大紀元時報
悪魔が世界を統治している

第四章:革命の輸出

2019年08月03日 07時00分

目次

1.革命の輸出―アジア

a. 朝鮮戦争

b. ベトナム戦争

c. クメール・ルージュ

d. 他のアジアの地域

 

2. 革命の輸出―南米とアフリカ

a. 南米

b. アフリカ

 

3. 革命の輸出―東欧

a. アルバニア

b. ソビエトによる東欧支配

 

4. 冷戦の終結

 a. 赤の広場はまだ赤い

 b. 赤の災難は継続している

 

(参考文章)


暴力と嘘に支えられた共産主義のカルトは世界へと広がった。共産主義が大国から小国へと輸出される場合、最も手っ取り早い方法は暴力である。自由社会は中国共産党の「対外宣伝工作」を含む共産主義のカルト性を重視しておらず、共産主義イデオロギーの輸出を許す結果となった。

 

この章では、アジア、アフリカ、南米、東欧へと広がった共産主義イデオロギーに焦点を絞り、検証していく。西ヨーロッパや北アメリカへ浸透した共産主義はより複雑であるため、それについては次章で論じることにする。

 

1.革命の輸出―アジア

 

中国共産党が政権を掌握できたのは、まさにソビエト連邦が中国へ革命を輸出したことが理由である。1919年、ソ連は世界へ革命を輸出することを目的として、第三インターナショナルを結成した。1920年4月、第三インターナショナルの代表グリゴリー・ヴォイチンスキー(Grigori Voitinsky)が中国へ渡り、同年5月、中国共産党の結成に向けて、上海にオフィスを設立した。

 

その後30年間、中国共産党はソ連共産党の一機関に過ぎず、毛沢東はソ連から毎月160元から170元の俸給を受け取っていた【2】(当時の上海労働者の平均賃金は月20元である)。

 

中国共産党による政権樹立の背景には、アメリカへ浸透していた共産党の影響がある。当時、アメリカのトルーマン大統領は蒋介石への支援を停止したが、ソ連は継続的に中国共産党を支えた。さらに、第二次世界大戦後、トルーマンはアジアから撤退することを決定。1948年、アメリカ軍は南朝鮮から撤退した。1950年1月5日、トルーマンは、アメリカが今後一切アジア情勢に関与しないことを宣言した。それは、台湾の蒋介石への軍事支援を含む、中台戦争時においても「アメリカは干渉しない」とする政策だった。

 

一週間後、アメリカ国務長官のディーン・アチソン(Dean Acheson)もトルーマンの政策【3】を強調し、朝鮮戦争が勃発してもアメリカは関与しないと述べた。【4

 

もちろん、北朝鮮が韓国へ攻撃を仕掛けた後、国連が軍を投入し、後にアメリカも方針を変えたのだが、これらの不干渉の姿勢は、共産党がアジア圏で勢力を強めることを後押しした。

 

中国共産党は革命を輸出するために、あらゆる手段を行使した。さまざまな国でゲリラ兵を育て、彼らに武器を与えた。兵士たちは外国政府と闘うよう派遣され、暴動を起こすための潤沢な資金が与えられた。

 

1973年、文化大革命がピークを迎えた頃、中国共産党による対外援助金は国の財政支出の7%にのぼった。

 

中国外務省の機密文書【5】を入手した研究者のチン・ヤーピン(Qian Yapingは次のように詳述している。「1960年、1万トンの米がギアナへ、1万5000トンの小麦がアルバニアへ送られた。1950年から64年末における対外援助金は100億8000万元に上った。主な支出が行われたのは、1960年から64年の中国大飢饉の時期と重なる」

 

1958年から62年に中国を襲った大飢饉では、数百万人が飢えにより死亡した。一方、中国の対外援助金は23億6000万元に上る【6】。もし、この資金が食料品の購入に充てられたなら、300万人の命が救われただろう。国民は中国共産党が推進した大躍進運動で大規模な飢餓に見舞われただけでなく、共産党による「革命の輸出」の犠牲となった。

 

a. 朝鮮戦争

共産主義の邪霊は人類を壊滅するため、世界征服を計画した。邪霊は人間の富と名声に対する欲望を利用し、邪悪なイデオロギーを広めた。すなわち、スターリン、毛沢東、金日成、ホーチミンはそれらの欲望に駆り立てられたのである。

 

1949年、毛沢東はスターリンとの会談で、北朝鮮の支配権を得ることを条件に、ヨーロッパ拡大を目論むスターリンを助け、100万人以上の兵士と1000万人以上の労働者を派遣することを約束した。【7】1950年6月25日、緻密な計画が練られた後、北朝鮮が南へ侵攻。ソウルは3日後に陥落し、1カ月半後、朝鮮半島は北側によって占領された。

 

1950年3月、毛沢東は朝鮮半島の国境に大軍を配備し、戦闘の準備を整えた。この戦争の詳細について述べることは割愛するが、要約すると、トルーマン大統領の譲歩の方針がこの戦争を長引かせた。一方、中国共産党は「義勇軍」を朝鮮半島に派遣した。義勇軍とはつまり内戦で生き残った国民党軍の残党であり、彼らを戦争に派遣して徹底的に始末したのである【8】。朝鮮戦争が終わるまでに、数百万人の中国兵が死亡した。

 

朝鮮戦争の結果は、半島の分断である。中国共産党とソビエト連邦が北朝鮮の支配権を争ったため、結果として北朝鮮は両方から利益を得ることになった。例えば、1966年、金日成が中国を訪れた時、彼は北京で地下鉄が建設されていることを知った。そこで、彼は中国政府に全く同じものを平壌に建設することを要求した。もちろん無料で。

