悪魔が世界を統治している 九評編集部:悪魔が世界を統治している

第二章:始まりはヨーロッパ

2019/07/13
更新: 2022/06/09

目次

 

序文

1. カール・マルクス悪魔的な作品

2. マルクスが生きた時代の歴史的背景

3. フランス革命

4. パリで登場した共産主義

5. 最初にヨーロッパ、そして世界へ

参考文献

 

序文

 

正統な宗教の中で現れた預言は、その多くが現実となった。ノストラダムスを始め、ペルー、韓国など世界中で伝わる預言も同様である。中国にも、漢王朝から明王朝にかけて書かれた、驚くほど正確な予言書が残されている。【1】

これらの予言から分かるのは、つまり歴史とは偶然の過程ではなく、主要な出来事がすべて展開するように用意されており、脚本のあるドラマに過ぎないということだ。人類最後の時期になり、すなわち新たな歴史の到来を告げる時になって、世界はたった一つの希望を持つ。つまり、創造主が人間世界に降り立つということだ。

すべてのドラマには終わりがある。悪魔は人類を壊滅させるべく按排したが、全能の創造主は、彼の方法で世界を覚醒させ、悪魔の束縛から解き放ち、人間を救い済度しようとした。今は、創造主が到来する前の末劫の時期である。現在、繰り広げられているのは、最終的な善と悪の戦いである。

正統な宗教の預言によると、創造主の到来の前の世界は、人間の道徳が著しく低下し、悪魔、忌まわしいもの、不吉な出来事が溢れるとされている。明確に言うと、今がまさにその時期である。

私たちが直面しているこの堕落は、ずっと以前から仕組まれていたことである。それは数百年前に、ある中心となる概念が生まれたことにより始まった。つまり、無神論と人類を騙す欺瞞である。カール・マルクスが嘘でそれを順序良く包括したイデオロギーを大成し、その理論を残虐に実行したのがレーニンである。

しかし、マルクスは、決して無神論者ではなかった。彼はサタン教の信者となり、彼自身が悪魔となった。彼の使命は、人類の終末期に、人々が神を理解できないようにすることだった。

 

1. カール・マルクスの悪魔的な作品

 

カール・マルクスは多くの著書を出版した。最も有名なのは1848年の『共産党宣言』であり、また1867年から1894年の間に、三巻におよぶ『資本論』を出版している。これらの著書が、共産主義運動の理論的根拠となったのは周知の事実である。

一方、あまり知られていないのは、マルクスが自分の魂を悪魔に引き渡し、人間世界における悪魔の代理人となった彼の生涯である。

マルクスは若い頃、敬虔なクリスチャンだった。実際、悪魔に魅入られる前の彼は、熱狂的な神の信者だった。マルクスは初期の頃の詩「絶望者の祈り」の中で、神に対して復讐すると表明している。

神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して
何から何まで取上げて
神の世界はみんな、みんな、なくなっても
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。
高いところに君臨しているあの者に復讐したい
俺の力が、弱くつぎはぎ細工であるにしろ
俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は樹てたいんだ、
その頂きは冷たくて巨大だ
その砦は超人的なもの凄さだ
その指揮官は陰鬱な苦悩だ!【2】

マルクスは自分の内面に起きた変化について、父親への手紙に書いている。「私は脱皮した。聖なる主が私の体を離れ、新たな主が宿った。私は真の凶暴に占有された。私はこの凶暴な魂を鎮めることができない」【3】

また、彼の詩「青ざめた処女」では、

俺を追放した天国、俺はよく知っている
一度は神を信じたこの魂
地獄に選ばれたのだ【4】

マルクスの変貌ぶりは明らかだった。1837年3月2日、マルクスの父は息子宛ての手紙で、「君にはいつか有名になって、有益な人生を送ることを望んでいたが、それだけではない。これらの望みが実現されても私を幸せにすることができない。あなたの心が純朴で、人間の心として鼓動し、悪魔に転化されないことしか、私を幸せにできない」と訴えた。【5】

マルクスの娘の一人によると、マルクスは娘たちに空想の物語を話すのが好きだったという。彼女のお気に入りはハンズ・ロッシュルという男の魔法使いの物語で、魔法使いは常にお金が足りないため、仕方なく大好きな人形を悪魔に売ったという話だった。【6】

