らは飲まず食わずで、路上で眠っていたと言います。

記事には、「私たちは同じ人間同士、彼らに同情を示すべきです。私は難民ではありませんが、難民は私の同胞です。私は裕福ではないけれど、衣食は足りています」という読者からの手紙が添えられていました。そして、この天津の安東君という読者が、汗水たらして働いて手に入れた5000万法幣(当時の法定紙幣の単位)を、東北からの難民に使ってほしいと新聞社に寄付したことも記されていました。

この部分はものすごく小さかったので、記事のタイトルしか判読できず、本文はパソコンに取り込んで画面上で拡大しなければ読めませんでした。読みながら、一般市民が示したこうした人間性を前にして共産党のやっていたことは一体何だろうか、胸が締め付けられるような思いがしました。

寄付をした安東君は、68年後にこの手紙を読んで感動に打ち震え、涙を流す人物がいるとは思いもしなかったでしょうね。

 記者 あなたがこの本の執筆を考えたとき、証人を探すのは難しいと思われたそうですが、どういうところが難しいと思われたのですか?またその理由は?

杜斌 はい。困難を極めました。長春市内を歩きながら、街角で見かけた野良犬にも「お前は1948年に長春で何が起こったか知らないか? 生存者がどこにいるか知らないか?」と問いかけたいくらいでした。

それでも当時を知る老人を見つけ、その人と連絡を取り面会の約束をしました。するとその老人は、自分の職場に報告しなければならないというのです。79歳の老人が記者と会うのに、職場の許可が必要とは! その時私は会社を辞めていたので、身分証の提示を求められたら厄介なことになります。それで私は、それはやめてほしいと頼みました。ですが結局、その老人は職場に報告したのです。

この人は「老兵士」で、洗脳教育の一環としてよく学生や現役の兵士に当時のことを語るように招かれ、彼自身の体験も何百回も語っていました。この老人は、たくさんの人々が餓死したのは国民党のせいだと思い、共産党が自分を救ってくれたから感謝すべきだと当然のように思っているのです。

中国内戦下の共産党軍。1948年、人民解放軍により長春市は包囲された(パブリックドメイン)

外国人は楽しいことばかり 中国人は悲しいことばかり

数十万の人々が亡くなったこの長春事件は決して小さな出来事ではない、というのが私の結論です。当時の為政者たちは、私たち一般人を人間とみなさず、まるで家畜のように扱っていました。我々中国人は、1949年(共産党が政権を取って)から現在に至るまで、人間らしく尊厳をもって生きてきたことなどなかったと私は思っています。

私が関心を持って読んでいる外国人のツイッターやフェイスブックの投稿は、大抵面白い、楽しい、明るく気持ちいいものですね。ですが、中国人の投稿を見ると、悲しくなるような話ばかりなのです。「○○さんが拘束された」、「△△さんの刑が確定した」といった風に、国内のインターネットには投稿できないような人権侵害についてのできごとを、外国のSNSに投稿するしかないのです。

毎日こうした国外からの情報を目にするにつけ、非常につらい気持ちになります。

「誰にも話せないな」共産党員だった父親、息子の本をよんで

 記者 お父様は古くからの共産党員だったと伺っていますが、あなたの本をお読みになったことは?

杜斌 父は共産党員で、町党委の規律検査部の責任者でした。私が『毛主席の煉獄』を見せた時、父は「この本を読んでも、誰にも話せないな」と言いました。山東省沂市安全局の局長が私の家に来て、父親に「政府が嫌がるような本を書くなと息子さんに言ってくださいよ」と言いました。すると父は、「そうはいっても、息子はもう大人だから、言うことを聞くこともあれば聞かないこともあるんですよ」と返答していました。

私がこうした本を書くことは、父にとっては非常に恐ろしいことだったのです。私がニューヨークタイムズで仕事をしていたのも、父にとっては恐怖でした。父も年でしたから、家を持ち、結婚して子供をもうけるよう、とせかされたものです。

父が病気で亡くなったとき、私は最期を看取ることができませんでした。息子としてはやはり申し訳なく思っています。そのころ私は保釈中で、身分証が警察に取り上げられていたため、北京から出られなかったのです。身分証が無ければ、列車の切符すら買えませんから…。

しかし、確かに悔やんではいますが、私には無駄にできる時間などありません。私の持てるすべての時間と情熱を、私のなすべきことに注ぎ込むだけです。私のなすべきこととは、後世に残すべきもの、残す価値のあるものを書き記すことです。

ですから『長春飢餓戦争』は、あのとき餓死した数十万の人々の魂に、そして私の父に捧げます。

(翻訳編集・島津彰浩)