 

毛沢東はすぐに北京の建設を停止し、それらの建設機械、労働者、エンジニアを含む大量の人員を平壌へ送った。中国解放軍の二つの鉄道会社がその建設を担うことになった。北朝鮮は一銭も払わず、国民も建設に関与しなかった。それにも関わらず、北朝鮮はさらに、有事の時に地下鉄の安全性が確保されるよう中国に要求した。そのため、平壌の地下鉄は当時、世界で最も深く掘られた建造物の一つとして知られており、深さ平均90メートル、最大深度150メートルに建設されたのである。

 

その後、金日成は市民に対して、地下鉄は北朝鮮が建設したと発表した。さらに、北朝鮮は中国共産党を通さず、直接ソビエトにお金や物を無心することもあった。朝鮮戦争の後、中国共産党は少数の中国人を北朝鮮に残し、金日成政権を監視させた。それは北朝鮮をモスクワから引き離し、中国寄りにする画策だったが、金日成がそれらの中国人スパイを処刑あるいは投獄したため、北朝鮮における中国共産党の支配力は徐々に失われた。【9】

 

ソ連の崩壊後、中国共産党は北朝鮮に対する支援を縮小し、1990年代、北朝鮮は大飢饉に見舞われた。NGO脱北者支援会(North Korean Defectors’ Association2007年の報告書によると、60年に及ぶ金政権のもと、少なくとも350万人が餓死、あるいはそれに関する理由で死亡した。【10】これが、共産主義による革命の輸出が招いた災難の一つである。

 

b. ベトナム戦争

ベトナム戦争の前、中国共産党はベトナム共産党(CPV)を援助し、1954年にフランス軍を大破した。その後、1954年のジュネーブ和平会談に発展したが、ベトナムは南北で対立することになった。後に、フランスはベトナムから撤退。北ベトナムによる南への侵攻、およびアメリカの介入がベトナム戦争をより複雑にし、第二次世界大戦後に起きた最大の戦争となった。アメリカ軍は1964年から73年に参戦した。

 

1952年、すでに毛沢東はベトナム共産党に顧問団を派遣していた。軍の顧問団を率いたのは、中国解放軍の上将、韋国清(ウェイ・コーチン)だった。中国から派遣された土地改革の顧問団がベトナムで数千人の地主や裕福な農民を殺害したため、北ベトナムでは飢饉と農民一揆が起こった。中国共産党とベトナム共産党はこれらの暴動を鎮圧し、延安整風運動(※)にも似た党と軍の改正運動を実施した。(※1942年から44年に起きた最初の大規模な大衆イデオロギー運動。プロパガンダ、監禁、思想改造などが行われた。)

 

アジアにおける共産主義の覇者となるため、毛沢東はベトナムを強力に支援し、一方で、中国国内では数千万人が飢餓で死亡した。1962年に開かれた7千人大会で、劉少奇(リウ・シャオチー)は、毛沢東の大躍進政策を非難し、経済を復活させて毛を排除しようとしたが、毛沢東は実権を譲らなかった。軍部と強力なコネを持つ毛沢東はベトナム戦争への積極的な介入を推し進め、劉が提案した経済復興計画はとん挫した。

 

1963年、毛沢東は羅瑞卿(らずいけい)と林彪(りんぴょう)をそれぞれベトナムへ派遣した。林はホーチミンに、中国共産党がベトナム戦争の費用を受け持つと約束した。彼は、「戦争が起きたら、中国をあなたの戦力として利用してください」と言った。

 

1964年、中国共産党にそそのかされたベトナム共産党は、トンキン湾にいたアメリカ海軍の駆逐艦を攻撃し、トンキン湾事件が勃発。アメリカはこれにより、ベトナム戦争に参戦した。一方、ベトナムの支配権をめぐって、ソビエト共産党と争っていた中国共産党は、国宝、武器、国民の血をベトナムに捧げたのである。

 

歴史学者の陳仙輝(ちんせんき)は著書『The Truth of the Revolution — The 20th Century Chronicle of Chinaで、次のように記述している。「毛によるベトナム支援は甚大な被害をもたらした。500万人の市民が死亡し、土地は地雷と廃虚で埋め尽くされた。経済は破壊された。中国共産党が提供したのは以下のものである」

 

「武器、弾薬、そして陸軍、海軍、空軍に属する200万人以上を武装させるのに十分な物資や設備。100以上の製造会社と修理工場、3億メートルの生地、3万台以上の車両、数百キロに延びる鉄道、500万トンの食糧、200万トンのガソリン、3000キロ以上の石油パイプライン、数百万ドルの米ドル札。これらの物資の他に、中国共産党は秘密裡に30万人の解放軍を送りこみ、北ベトナム軍を戦闘の最前線に立たせ、南やアメリカ軍と戦わせた。この秘密工作を隠すため、戦死した中国兵たちはベトナムに埋められたままである」【11】

 

1978年までに、中国共産党の対ベトナム援助金は200億ドルに上ったが、1965年当時、中国のGDPは704億元に過ぎなかった。(当時の為替で換算すると約286億ドル)

 

1973年、アメリカは国内で起こった反戦運動に譲歩する形で(これは共産主義者らが扇動した運動だったが)、ベトナムからの撤退を決定した。1975年4月30日、北ベトナムがサイゴンを陥落し、南ベトナムを占領した。中国共産党の指導により、ベトナム共産党はすぐに反対者たちを弾圧した。200万人以上の南ベトナム人が命の危険を冒して国を脱出し、大量の難民が生まれた。

