天安門広場で真実を伝える 命がけで中国渡航した西洋人たちの物語(上)

2022/04/11
更新: 2022/04/11
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2001年11月20日のことだ。見通しの悪いスモッグが続いていた北京にとっては珍しく快晴だった。日差しがまぶしく、空気も澄んでいた。大きなリュックを背負い、旅行ガイドを手に歩くカナダ人のジョエル・チプカー(Joel Chipkar)さん。不動産業に就く33歳で、黒いジャケットとカーキ色のパンツといった風貌は一般的な旅行客と特段変わらない。

足早に歩くその地面は、十数年前の天安門事件で、中国共産党の凶弾に倒れた学生の血で赤く染められた過去がある。広い歩道を行き交う人々。だがチプカーさんは気に掛けることなく、歩みを進めた。

集合場所はすぐに見つかった。広場に立てられた国旗の旗竿のすぐ脇に、西洋人が二、三十人集まっていた。ある者は立ち、またある者は座っていた。そして彼らに向けられる通行人の物珍しい目線。2000年代初頭の中国で、これほど多くの西洋人が一堂に集うのは滅多にないことだった。

チプカーさんは見覚えのある顔をいくつも認めた。しかしあいさつをしないほうが得策だろう。目立ちすぎると失敗する恐れがあった。

抑圧された高揚感が空気中を漂う。一団は整列し、天安門を背に記念撮影するポーズをとった。前列が座禅の姿勢を取ると、後列の3人は巨大な金色の横断幕を広げた。浮かび上がる「真・善・忍」の文字。中国で迫害を受けていた法輪功の核心的な教えだ。

警察官が駆け寄るのは時間の問題だった。

目の前で起きた一部始終を撮影するのが、チプカーさんの役目だった。

念入りな計画

これらは西洋人の法輪功学習者たちが白昼の天安門広場で行った迫害反対運動の記録の一部だ。当時、中国共産党による法輪功(法輪大法とも)への弾圧が始まってからすでに2年経っていた。中国国内の法輪功学習者は推定でおよそ7000万人から1億人。人数の多さから、中国共産党に敵視された。

迫害が始まる前の1990年代、中国各地の公園や広場では毎朝のように穏やかな動作で功法を煉る法輪功学習者の姿が見られた。しかし、突如始まった全国的な「政治運動」により、そのような光景は1999年7月以降見ることができなくなった。

迫害により多くの法輪功学習者が嫌がらせを受け、職場や学校から追い出される者も少なくなかった。信条を理由に拘留され、強制労働、拷問を受けた。法輪功関係の書籍は没収され、燃やされた。

2000年5月、中国・北京の天安門広場で法輪功学習者が迫害に抗議する模様と、取り押さえる警察官 (Photo credit should read STEPHEN SHAVER/AFP via Getty Images)

2001年、法輪功に対する迫害はさらにエスカレートする。中国共産党当局は法輪功に対する迫害を正当化するため、天安門焼身自殺事件を捏造し、国営のテレビ局や新聞社は一斉に喧伝を始めた。

激しさを増す中国共産党のプロパガンダとヘイト宣伝を見かねた法輪功学習者は次から次へと天安門広場に立ち、迫害を停止するよう訴えた。

海外の法輪功学習者はもどかしく思った。中国国内で残酷な迫害が行われるなか、なにか行動を起こさなければならないという思いが募っていく。

天安門広場に行き、迫害の停止を呼びかけようとする考えがまとまるのに1年以上かかった。経済学と中国語を専攻していたドイツ人学生のピーター・レクナガル(Peter Recknagel)さんは発起人の一人だった。同じような考えを持つ人々が他国にもいると知ったとき、計画はさらに大規模なものになった。

最終的に、北米と欧州、オセアニアの12か国から36人の法輪功学習者が集まった。その多くは互いに見ず知らずの関係であり、計画内容は限りなく単純化された。現地までは個別行動すること。午後2時までに天安門広場の旗竿のもとで待ち合わせること。目立たないようにすること。そして可能な限り現場に長く留まること。