マルクスが自分の成功と引き換えに悪魔に売ったのは、自分の魂だった。彼は詩「バイオリン奏者」の中で訴える。

なんでこうなんだ! 落ちていく、落ちていく
確実に
俺の黒い血で染まった剣が
おまえの魂を貫く
あの神は欲しくもないし、智慧もない
それは暗黒のもやに包まれた地獄から
頭に飛び込んでくる
心が酔いしれて、感覚が巻き付けられるまで
サタンと契約を交わした
彼は符号を顕し、拍子をとる
俺は素早く自由に死の行進を演じるのさ【7】

マルクスの伝記『マルクス』を執筆したロバート・ペイン(Robert Payne)は、マルクスが話した物語は彼の人生の寓話であり、彼は故意に悪魔の代理人を演じていたようだと話す。【8】

マルクスの魂は、悪魔に変貌した。神への怒りから、彼はサタン教に入信した。アメリカの政治哲学者エリック・ボゲリン(Eric Voegelin)は、次のように書いている。「マルクスは、自分が神として世界を創っていることを知っていた。自分自身を、創造されたものであると認めたくはなかった。創造された者として世界を見るのではなく、コインキデンチア・オッポシトールム(coincidentia oppositorum、対立するものの一致)という見地から、つまり神の視点で世界を見たかったのだ」【9】

マルクスは「ヒューマン・プライド」(Human Pride)という詩の中で、神と決別し、神と同じ次元に立つという意志を宣言している。

軽蔑に、私は世界という顔面に
鎧を投げつける
このデブデブとしたヤツの崩壊を見届けてやる
しかしコイツの倒壊はまだ私の激情を鎮められない
私は神のように
この世界の廃虚の中を通り抜け、凱旋する
私の言葉に強大なエネルギーを持つときは
私は感じるだろう
造物主と同等であることを【10】

マルクスは積極的に神に反抗した。「私は、上から規制する彼に復讐することを切望している」「神という考えは、歪んだ文明の思想に過ぎない。それは、破壊すべきだ」【11】

マルクスが亡くなると、彼のメイドだったヘレン・デマス(Helene Demuth)は、彼について供述した。「彼は、神を恐れていました。病気の時、彼は部屋に火をつけたキャンドルを並べ、頭にテープを巻いて、一人で祈っていました」【12】

従って、マルクスはクリスチャンでもなく、ユダヤ教信者でもなかったが、実際に彼は、無神論者ではなかったのだ。

人類の歴史の中で、偉大な聖人たちは、人類に悟りへの道を開き、世界に文明の礎を築いた。イエス・キリストはキリスト文明の根底を築き、老子の教えは道教の源を築き、中国哲学の柱となった。古代インドでは、釈迦牟尼が仏教を開いた。これらの聖人の智慧は驚異的である。彼らの洞察は修行を通じて悟ったものであり、通常の勉学から得られたものではない。

一方、マルクス理論は一部、他の学者たちの理論を参考としているが、究極的には邪霊から授かった「教え」である。彼は詩「ヘーゲルへ」の中で告白している。

俺は全てのうちの最高のもの、
最も奥深いものを見つけたのだ
俺は無作法に、暗闇のマントを身に付ける
神のように【13】

邪霊の按排によって、マルクスは人間世界に遣わされ、共産主義というカルトを設立し、人間の道徳を堕落させた。彼の使命は人間が神に背を向け、壊滅への道を歩み、地獄で永遠に苦しませることだった。

 

2. マルクスが生きた時代の歴史的背景

 

マルキシズム(マルクス主義)を広めるために、邪霊はさまざまな知識的、そして社会的な基礎を植えつけ、共産主義の台頭を促した。以下、マルクス主義拡散の歴史的背景として、二つの要素を検証したい。

マルクスの理論は一般的に、ヘーゲルとフォイエルバッハの影響を深く受けていると言われている。フォイエルバッハはマルクス以前に神の存在を否定した人物である。彼は、宗教とは単なる「無限の感覚」に過ぎず、つまり、「神は人間の本質が反映したものにすぎない」と主張した。【14】

フォイエルバッハの理論は、共産主義がどうやって台頭し、拡散したのかという問題に光を当てている。この頃、科学の発達、機械化、有形財産、医薬品、娯楽が現れ、幸福とは物質的豊かさの作用によるものという印象が強まった。従って、すべての不満は、社会的な制限が原因となる。それはまるで、物質的な発展と社会の変革により、人々は神がいなくとも、ユートピア(楽園)を築くことができるかのようだった。この構想こそが、人々を惑わし、共産主義のカルトへと引きずり込む原因となった。