 

c. クメール・ルージュ

ベトナム戦争当時、ベトナム共産党は中国共産党から軍事援助を得ていたが、それが後に、両者対立の火種となる。中国共産党は革命を輸出するため、ベトナムに物資を送りつづけ、アメリカとの戦争を継続するよう促した。一方、戦争の長期化を嫌ったベトナムは、1969年にアメリカ主導で行われた4者会談(中国は参加していない)に列席した。

 

1970年代、林彪事件の後、毛沢東は早急に自分の威信を回復する必要があった。また、領有権をめぐる珍宝島(ちんぽうとう)事件をきっかけに、ソビエトと中国の関係は急激に悪化していった。そのため毛沢東はアメリカと結託してソビエトに対抗することを決意し、リチャード・ニクソン大統領を中国へ招待した。

 

一方、国内で反戦運動が広がっていたアメリカも、ベトナム戦争の長期化を嫌っていた。ベトナムとアメリカは平和協定を結び、その後ベトナムは中国共産党ではなく、ソビエト政権の傘下に入ることになった。

 

ベトナムの態度に反発した毛沢東は、カンボジアを使ってベトナムに圧力をかけた。ベトナムとカンボジアの関係は悪化し、戦争へ突入した。

 

中国共産党は1955年からクメール・ルージュ(かつて存在したカンボジアの政治勢力および武装組織)に対する援助を始め、そのリーダーたちを中国に招き、訓練を行っていた。1965年、毛沢東はクメール・ルージュの最高指導者にポル・ポトを任命し、毛はポル・ポトに対して3万人分の武器や設備を提供した。

 

フレンチ・インドチャイナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)からアメリカが撤退すると、地元政府は中国共産党が援助する共産主義者らに抵抗できず、1975年、ラオスとカンボジアは共産主義国になった。

 

ラオスはベトナムの支配下になり、カンボジアは中国共産党が支配するクメール・ルージュに占領された。中国の指導により、クメールは何度も南ベトナムへ侵攻した。クメールはカンボジアとベトナム国境の住民を殺害し、ベトナム内にあるメコンデルタを占領しようとした。一方、ソビエトからの支援を受けたベトナムは、1978年12月、カンボジアへの攻撃を開始した。

 

ポル・ポトは実権を握ると、極端な恐怖統治を行った。貨幣を廃止し、都市部に住む全ての市民を田舎に追い立て、集産労働隊に編入させた。知識層は一斉に処刑された。3年が過ぎたころ、国の全人口の4分の1が殺害され、あるいは不自然な理由で死亡した。それにも関わらず、ポル・ポトは中国共産党のリーダーである張春橋(ちょうしゅんきょう)や、鄧穎超(とうえいちょう)らの支持を得ていたのである。

 

ベトナム対カンボジアの戦争が勃発すると、カンボジアの市民はベトナム軍を応援した。1カ月でクメール・ルージュは崩壊し、プノンペンは陥落した。クメール軍は山へ逃げ込み、ゲリラ戦を続けた。

 

1997年、ポル・ポトの常軌を逸した行動が内部闘争を招き、彼はクメール軍の司令官タ・モクに逮捕され、裁判で終身刑を宣告された。1998年、ポル・ポトは心不全で死亡した。2014年、中国共産党の度重なる妨害にも関わらず、カンボジア裁判所はクメール軍のリーダーだったキュー・サンパン(Khieu Samphanヌオン・チェ(Nuon Cheaに終身刑を下した。

 

ベトナムとカンボジアの戦争は、鄧小平を激怒させた。さまざまな理由から、1979年、鄧はベトナムに戦争をしかけ、それを「防衛のための反撃だ」と説明した。

 

d. その他のアジアの地域

中国共産党による革命の輸出は、アジアの華僑たちにも大きな悲劇をもたらした。数えきれないほどの反中国人運動が勃発し、少なくとも数百人の中国人がアジアの国々で殺された。多くの中国人がビジネスや教育を受ける権利を制限された。

 

典型的な例として、インドネシアを挙げる。1950年代と60年代、中国共産党は潤沢な資金をインドネシアに提供し、インドネシア共産党(PKI)を支援した。当時、PKIは最大の政党であり、300万人の党員を抱えていた。さらに、それらの関連団体を合わせると2200万人に上り、政治や軍部、スカルノ大統領の側近まで、その人数はインドネシア全土を凌駕(りょうが)していた。【12

 

毛沢東は当時、「修正主義」としてソビエトを批判し、PKIに対しては暴力的な革命を強く勧めていた。毛沢東を崇拝するPKIのリーダー、アイディット(Aidit)は、軍によるクーデターを企んだ。

 

1965930日、右翼系の軍部リーダー、スハルトがクーデターを鎮圧。彼は反中国を掲げ、多くのPKIメンバーを殺害した。この大規模な共産党メンバーの虐殺は、周恩来とも関係がある。周はある会合で、ソビエトとその他の共産国の代表団の前で次のように演説した。「東南アジアにはたくさんの中国人がいる。中国共産党は、これらの中国人を通して共産主義を輸出することができるし、一晩で東南アジアを(赤一色に)変えることができる」【13】

 

ミャンマーで起きた反中国運動も同様である。1967年、文化大革命の直後、在ミャンマー中国領事館や新華社のミャンマー支社は、海外にいる中国人に対して文化大革命を宣伝し、学生たちに毛沢東のバッジをつけ、「毛沢東語録」を学び、ミャンマー政府に対抗するよう教育した。