念には念を入れた。中国共産党による盗聴の可能性を考慮して、計画は少人数で練られた。計画が察知されることの予防措置として、会話はほとんどスウェーデン語で交わされた。

米国出身のアダム・ライニング(Adam Leining)さんは企業の広告責任者だった。彼は横断幕をスーツカバーに入れて持ち運んだ。計画実行前夜、レクナガルさんと数人の仲間たちはホテルのカーテンを閉め切り、ディスコ音楽を大音量で流した。そしてリハーサルを行うため一人ずつ部屋に呼び、横断幕を広げて大きさを確認した。結果、最も背の高い3人が横断幕を持つことになった。

一同が天安門広場に集まるとき、ヨーロッパから来た2人が花束を持つことになった。お祝いの雰囲気を出し、時間を稼ぐためだ。

現在はニューヨークに住むレクナガルさんは当時を思い返し「合図を待ち、皆が一斉に座禅のポーズを取る段取りだった」と大紀元に語った。

「計画通りに進むよう、細心の注意を払わなければならなかった」。

一度きりのチャンス

チプカーさんは可能な限り慎重に物事を進めた。

ミニサイズのビデオカメラを購入し、ポケットベルのようなデバイスも準備した。カメラをリュックのストラップにねじ込み、撮影できるようレンズに合わせて小さな穴を開けた。それから4日間、毎日鏡の前に立ち、撮影の練習をした。ビデオテープは約2時間。慣れてくると歩きながらの撮影ができるようになった。

「起こりうることやうまくいかないことを並べ、対処法を考えた。チャンスは一度きりなのだ」とチプカーさんは語った。

アンナ・ハコサロさんは2001年1月、法輪功迫害について地元紙に語った(アンナ・ハコサロさん提供)

天安門広場へ行く計画がスウェーデン人のアンナ・ハコサロ(Anne Hakosalo)さんの耳に届いたとき、彼女は自問した。本当に行くべきかどうか。そして中国に入国できるのかどうか。

計画が持ち上がる2年前の1999年10月28日、約30人の中国人法輪功学習者が命の危険を冒して北京で記者会見を開いた。ロイター通信やAP通信、ニューヨークタイムズなどの大手国際メディアを前に、中国共産党の迫害について訴えた。当時、ハコサロさんも北京にいた。

法輪功学習者の大胆な行動に中国共産党政権は激怒し、苛烈な報復を行った。学習者の多くは重い刑罰を宣告され、なかには拷問を受け亡くなる者もいた。女性美容師の丁延さんもその一人だった。丁延さんは監獄のなかで裸にされ、木製のスパイクが付いた鉄製の檻に閉じ込められたまま汚水のなかに沈められるなどの拷問を受け、2001年8月にこの世を去った。

中国北東部の都市・大連で語学留学をしていたハコサロさんは1999年11月、中国南部の広州で開かれた法輪功の集会に出席した際に拘束された。

中国の警察は集会のことを知るやいなや、夜中の2時ごろにアパートを襲撃、ハコサロさんとその友人ら12人以上を連行した。尋問は夜通し続いた。頭を掴まれて壁に打ち付けられ、その場で意識を失った法輪功学習者もいた。

中共の警官は何時間もハコサロさんを尋問したが、手荒な真似はほとんどなかった。彼女はその日の午後に釈放された。中国人と対処が違うのは外国人市民だからなのかもしれない。

こうした経歴から、ハコサロさんは2001年に再び中国に入国できるか不安がだった。中国共産党のブラックリストに載っている可能性もあった。間際になって彼女は訪中を決心した。

意外にも事はうまく運んだ。約1週間後、ハコサロさんはビザを受け取り、航空券を予約した。

中国に行く運命だったのだ、と彼女は考えた。

「善良な人々が殺されているときにそれをただ見ているのか、それとも行動を起こして反対の声をあげるのか。私は選択しなければならなかった」とハコサロさんはスウェーデンのメディアに語った。「中国で起きていることを受け入れないのは私だけではない。世界中にも大勢いる。善良さを忘れてはいけないと思う」。

(下につづく)

文・Eva Fu/翻訳編集・王文亮