キリストと神を否定したのは、フォイエルバッハが初めてではない。ダーフィト・シュトラウス(David Friedrich Strauss)も、1835年の著書『イエスの生涯』の中で、聖書の信ぴょう性とイエスの神性に疑問を投げかけている。また、無神論の概念は、17世紀から18世紀にかけて起こった啓蒙思想、また古代ギリシャの時代にも見受けられる。しかし、これについて論じるのは、本書の目的ではない。

マルクスの『共産党宣言』が書かれたのは、ダーウィンの『種の紀元』よりおよそ10年前のことだが、この進化論はマルクスに見せかけの科学的根拠を与えた。もしすべての生命が自然に生まれ、「自然淘汰」の結果によるものならば、人間も単なる最も発達した有機体に過ぎず、そこには神が存在する空間はない。進化論には多くの欠陥があり、それを指摘する研究論文も残っているが、この議論については本書のテーマから逸れるので割愛する。

1860年12月、マルクスは友人のエンゲルスへ宛てた手紙で、ダーウィンの『種の起源』を称賛している。「この本は、あなたの見識(唯物史観)に根拠を与える内容が含まれています」【15】 マルクスは1862年1月、社会主義哲学者フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Lassalle)宛ての手紙で、「ダーウィンの本はとても重要です。これは私の、歴史の階級闘争という概念に、自然科学的な根拠を与えてくれたのです」と書いた。【16】

自然科学の分野における進化論と、哲学の分野における唯物論が、マルクスに絶対的な力を与え、多くの追随者たちを誘導し、引き込んだのである。

カール・マルクスが生存していた頃、社会は大きな変革の時期にあった。1769年、ワットが蒸気エンジンを発明し、第一次産業革命が起こった。それまでにあった小さな職人社会は、大量生産にとって代わられた。技術の発展により、農業から溢れた余剰人口が大量に都市へと流入し、工場で働くようになった。自由市場が販売と流通を促進した。

産業化は常に都市を発展させ、人口、情報、新しいアイデアの流入を引き起こす。都市部では、田舎暮らしに比べて人々の結びつきが少なく、無頼者でさえも本を書ける。ドイツを出国したマルクスは、フランス、ベルギー、イギリスへと拠点を変え、最終的には、ディケンズの小説に出てくるようなロンドンのスラム街に落ち着いたのである。

マルクスの後半生には二度目の産業革命が起こり、電力の使用、内燃機関、化学製造が発達した。また、電報や電話の発明により、人々のコミュニケーション技術は飛躍的に発展した。

このような変化がある度に、人々は新たな現実に適応するため右往左往し、社会は大がかりな変革を迎える。多くの人々がその変化について行けず、持つ者と持たざる者の対立が深まり、経済危機が起きる。この激動の社会は、伝統を単なる歴史的遺物であるとみなし、破壊せねばならないといったマルクスの主張が広がるのにうってつけだった。また、飛躍的な技術の発達と自然の大量消費により、人間の傲慢さが徐々に増している時代でもあった。

マルクス主義を、単なる激変した社会の申し子だとか、あるいは当時の知識層の傾向の一端だったとかで片づけてはならない。それよりも、上記に述べた要素は、マルクス主義を広め、人類を壊滅させるという悪魔の計画があったことを考慮して理解しなければならない。

 

3. フランス革命

 

1789年に起きたフランス革命の影響は非常に大きく、その余波は遠くまで届いた。革命は君主政治を倒し、伝統的な社会規範を転覆させ、暴徒が支配するというシステムを作った。

エンゲルスは言った。「革命とは確かに、最も独裁的なものである。それは一部の人々が銃や銃剣、カノン砲などの手段を使って、もう一部の人間に意見を押し付けることなのだから。もし勝利した側の人間が戦いをムダにしたくなければ、テロによってその支配を維持し続けなければならない。それによって、反対派が武器を取って戦うことを抑止するからだ」【17】

フランス革命の後、政権を握ったジャコバン・クラブ(Jacobin Club)は、このことをよく理解していた。フランス王ルイ16世がギロチン台で処刑された後、ジャコバン党のリーダー、マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)は恐怖政治を敷き、7万人を処刑した。そのほとんどは、無実の人々だった。後世の人々は、ロベスピエールの墓碑に次のように記している:

祈りを捧げる汝よ
私の死を嘆くなかれ
今日まで生きてきて
私の意志はぐらつかない【18】

フランス革命の後にジャコバン・クラブが実施した政治テロ、経済テロ、宗教テロは、共産主義による圧政への序曲だった。

レーニンとスターリン政権下の大粛清が始まる前、フランスの革命家たちは特別刑事裁判所を設け、パリを始めとするさまざまな場所にギロチンを設置した。革命委員会が囚人に有罪判決を下し、国民公会に属する捜査官たちは軍部や官僚などより権威があった。サン・キュロット(キュロットをはかない人、貧困層)、つまり無産市民や労働者が最も革命的な階級であり、社会的価値があるとされた。

1794年6月10日に公布された法律第22条により、公判手続きや弁護人が禁止され、すべての有罪判決が死刑と確定した。評決を得るために、うわさ、推論、個人的見解などが証拠に代わって有効とされた。当時、法律の公布は恐怖政治を大幅に拡大し、推定30万人から50万人が投獄された。【19】

同様に、ジャコバンによる経済テロは、ロシアのレーニンが実施した「戦争共産主義」の前触れでもあった。1793年7月26日、罪を犯した人たちすべてを死刑とする法案が通過した。【20】

フランス革命期の不幸の一つは、カトリック教に降りかかった災禍である。恐怖政治を敷いたロベスピエールやジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)、またその追随者たちは、その頃に流行っていた啓蒙思想を取り入れ、極めて無神論的な「理性の崇拝」を掲げ、カトリックの信仰を排除したのである。【21】

1793年10月5日、国民公会はキリスト教の暦(グレゴリオ暦)を廃し、革命の記念日を起点とする暦(フランス革命暦)に置き換えた。11月10日、パリのノートルダム大聖堂では「理性の祭典」が開かれ、オペラ座の女優が「理性の女神」を演じ、崇拝の対象となった。理性の崇拝は瞬く間にパリ中に広がった。平常通りに営んでいた教会は、一週間で3つしかなかった。

宗教テロがパリ中を飲み込み、大勢の司祭が逮捕され、一部は処刑された。【22】

フランス革命は、ソビエト政権を打ち建てたレーニンに見本を示しただけでなく、マルクス主義の発展とも密接な関係がある。

フランス革命期の社会主義者フランソワ・ノエル・バブーフ(Francois-Noёl Babeuf)は、私有財産の廃止を訴えた人物である(彼は後に「平等主義者の陰謀」で処刑された)。マルクスは、バブーフこそ共産主義の先駆者だと持ちあげた。

19世紀、フランスは社会主義のイデオロギーに深く影響されていた。亡くなったバブーフを精神的リーダーとして発足した「追放者同盟」(The League of Outlaws)がパリ中に広がった。1835年、ドイツの仕立て屋だったヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling)が連盟に加わった。後に、彼のリーダーシップのもと、連盟は「正義者同盟」(The League of the Just)と名前を変えた。

1847年6月、正義者同盟と、マルクスやエンゲルス率いる共産通信連絡委員会(Communist Correspondence Committee)が合併し、共産主義者同盟(Communist League)が設立した。新同盟は、マルクスとエンゲルスをリーダーとした。1848年、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』を出版し、世界の共産主義運動に火をつけた。

フランス革命は、ヨーロッパで長期的に続いた社会動乱のほんの始まりに過ぎなかった。ナポレオン時代が終わり、その後次々と展開した革命や暴動は、スペイン、ギリシャ、ポルトガル、ドイツ、イタリアにまで波及した。1848年までに、革命と戦争はヨーロッパ中に拡散し、共産主義が浸透するのに有利な土壌を形成した。

1864年、マルクスらは「第一インターナショナル」と呼ばれる国際労働者協会(International Workingmen’s Association)を設立し、マルクスは共産主義労働者運動の精神的なリーダーとなった。

この第一インターナショナルの中で、マルクスは厳格な革命グループを育て、彼らに労働者たちを扇動し、暴動を起こさせる役割を与えた。同時に、彼の方針に異を唱える者は組織から除外した。ロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)は、多くの人間を共産主義運動に引き込んだが、マルクスは彼をロシア皇帝のスパイだと弾劾し、組織から追放した。【23】