 

ミャンマー軍事政権下のネ・ウィン将軍は、毛沢東バッジや毛の著書を禁じ、中国人の学校を閉鎖するよう命じた。

 

1967626日、首都ヤンゴンで暴力的な反中国人運動が勃発し、数十人の中国人が殺害され、数百人が負傷した。19677月、中国共産党のメディアは「ビルマ共産党(CPB)の指導の下、武装してネ・ウィン政府と闘う市民を支援する」と発表した。

 

すぐに、中国共産党はビルマ共産党を援護するため軍事顧問団と200人の兵士を派遣した。また、中国は国内に駐留しているCPBメンバーに対して、ミャンマーに帰国して闘争に加わるよう命じた。その後、大勢の紅衛兵とCPB軍隊が雲南からミャンマー政府を攻撃し、コーカン地域を掌握した。人以上の中国人の若者が雲南から派遣され、戦場で命を落とした。【14

 

文化大革命期、中国共産党による革命の輸出とは、暴力の奨励、軍事訓練、武器や資金の提供が含まれていた。しかし、中国共産党が革命の輸出をストップすると、海外の共産党は次々に解体し、息を吹き返すこともなくなった。インドネシア共産党が、その典型的な例である。

 

1961年、マレーシア共産党(MCP)は武装闘争を放棄し、合法な選挙による政党政治をめざした。鄧小平はMCPのリーダー、チン・ペン(Chin Pengを北京へ呼び出し、闘争を継続するよう要求した。当時、革命の嵐がベトナムを中心に吹き荒れており、すぐに東南アジア全体を席捲(せっけん)するだろうと見込んでいた。

 

そのため、MCPは武装闘争を継続し、その後20年間、革命を試みた。【15】中国共産党はMCPに資金を提供し、タイの闇市で武器を購入させた。1969年、「マレーシア革命の音」のラジオ局が北京のイヤン市に設立され、マレー語、タイ語、英語やその他の言語で番組を放送した。【16

 

文化大革命の後、シンガポールの大統領リー・クワン・ユーは鄧小平との会合で、MCPとインドネシア共産党のラジオ局を閉鎖するよう中国に要求した。当時、中国共産党は国際社会から孤立しており、鄧も権力の座について間もなかったため、彼はリー・クワン・ユーの要求を受け入れた。鄧小平はMCPリーダーのチン・ペンに会い、ラジオ局の閉鎖に合意した。【17

 

これらの国々の他に、中国共産党はフィリピン、ネパール、インド、スリランカ、日本などにも革命を輸出しようとした。一部の人間に軍事訓練を提供し、政治的意図を宣伝した。その中には、後に国際的なテロリスト・グループになったものもある。極左として知られる日本赤軍は、飛行機のハイジャック、空港での銃乱射、その他のテロ事件の首謀グループとして世界的に知られたが、これも中国共産党が育てたのである。

 

2.革命の輸出―南米とアフリカ

 

文革期、中国共産党が何度も掲げていたスローガンは、マルクスの引用である。「労働階級自身を解放するには、まず全人類を解放することだ」。まさに、共産党は世界革命を主張した。1960年代、ソビエトは縮小期を迎えており、外部から革命を起こしてイデオロギー路線を補修する必要があった。それは、欧米の資本主義社会と平和的に共存し、発展途上国への革命運動に対する援助を減らすことが目的だった。

 

中国共産党はその政策を「修正主義」と呼び、非難した。1960年代、中国共産党の王稼祥(ワン・ジャーシャン)が同様の政策を提案したが、毛沢東は帝国主義者、修正主義者、反動主義者と批判し、世界革命運動に対して非協力的だと一蹴した。毛沢東はアジアだけでなく、南米やアフリカへも革命を輸出し、ソビエトと争った。

 

1965年8月、林彪(りんぴょう)は長文記事「人民戦争の勝利万歳!」の中で、世界革命の波がすぐにも押し寄せると論説した。毛沢東の理論は、「地方から都市を包囲する(これが中国共産党のやり方である)」であり、彼は北アメリカと西ヨーロッパを都市に見立て、アジア、アフリカ、南米を地方に例えた。従って、アジア、アフリカ、南米に革命を輸出することは、政治的に、またイデオロギー的に非常に重要な課題だった。

 

a. 南米

デラウェア大学の程映虹(チェン・インホン)教授は、『世界へ向けた革命の輸出: 文革が与えた影響を考察する―アジア、アフリカ、ラテンアメリカ(仮題)』の中で、次ように述べている。

 

「1960年中頃、ラテンアメリカにおいて、毛沢東路線の共産主義者らがブラジル、ペルー、ボリビア、コロンビア、チリ、ベネズエラ、エクアドルに組織を設立した。それらの主要メンバーは若者や学生だった。中国の支援を得て、毛沢東主義者らは二つのゲリラグループを作った。コロンビア人民解放軍と、中国の紅色娘子軍(こうしょくじょうしぐん・革命歌劇団)を真似た女性の共産主義グループ、マリア・カノ・ユニットを結成した。その他、ボリビア解放軍が設立され、ベネズエラでは同時期に共産主義者らがテロを起こした。ペルー共産党のトップ、アビマエル・グスマン(Abimael Guzmánは、1960年後期に北京で訓練を受けていた。彼が北京で学んだのは、爆弾や火器の取り扱いだけではない。彼は特に、「持たざる者から持てる者へ、銃を持たざる者から持てる者へ」という毛沢東の思想に染まった。

