米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の中国担当首席記者、魏玲玲氏は、中国共産党(中共)が「トゥキディデスの罠」を繰り返し持ち出すのは、この概念が政治的に「非常に使い勝手がいい」ためだと指摘する。米国在住の中国系学者は、中共がこの言葉を好む背景には、中共と日米欧との政治体制の違いを覆い隠す狙いがあると分析している。
今年5月、北京を訪問したトランプ米大統領を習近平が迎えた際にも、習近平は「トゥキディデスの罠」に言及し、米中両国はこの「罠」を回避できるのかとトランプ氏に問いかけた。
「トゥキディデスの罠」は、ハーバード大学の政治学者グレアム・アリソン氏が提唱した概念である。台頭する新興大国と、既存の覇権国との対立が、最終的に戦争へと発展しやすいとする考え方だ。
魏氏によれば、北京がこの言葉を繰り返し用いるのは、政治的に「非常に有用」だからだという。
中共体制を長年研究してきたスタンフォード大学の中国系教授、許成鋼氏も、中共がこの概念を好む理由について、明快な分析を示している。それは、中共と日米欧との政治体制の違いを見えにくくする効果があるためだという。

「トゥキディデスの罠」という枠組みに立てば、米中対立は「台頭する大国」と「既存の大国」の競争という構図に置き換えられる。そこでは、両国がどのような政治制度を持つのかという問題が後景に退いてしまう。
許氏は2025年に出版した著書『制度の遺伝子(Institutional Genes)』で、中共がソ連型共産主義と中国前近代の伝統的な官僚制度を融合させ、改革を阻む全体主義体制を築き上げてきた過程を分析している。
その研究が示すのは、現在の中国を単なる「権威主義国家」と捉えるべきではないという点だ。許氏は、共産主義中国を「全体主義体制」と位置付けている。
一般的な権威主義国家では、統治が強権的であっても、政治から距離を置く限り、教会や寺院、非政府組織(NGO)など、政府から独立した組織が活動する余地は残されている。しかし、全体主義体制では事情が異なる。社会のあらゆる組織が政権の統制下に置かれるためだ。
許氏はWSJに対し、この違いを見落とすことは、米国の対中政策を誤ることにつながると指摘した。
共産主義中国を単なる「台頭する大国」と捉えれば、その対外的な拡張も、通常の大国間競争の一環とみなしてしまう。その結果、競争を管理し、勢力均衡を図り、双方の勢力圏を調整することで対応できるとの発想に陥りかねない。
「この枠組みを受け入れれば、西側は大きな代償を払うことになる。積極的に対外拡張を進める党国体制を、通常の競争相手として扱うことになるからだ」と許氏は指摘する。
さらに許氏は、現在の中国は文化大革命の延長線上にあり、依然「中国の特色ある全体主義体制」だと主張する。
習近平政権下では、人工知能(AI)をはじめとするハイテク技術や、統治に活用する先端技術に巨額の資源が投入されている。その一方で、中国国民の日常生活に対する監視や統制は、かつて以上に強まっている。
許氏は「使われる技術は新しくなったが、その根底にある政治的な論理は変わっていない」との見方を示している。
ハーバード大学で学んだ経済学者である許氏も、かつては中国経済の将来に大きな期待を寄せていた。
1990年代初頭には、世界銀行の顧問として上海市政府に国有企業改革について助言した。当時は多くの人々と同じように、市場経済の発展によって中共による社会への統制が緩む可能性があると考えていた。
中共政権が改革を進め、その先に民主化が実現することにも大きな期待を抱いていたという。
「確信していたわけではない。しかし、希望は持っていた」と許氏は振り返る。
しかし、習近平が2012年に権力を掌握すると、期待されていた民主化改革は実現しなかった。それどころか、中共指導部は次第に文化大革命期を思わせる統制強化の道を歩むようになった。
9月下旬、習近平はワシントンを再訪する予定だ。その際にも、習近平が「トゥキディデスの罠」を持ち出す可能性がある。
その言葉が示すのは、単なる米中間の大国間競争なのか。それとも、異なる政治体制の対立という、より根本的な問題なのか。米中関係をめぐる議論では、この違いをどう捉えるかが問われている。
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