1871年、第一インターナショナルのフランス支部が最初の共産主義革命を行った。これが、パリ・コミューン(Paris Commune・パリ市の革命自治体)である。

 

4. パリで登場した共産主義

 

1870年の普仏戦争で惨敗したフランスに、パリ・コミューンが設立された。フランス皇帝ナポレオン3世が降伏したが、プロイセン軍はパリを制圧し、撤退を拒んだ。降伏という恥辱、および労働者たちの中でくすぶっていた社会不安が高まり、パリでは暴動が多発した。フランスの新政府はベルサイユへ撤退し、パリは空白となった。

1871年、パリ・コミューンは社会主義者、共産主義者、無政府主義者、その他の活動家をリーダーとして、最下層から雇った暴徒と強盗を伴い、暴動を開始した。この暴動は、第一インターナショナルと深く関わっていた。彼らは、無産階級を革命の駒として利用し、伝統文化を破壊し、社会の政治経済を変貌させようとしたのである。

彼らが行ったのは、巨大なスケールの殺戮と破壊だった。暴徒たちは、パリの精巧な歴史的遺産、建造物、芸術を打ち壊した。ある労働者はもっともらしく言った。「記念碑とか、オペラとか、カフェやコンサートなんか、一体俺に何の用があるというのだ? 俺は金がないから、こんなところに入ったこともないんだから」【24】

この破壊行動を目撃した一人は言った。「苦々しく、冷酷で、残虐だった。それは疑いもなく、1789年に起きた血の革命の、悲しみの遺産だった」
他にも、コミューンの行為について「血と暴力の革命」「世界で前例のない最悪の犯罪行為」などと供述した。この暴動に参加したのは、「ワインと血に酔った狂人たち」であり、そのリーダーは「冷酷な無法者…フランスを拒否する輩」だった。【25】

伝統と反伝統の対立はフランス革命期に始まり、その80年後、その脚本が再び演じられることになった。パリ・コミューンの名誉会長は言った。「二つの法則がフランスを共有している。一つは合法性、もう一つは国民主権である。…国民主権の法則は、将来のすべての人間、つまり大衆を動員する。彼らは搾取されることに嫌気がさし、彼らを苦しめる社会構造を破壊するよう努めるだろう」【26】

極端な共産主義者のひとり、アンリ・ド・サン=シモン(Henri de Saint-Simon)は、国の富は労働者に等しく分配すべきであると考えた。彼は金持ちを寄生虫であると指摘した。

マルクスは著書『フランスの内乱』(Civil War in France)の中でこう指摘する。「帝国のアンチテーゼ(対照となすもの)は、共産国家である。「社会主義共和国」への切望と、パリの無産階級によって先導された2月革命は、漠然とした共和国家への熱望を表明したが、それは単に封建制度による支配にとって代わるというだけでなく、階級支配そのものだった。コミューンは、つまりその共和国家の積極的な形式だ」。さらに彼は、「コミューンは一握りの富裕層と、大多数の労働者を生み出した階級による富を廃止する」と述べた。【27】

パリ・コミューンは、共産主義者による革命の特徴を見せつけた。ナポレオン1世をたたえて建てられたヴァンドームの円柱は、彼らによって分解された。教会は破壊され、聖職者は殺害され、宗教の授業は学校で禁じられた。暴徒たちは聖人の銅像に現代風の洋服を着せ、パイプを口にひっかけて、からかった。

この野蛮な行為には、女性もいた。一部の女性は男性を超えるほど熱狂的に暴れた。当時パリにいたチャン・デイーという中国人は、次のように詳述している。「反体制派は、男の暴漢だけではなかった。女性も大暴れしていた。…高層の宿泊施設を乗っ取り、贅沢を貪った。しかし、彼女たちの快楽は短いものだった。なぜなら、すぐそこに危険が迫っていたからである。彼女らは敗北が分かると、略奪し、建物を焼き払った。貴重な宝物は、すべて灰と化した。何百人という女性の暴漢が逮捕された。その時、放火はほとんど、女性が先導しておこなったと自白した」【28】

暴力的な狂乱とそれに伴うパリ・コミューンの失敗は、特に驚くべきものでもない。1871年5月23日、最後の戦線が負けそうになると、コミューンのリーダーはリュクサンブール宮殿(Luxembourg Palace)とテュイルリー宮殿(Tuileries)、またルーブル(Louvre)を焼き討ちにするよう命じた。パリのオペラハウス、シティーホール、パレ・ロワイヤル(Palais-Royal)、またシャンゼリゼ通りにあった多くの豪華なレストランや高級アパートは、政府の手に落ちる前に、破壊されたのである。