 

グスマンをリーダーとするペルー共産党(輝く道)は、アメリカ、カナダ、欧州連合(EU)、またペルー政府からテロリスト集団と特定されている。

 

1972年、メキシコと中国が国交を結んだ時、駐メキシコ中国大使は熊向輝(ション・シャンホイ)だった。熊は、中国共産党のスパイであり、内戦時、国民革命軍の長官であった胡宗南(こ・そうなん)を監視していた人物である。熊がメキシコに任命されたのは、アメリカを含む現地の諜報活動と、メキシコ政府に干渉することが目的だった。熊がメキシコに大使館を構えてから1週間たった時、メキシコ政府は「中国で訓練されたゲリラたち」を逮捕したと発表した。これが、中国共産党による革命の輸出のさらなる証拠である。【18】

 

南米で中国が最初に国交を樹立したのがキューバである。キューバの信用を得ること、また国際社会において、ソビエトを超えた指揮をとりたい中国共産党は、1960年、中国を訪れたキューバのチェ・ゲバラ(キューバ革命の指導者)に6000万ドルのローンを貸し付けることを約束した。それはちょうど、大躍進政策により、多くの中国の国民が餓死していた時と重なる。周恩来はゲバラに対し、交渉次第でローン返済を放棄しても構わないと話した。中国とソビエトの関係が悪化した後、キューバの革命家フィデル・カストロがソビエト寄りになると、中国共産党は駐ハバナ中国大使館を通して政府関係者や市民に大量のパンフレットを送りつけ、カストロ政権の転覆を促す大キャンペーンを行った。【19】

 

b. アフリカ

程映虹(チェン・インホン)教授はまた、「世界へ向けた革命の輸出」の中で、中国共産党がどのようにアフリカ諸国の独立に関わり、独立後はどのような道を歩んできたのかについて、次のように分析している。

 

「欧米メディアによると、1960年中頃より前、アルジェリア、アンゴラ、モザンビーク、ギアナ、カメルーン、コンゴから若いアフリカ人革命家たちが中国へ入国し、ハルビンや南京などの大都市で訓練を受けていた。ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)のメンバーは、上海で1年間、訓練を受けたと話している。軍事訓練のみならず、主要な部分は政治的な教育であり、その中で彼らは地方の人々を動員してゲリラ闘争を仕掛け、戦争を起こすやり方を学んだ。オマーンのゲリラは、1968年に中国で訓練を受けたと証言している。彼は最初にパキスタンへ送られ、その後、パキスタン航空で上海に飛び、北京に到着したという。

 

彼は中国の模範学校や革命自冶体を見学した後、訓練キャンプへ移動し、軍事訓練とイデオロギーの教育を受けた。その中でも、毛沢東思想の授業は最も重要だった。訓練生は、毛沢東の引用句をたくさん暗記しなければならなかった。訓練と地方の大衆に対する接し方はまるで中国人民解放軍の軍規「三大規律八項注意」そのものだった。アフリカ人の訓練生たちは、中国にいる間に文化大革命を目撃した。例えば、訪れた学校では、教師が「反動分子をどうやって扱うか」と問うと、学生たちはそろって「殺す、殺す、殺す」と叫んだ。訓練が終了すると、オマーンの訓練生たちはアラビア語に翻訳された毛沢東の本を手渡された。【20】」

 

タンザニアとザンビアへの援助は1960年代に中国共産党が行った革命の輸出の中で最も大規模なものである。中国共産党は上海紡績工場から大勢の専門家をタンザニアに送り、タンザニア友好紡績工場を設立した。中国側の担当者らは、これらの援助プロジェクトに強力なイデオロギー色を添えた。タンザニアに到着すると、彼らは反乱チームを組織し、建設現場に中国共産党の国旗を掲げ、毛沢東の銅像を建てた。文革の音楽を流し、毛沢東の引用句をうたった。工場は、海外における文革のモデルとなった。彼らは毛沢東路線の宣伝を広げ、タンザニアの労働者たちの間に反逆的な思考を植え付けたのである。【21】

 

タンザニアは中国共産党による革命の輸出を嫌った。その後、毛沢東がタンザニアとジンバブエを繋ぐ鉄道の建設を決定し、最終的には東アフリカ、中央アフリカ、南アフリカを繋いだ。鉄道のレールは山や谷、氾濫する河、手つかずの森の中を走った。線路を通る多くの地域はさびれており、動物しかいないような場所である。多くの路盤、橋、トンネルは沈泥や砂の上に建設されたため、工事は困難を極めた。320の橋と22のトンネルが建設された。

 

中国は5万人の労働者を送ったが、そのうち66人が死亡し、100億元が投資された。1970年から76年まで、完成に7年を費やした。しかし、タンザニアとザンビアでの経営は健全ではなく、鉄道建設のプロジェクトは破たんした。その費用は現代レートに換算すると、数百億ドルに匹敵する。

 

3. 革命の輸出―東ヨーロッパへ

 

a. アルバニア

中国共産党はアフリカと南米へ革命を輸出すると同時に、アルバニアへも多大な影響力を行使した。フルシチョフが非スターリン化の時期の到来についてスピーチを述べた時、すでにアルバニアは中国共産党寄りのイデオロギーを選択していた。毛沢東はそれに満足し、アルバニアへ惜しみない「援助」を始めた。

 

新華社通信の記者ワン・ホンチーは、「1954年から78年、中国はアルバニア労働党に対して75回の資金援助を提供し、その契約金額は100億元に上った」と話す。

 