午後7時、コミューンのメンバーたちは松ヤニやアスファルト、テレビン油などを手に、パリ中のあちこちに火を放った。荘厳なフランス宮殿は火に焼かれた。ルーブルだけは、到着した政府の部隊が鎮火し、焼失から免れた。【29】

パリ・コミューンが起こると、マルクスはすぐに自分の理論に修正を加えた。彼は『共産党宣言』に、労働者階級は国の主権を奪うだけでなく、国家のメカニズムを倒し、破壊しなければならないと書き加えた。

 

5. 最初にヨーロッパ、そして世界へ

 

マルクスが更新した『共産党宣言』は、より強力な破壊力と影響力を持つようになった。1889年、マルクスが亡くなって6年後、第一インターナショナルが解体してから13年後、フランス革命100年記念の日に、国際労働者大会(The International Workers’ Congress)が息を吹き返した。マルクス主義の信奉者たちが動員され、歴史家が「第二インターナショナル」と呼ぶ国際組織が誕生した。

共産主義に導かれ、「人類の解放」や「階級をなくそう」といったスローガンを掲げ、ヨーロッパの労働者運動が広がった。レーニンは言った。「マルクスとエンゲルスが労働者たちのためにやったことは次の通りだ。つまり、彼らは労働者階級に、自分たちが何なのか、彼ら自身を認識させ、夢の代わりに科学を与えたのである」【30】

悪魔は嘘と教義を操り、大衆運動を共産主義のイデオロギーで染めた。ますます多くの人がそのイデオロギーを受容した。1914年までに、世界中で30の社会主義組織が誕生し、無数の労働組合が結成された。第一次世界大戦が勃発した頃には、すでに1千万人を超える労働組合メンバーと、7万人以上の共同組合メンバーが存在した。エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)は、著書『世界の変え方:マルクスとマルキシズムの話(How to Change the World: Tales of Marx and Marxism)』(仮題)の中で、「これらのヨーロッパの国々で、すべての社会的思想、例えば社会運動や労働者運動などは、それが政治的動機に基づいているかどうかに関わらず、明らかにマルクスの影響を受けている」と指摘する。【31】

同時期、共産主義はヨーロッパを足掛かりにロシアや東側へ飛び火した。1886年から1890年にかけて、レーニンは「資本論」を学び、またその前に『共産党宣言』をロシア語に翻訳した。レーニンは投獄された後に亡命し、第一次世界大戦時には西ヨーロッパに居住した。

第一次世界大戦は、ロシアに共産主義の勝利をもたらした。1917年、二月革命によりロシア皇帝ニコライ2世が退位した時、レーニンはスイスにいた。半年後、レーニンはロシアに帰国し、10月革命を起こして政権を握った。

ロシアには古い伝統とあり余る人口、そして豊かな天然資源がある。世界最大の国であるソビエト政権の設立は、世界の共産主義運動を後押しすることになった。
第一次世界大戦はロシアの共産主義を台頭させ、第二次世界大戦はユーラシア大陸に共産主義運動を巻き起こし、中国を飲み込んだ。

スターリンは言った。「この戦争は過去の戦争とは違う。その領土を支配する者は、彼自身の社会制度をも押し付けるのだ」。第二次世界大戦後、ソビエトは核武装した超大国となって、共産主義を促進するために世界中の出来事を操り、かき回したのである。【32】

ウィンストン・チャーチルは言った。「最近、連合国の勝利が希望の明かりを灯したが、そこに影が覆いかぶさっている。ソビエト・ロシアやコミンテルンの組織が、近い将来に何をやるつもりなのか、また彼らの膨張的で人を変節させる特徴を考えると、彼らに限界があるのかさえ誰も分からない」【33】

冷戦時代、自由社会は4大陸に広がった共産主義陣営に必死で対抗した。それはまるで、太極拳のシンボルのように、半分が「冷たい」共産主義で、もう半分が熱い「共産主義」だった。自由社会を標榜する国家も、形式的には民主でありながら、徐々に社会主義的な色合いを帯びていったのである。

 

参考文献

[1] 伟大的时代——预言中的今天 http://www.pureinsight.org/node/1089.
[2] Karl Marx, Early Works of Karl Marx: Book of Verse (Marxists Internet Archive).
[3] Karl Marx, “Letter From Marx to His Father in Trier,” The First writings of Karl Marx (Marxists Internet Archive).
[4] Karl Marx, Early Works of Karl Marx: Book of Verse.
[5] Richard Wurmbrand, Marx & Satan (Westchester, Illinois: Crossway Books, 1986).
[6] Eric Voegelin, The Collected Works of Eric Voegelin, Vol. 26, History of Political Ideas, Vol. 8, Crisis and the Apocalypse of Man (Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1989).
[7] Karl Marx, Early Works of Karl Marx: Book of Verse.
[8] Robert Payne, Marx (New York: Simon and Schuster, 1968).
[9] Eric Voegelin, The Collected Works of Eric Voegelin, Vol. 26.
[10] Karl Marx, Early Works of Karl Marx: Book of Verse.
[11] Wurmbrand, Marx & Satan.
[12] 同上.
[13] Karl Marx, Early Works of Karl Marx: Book of Verse.
[14] Ludwig Feuerbach, The Essence of Christianity (1841).
[15] I. Bernard Cohen, Revolution in Science (The Belknap Press of Harvard University Press).
[16] 同上.
[17] Friedrich Engels, “On Authority,” Marx-Engels Reader (W. W. Norton and Co.).
[18] Anonymous, “Robespierre’s Epitaph.” https://www.rc.umd.edu/editions/warpoetry/1796/1796_2.html.
[19] The New Cambridge Modern History, Vol. IX (Cambridge: Cambridge University Press, 1965), 280–281.
[20] Miguel A. Faria Jr., The Economic Terror of the French Revolution, Hacienda Publishing.
[21] Gregory Fremont-Barnes, Encyclopedia of the Age of Political Revolutions and New Ideologies, 1760–1815 (Greenwood, 2007).
[22] William Henley Jervis, The Gallican Church and the Revolution (Kegan Paul, Trench, & Co.).
[23] W. Cleon Skousen, The Naked Communist (Izzard Ink Publishing).
[24] John M. Merriman, Massacre: The Life and Death of the Paris Commune (Basic Books).
[25] 同上.
[26] Louis Auguste Blanqui, “Speech Before the Society of the Friends of the People,” Selected Works of Louis-Auguste Blanqui.
[27] Karl Marx, The Civil War in France (Marxists Internet Archive).
[28] Zhang Deyi, The Third Diary of Chinese Diplomat Zhang Deyi [上海古籍出版社] . 
[29] Merriman, Massacre: The Life and Death of the Paris Commune.
[30] Vladimir Ilyich Lenin, “Frederick Engels,” Lenin Collected Works.
[31] Eric Hobsbawm, How to Change the World: Reflections on Marx and Marxism (New Haven & London: Yale University, 2011).
[32] Milovan Djilas, Conversations with Stalin, https://www.amindatplay.eu/2008/04/24/conversations-with-stalin/. 
[33] Winston Churchill, “The Sinews of Peace,” a speech (BBC Archive).

つづく 第三章 東側での大虐殺

 

悪魔が世界を統治している

目次

 

序章
第一章   人類を壊滅する邪悪の陰謀
第二章   始まりはヨーロッパ
第三章   東側での大虐殺
第四章   革命の輸出
第五章   西側への浸透(上)
第五章   西側への浸透(下)
第六章   神に対する反逆
第七章   家族の崩壊(上)
第七章   家族の崩壊(下)
第八章   共産主義が引き起こした政治の混乱(上)
第八章   共産主義が引き起こした政治の混乱(下)
第九章   共産主義がしかけた経済的な罠(上)
第九章   共産主義がしかけた経済的な罠(下)
第十章   法律を利用する邪悪
第十一章  芸術を冒涜する
第十二章  教育の破壊(上)
第十二章  教育の破壊(下)
第十三章  メディアを乗っ取る
第十四章  大衆文化―退廃と放縦
第十五章  テロリズムのルーツは共産主義
第十六章  環境主義の裏にいる共産主義(上)
第十六章  環境主義の裏にいる共産主義(下)
第十七章  グローバル化の中心は共産主義
第十八章  中国共産党のグローバルな野望(上)
第十八章  中国共産党のグローバルな野望(下)
おわりに