当時、アルバニアの人口は200万人前後で、つまり国民一人当たり、4000元を受け取ったことになる。一方、当時の中国人の平均年収は200元を超えていなかった。中国は毛沢東が勧めた大躍進と文革による飢饉で、経済が崩壊していたのだ。

 

大飢饉の頃、中国は保有していた貴重な外貨を支払い、食料を海外から輸入していた。1962年、駐中国アルバニア大使が中国に対して食料の援助を求めた。劉少奇(リウ・シャオチー)は、カナダから小麦を積んだ貨物船の航路を変更させ、中国ではなくアルバニアで積荷を降ろすよう命じた。【22】

 

一方、アルバニアは中国共産党の援助を当然のものとして受け取り、その多くを無駄にした。中国から送られた大量の鉄鋼、機械、精密機器は野ざらしにされたが、アルバニア政府は非常に冷ややかだった。「大したことはない。道具が壊れたりなくなったりしても、また中国がくれるのだから」

 

中国はアルバニアに紡績工場を建設したが、綿花がなかったため、中国はアルバニアのために自国の外貨を犠牲にして、綿を輸入した。当時の首相アディル・カルサニ(Adil Çarçani)は、駐アルバニア中国大使のディー・ビャオに対し、化学肥料工場で使用する主な機械を中国製ではなく、イタリア製のものに交換するよう要求した。中国は要求に応じ、機械をイタリアから購入してアルバニアに設置した。

 

このようないわゆる「援助」は、受益者の貪欲と怠惰を促すだけである。1974年、アルバニアは中国に5億元のローンを要求した。当時は文革の末期で、中国の経済状態はほぼ完全に破たんしていた。しかし、結局、中国はアルバニアへ10億元のローンを約束した。しかし、アルバニアは中国に対して満足せず、「われわれは外国からの経済圧力に決して屈しない」というスローガンを掲げ、反中国運動を展開した。さらに、アルバニアは石油とアスファルトを中国に提供することを拒んだのである。

 

b. ソビエトの東欧支配

東欧における社会主義制度は、完全にソビエトによる産物である。第二次世界大戦後、ヤルタ会議によって世界勢力は二つに分断され、東欧はソビエトの支配下におかれた。

 

1956年、フルシチョフの秘密報告の後、最初の抗議運動がポーランドで起こった。工場の労働者による抗議活動が鎮圧された後、政府が謝罪すると、ポーランドではソビエトに忠実なタカ派のヴワディスワフ・ゴムウカ(Władysław Gomułka)が選ばれた。

 

1956年10月、ハンガリーで革命が起こった。多くの学生が集まり、スターリンの銅像を打ち壊した。その直後、多くの市民が抗議活動に参加し、警察と衝突した。警察の銃撃により、少なくとも100人が死亡した。

 

ソビエトは最初、新生の政党と協力することを希望し、カーダール・ヤーノシュ(János Kádár)を党中央委員会の第一書記に任命し、イムレ・ナジ(Imre Nagy)を閣僚会議の議長および首相に推した。ナジが実権を握ると、彼はワルシャワ条約機構(ソビエトを盟主とした軍事同盟)から離脱し、自由化への政策を推し進めた。ソビエトはこれに介入し、ナジは逮捕された後、処刑された。【23】

 

ハンガリー動乱の後、1968年、チェコではプラハの春が起こった。フルシチョフの秘密報告の後、チェコでは規制緩和が始まった。数年の間に、比較的に独立した市民社会が設立された。その中で著名な人物はヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havelで、後の1993年にチェコ共和国が設立された時に大統領になった。

 

1968年1月5日、改革派のアレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubce)がチェコ共和国の首相に就任した。彼は改革を強化し、「人間の顔をした社会主義」を提唱した。彼は大規模に社会の回復を行い、スターリンの時期に迫害された人たちの名誉回復を行った。反体制派を釈放し、メディア統制を緩和した。大学、研究所などの自由化を奨励し、市民は自由に海外へ旅行し、宗教への監視は緩み、多党制を導入した。 

ソビエトはこのような自由化政策に不満を持ち、またその他の国が追随することを恐れた。1968年3月から8月にかけて、ソビエトのブレジネフ大統領はドゥプチェクと5回会議を開き、民主改革を放棄するよう圧力をかけたが、彼はソビエトの要請を拒んだ。その結果、1968年8月、6300台の戦車がチェコへ侵入。8カ月続いたプラハの春は、こうして押しつぶされた。【24】

ハンガリー動乱やプラハの春を見て明らかに分かるのは、つまり東欧を支配した社会主義はソビエトによって暴力的に維持されていたということである。ソビエトが規制の手を緩めると、東欧の社会主義はすぐに解体した。

古典的な例としては、ベルリンの壁がある。1989年10月6日、東ドイツの都市では大規模な抗議活動と行進が繰り広げられていた。当時、ベルリンを訪れていたゴルバチョフはドイツ社会主義統一党書記長エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)に言った。「これを解決するには、このチャンスをつかんで改革することだ」

その直後、東ドイツがハンガリーとチェコへの旅行制限を緩和すると、すぐに大量の市民がチェコを経由し西ドイツへと押し寄せ、ベルリンの壁もその波を押しとどめることができなくなった。11月9日、東ドイツは分断を放棄し、数千人の市民がベルリンの壁を超えて西へとなだれ込んだ。共産主義の象徴だった鉄の壁はこれを契機に取り壊され、歴史と共に消え去った。【25】

1989年、ベルリンの壁が崩壊すると、それに続いて同年、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、チェコ、東ドイツが社会主義を捨て、民主化への道を歩んだ。これは、ソビエトが東欧への介入政策を捨てた結果である。1991年、ソビエトが崩壊し、冷戦は終わりを告げた。

過去数十年間、中国共産党は110カ国に対する対外援助を行った。同党の援助の中で最重要案件は、イデオロギーを輸出することだった。ソビエトによる中東、南アジア、アフリカ、南米への介入は、例として上記に述べたが、それは氷山の一角にすぎない。共産主義が暴力を主な手段として、国際的に繁殖した例として検証した。共産主義が支配する人口と地域が広がれば、それだけ人類壊滅の計画を実行しやすいのである。

4.冷戦の終結

冷戦が終結した時、多くの人々が平和の訪れを信じ、安堵した。人々は社会主義や共産主義などの独裁政治が終わったと思いこんだ。しかし、それは単に悪魔による計略の一つだった。人々がアメリカとソビエトの膠着(こうちゃく)状態に目を奪われている間に、中国共産党は着々と、より卑劣な計画を実行していた。

198964日の天安門事件の後、元中国共産党首席の江沢民がのし上がった。すでに圧力とプロパガンダ(政治的な宣伝)が横行していた中国で、江沢民は系統的に伝統文化を破壊し、かわりに「共産党文化」の強化に努めた。道徳を全面的に破壊し、市民を「オオカミの子ども」に教育した。江沢民は、後に起こる大規模な法輪功(ファールンゴン)への弾圧、そして最終的な人類壊滅への道を開いたのである。

多くの国々で共産主義はすでにその権力を失ったが、共産主義が行ってきた数々の犯罪について、国際社会が問うことはない。ロシアは今でもソビエトの影響を排除しておらず、秘密警察を廃止していない。現在のロシアの指導者は、元KGB(ソビエト時代の秘密警察)のトップである。共産主義のイデオロギーとその追随者は確実に存在しているだけでなく、その影響力は欧米や世界に及んでいる。

共産主義の邪悪性を深く理解し、それに反対する欧米人たちは、年老いてきている。一方、現代の若者は共産主義をよく分かっておらず、またその殺人的で邪悪な、欺瞞に満ちた性質を知ろうともしない。その結果、共産主義者らは、その過激で急進的な運動を推進することができる。元存するイデオロギーと社会体制を覆し、暴力によって権力を掌握することが容易になるのだ。

a. 赤の広場は赤い

前共産圏の国々が次々と独立と自由を得たのを見て、ソビエトの国民も変革を望んでいた。しかし、ソビエトの政策は混乱をきたし、経済が崩壊し、外交問題から取り残された。ロシアの大統領ボリス・エリツィンはソビエト共産党を違法とし、その活動を制限した。国民はそれまでの不満を爆発させ、19911226日、ソビエトの最高会議はソビエト連邦を解体する法案を可決し、69年間続いた独裁体制は幕を閉じた。

しかし、根深い共産主義のイデオロギーを、そう簡単に除去できるだろうか。ロシア連邦の設立とともに、エリツィンは共産主義解体のキャンペーンを展開した。レーニンの銅像を除去し、ソビエトの書籍は燃やされ、元ソビエト政府の職員は解雇され、ソビエト時代の装飾品は燃やされた。しかし、これらの表面的な取り組みも、共産主義の病巣の部分には届かなかった。

第二次世界大戦後に行われたナチス解体は、より綿密だった。ナチス戦犯の公開裁判からファシスト的イデオロギーの排除、また「ナチス」という言葉に伴う罪悪感など、すべてが周到に行われた。現代でもナチス狩りは続いており、元ナチス親衛隊に対する裁判が行われている。

一方、ロシアでは、綿密で周到な排除が行われなかったため、共産主義がいまだに根強く残り、息を吹き返した。1993年10月、数千人のモスクワ市民が広場を行進し、レーニンとスターリンの名前を叫びながらソビエトの旗を振った。その2年前、市民は独立と民主を求めて同広場を行進したと言うのに。

1993年の集会は、共産主義者らによるソビエト体制の復活だった。軍隊と警察が出動し、より事態は深刻になった。危機的な状況になり、保安部と軍隊は最終的にエリツィン側につき、戦車で動乱を鎮圧した。しかし、これをきっかけに共産主義勢力は存在感を強め、ロシア共産党が復活した。現プーチン率いるユナイテッド・ロシアが政権を取るまで、ロシア共産党は最大の政党だった。

最近の調査によると(2015年から16年に行われたモスクワRBKテレビによるアンケートなど)、およそ60%の回答者が、ソビエトが復活するべきだと答えた。2017年5月、多くのロシア人がソビエト連邦100年記念を祝った。ソビエト連邦時代に結成された共産主義青年団は、モスクワの赤の広場にあるレーニンの遺体の前で、若者のための入団宣誓式を開いた。ロシア共産党党首ゲンナジー・ジュガーノフ(Gennady Zyuganov)によると、集会では、あらたに6万人の新メンバーが入党し、その規模は拡大しているという。

 

モスクワだけでも、レーニンの記念碑は80に上る。赤の広場に保存されている特殊処理されたレーニンの遺体は、いまだにその信奉者や観光客を集めている。赤の広場は、今も赤い。ソ連国家安全委員会(KGB)の存在はいまだに謎が多く、世界から非難の対象になった。共産主義はロシアで生き延び、その信奉者は多数存在する。

 

b. 赤の災難は継続する

現在、共産主義を標榜(ひょうぼう)する国は4つある。中国、ベトナム、キューバ、ラオスである。北朝鮮は表面的にマルクス・レーニン主義を放棄したが、実際には共産主義の独裁国家である。冷戦時代より以前、世界には27カ国が共産主義を標榜していた。現在、13カ国で共産党が公的に活動しており、120カ国が共産党を登録している。しかし、これらの国々では年の間に、共産主義による政治的影響力を失っていった。

 

1980年代までに、南米では50以上の共産党が乱立し、そのメンバーは100万人に上った(そのうち、キューバの共産党が半分を占める)。1980年代、アメリカとソ連の間で南米をめぐる覇権争いがあったが、東欧とソ連の解体により、その地域における共産主義は徐々に弱くなっていった。

 

ペルー共産党(輝く道)のような、いわゆる暴力を掲げる共産主義は次第になくなっていったが、代わりにさまざまに変質した社会主義が台頭した。彼らはあえて共産党という名前を使わず、民主社会党、人民社会党、などと呼ぶ。中央アメリカに存在する10の共産党は党名から「共産党」という言葉を外し、一方で共産主義と社会主義のイデオロギーを宣伝し、その活動はより偽装されている。

 

共産主義国家のキューバを除き、南米とカリブの33の独立国家で共産党は合法的な政党として登録されている。ベネズエラ、チリ、ウルグアイやその他の地域では、共産党は与党と組んで連合することもあれば、その他の地域では野党になる場合もある。

 

欧米において、共産党は暴力に訴えて殺戮を繰り広げるなど派手な活動は行っていない。しかし、彼らのイデオロギーは、欧米社会の中で、巧妙に浸透している。人々の道徳を堕落させ、神が人間に与えた文化を破壊し、共産主義と社会主義のイデオロギーを宣伝している。邪霊は、実際に、すでに全世界を支配している。彼らの目標である全人類の壊滅まで、あと一歩のところにいるのである。

 

(参考文献)

 

[1] 張戎、喬‧哈利戴:《毛澤東:鮮為人知的故事》(香港:開放出版社,2006)。

[2] Harry S Truman, 「Statement On Formosa,」 January 5, 1950, https://china.usc.edu/harry-s-truman-%E2%80%9Cstatement-formosa%E2%80%9D-january-5-1950; US Enters the Korean Conflict, https://www.archives.gov/education/lessons/korean-conflict.

[3]錢亞平:〈60年來中國的對外援助:最多時占國家財政支出7%〉,《人民日報》網站。

[4] 對外援助支出摘自歷年國家決算報告。

[5] 陳憲輝:《革命的真相‧二十世紀中國紀事》,第38章,https://china20.weebly.com/。

[6] 同上。

[7] 陳憲輝:《革命的真相‧二十世紀中國紀事》,第52章。

[8]〈解密時刻:逃離朝鮮 亡命中國〉,美國之音,https://www.voachinese.com/a/hm-escaping-north-korea-20121007/1522169.html。

[9] 陳憲輝:《革命的真相‧二十世紀中國紀事》,第49章。

[10]何立波:〈援越工作中的劉少奇〉,《人民日報》網站黨史頻道,http://dangshi.people.com.cn/GB/85038/8740381.html。

[11] 同上。

[12]舒雲:〈建國初期,我國實施過多少超出國力的對外援助?〉,人民網黨史頻道, http://dangshi.people.com.cn/GB/85039/9398916.html。

[13] http://blog.sina.com.cn/s/blog_622141230102wm6t.html

[14] 陳憲輝:《革命的真相 • 二十世紀中國紀事》,第49章。

[15] 同上。

[16] 同上。

[17] 王賢根:《援越抗美實錄》(濟南:濟南出版社)。

[18] 陳憲輝:《革命的真相‧二十世紀中國紀事》,第56章。

[19]宋征:〈1965印尼『9.30』政變始末〉,《縱覽中國》,http://www.chinainperspective.com/ArtShow.aspx?AID=183410。

[20]宋征:〈1965印尼『9.30』政變始末〉《縱覽中國》,http://www.chinainperspective.com/ArtShow.aspx?AID=183410。

[21]〈說古論今:緬甸的中國衝擊波〉,美國之音,https://www.voachinese.com/a/article-2012024-burma-china-factors-iv-140343173/812128.html。

[22]程映紅:〈向世界輸出革命——文革在亞非拉的影響初探〉,《當代中國研究》,2006年第3期,http://www.modernchinastudies.org/cn/issues/past-issues/93-mcs-2006-issue-3/972-2012-01-05-15-35-10.html。

[23]陳益南:〈設在中國的馬共電台〉,《炎黃春秋》,2015年第8期。

[24]程映紅:《向世界輸出革命——文革在亞非拉的影響初探》。

[25]寒山:〈今是昨非:熊向暉和中共在拉美輸出革命的歷史〉,自由亞洲電台,https://www.rfa.org/cantonese/features/history/china_cccp-20051117.html。

[26]陳憲輝:《革命的真相‧二十世紀中國紀事》,第52章。

[27]程映紅:《向世界輸出革命——文革在亞非拉的影響初探》。

[28]王洪起:〈中國對阿爾巴尼亞的援助〉,《炎黃春秋》。

[29]陳奎德:《近代憲政的演化》,第六十章,(華盛頓特區:觀察編輯部,2007)。

[30]陳奎德:《近代憲政的演化》,第六十七章。

[31]陳奎德:《近代憲政的演化》,第七十八章。

関連キーワード
^