パンデミックで奪われた市民の権利について ケネディ・ジュニア氏が語る(下)

2023/07/14
更新: 2023/07/12

今年3月、EPOCH TVのインタビュー番組「米国思想リーダー」にロバート・F・ケネディ・ジュニア氏が出演し、規制当局と製薬業界との根深い癒着の実態について語った。(日本語版の公開は5/5)

NPO団体「Children’s Health Defense」の創設者兼法律顧問であるケネディ・ジュニア氏は、小児用の予防接種のうちプラセボ対照群との比較試験が行われたワクチンは一つもないと指摘している。

また同氏によると、新型コロナのパンデミックを口実に、言論の自由や集会の自由など多くの市民の権利が奪われたという。さらには、暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の逸話を振り返りながら、民主主義が直面する危機について議論した。

(上)に引き続き、以下に番組内のインタビュー全文を掲載する。

ロバート・F・ケネディ・ジュニア:
私は以前、環境保護活動家として水銀汚染問題に取り組み、定期的に演説していました。当時、いつも集会の前列に座る女性たちがいました。知的障害を抱える子を持つ母親たちです。彼女らは子供の障害の原因はワクチンであると信じていました。

ヤン・エキレック:
ワクチンに含まれる水銀の事ですね。

ロバート・F・ケネディ・ジュニア:
ええ。ワクチンには水銀入りと、そうでないものがあります。主に不活化ワクチンには水銀が入っています。B型肝炎、DTP、ヒブワクチンなどにも水銀が入っていました。彼女たちは、それらのワクチンが子供の障害の原因であると信じていたのです。彼女たちは礼儀正しく、私を鼓舞するように言いました。「もし子どもの水銀曝露に関心があるなら、ワクチンを調べるべきよ」と。

最初は躊躇しました。公衆衛生の問題に首を突っ込みたくなかったのです。ご存じのように、私の家族は知的障害と公衆衛生の分野に深く関わっていたので、私は水の保護活動という別の道を選んだのです。その母親たちの一人、サラ・ブリッジスというミネソタ出身の心理学者が、2005年の夏にマサチューセッツ州ハイアニスにある私の小さな別荘を訪れました。

彼女はスーツケースから、科学研究の出版物を何冊も取り出しました。全部で25センチの厚さでした。それを玄関前のポーチに積み上げ、「あなたがこれを読むまで、私はここを離れない」と言ったのです。

彼女の息子は健康な子供でしたが、2歳の時に水銀入りのワクチンを接種し、深刻な後遺症が残りました。言葉も話せず、トイレの訓練もまだの頃です。当時、彼は16歳か17歳くらいでしたが、裁判所から2000万ドルを受け取っていました。裁判所は、彼の自閉症がワクチンに起因する事を認めていたのです。

当時は、まだ言論が弾圧される前です。彼女は、同じ事を繰り返してほしくなかったのです。ですから、私もそこに座って読みました。私は子供の頃から科学が好きで、将来は科学者か獣医になりたいと思っていたのです。私の専門は環境問題の訴訟ですから、科学文献を読むことも得意でした。何百件もの訴訟を引き受けましたが、そのほぼ全てに科学的な論争がありました。

私は科学文献が読めたし、批判的に読む方法も知っていました。私は、彼女が持参した研究文献の概要だけを読みましたが、その内容に愕然としました。公衆衛生当局がワクチンの安全性について言っている事と、実際に発表された査読済み研究が言っていることの間に、大きなギャップがあったからです。

それから1週間、私は保健省の高官たちに電話をかけ続けました。私の名前や家族、人脈が役立ちました。私の名付け親である叔父のテディ・ケネディは、上院で50年間にわたり、保健委員会を運営していました。彼は毎年予算を作成し、いくつかの機関を設立していたのです。

彼はアンソニー・ファウチやフランシス・コリンズ、その他すべての人を知っていました。叔父と父は、これらの機関を設立するための法案を書きました。NIHの中には、ユニス・シュライバー研究所やローズ・ケネディ研究所という、私の家族の名前を冠した研究所もあります。私は彼らに電話をかけ、私が読んだ研究内容について具体的に質問したのです。

その時私は、規制当局のトップたちは単に科学を知らないのだと分かりました。彼らは単に研究を読んでいないだけでした。何人かが私に嘘をつきましたが、私はその嘘を見破りました。不思議だったのは、フランシス・コリンズや医学研究所のキャスリーン・ストラットン、マリー・マコーミックたちが私の質問に答えず、「ポール・オフィットに電話してください」と言ったことです。

ポール・オフィットはメルク社のパートナーであるワクチン専門家です。私は驚きましたよ。例えば、もし私が環境保護庁(EPA)に電話して、「なぜこの規制を通したのか。理にかなっていないというのが私の科学的見解だ」と言えば、EPAは私の質問に答えてくれます。「石炭会社に聞いてくれ」とは言いません。しかし、衛生当局は違いました。彼らはワクチン・メーカー側に当たるよう言ってきたのです。

その時から、私はこの世界に飛び込みました。怒りを覚えたからです。私は規制当局のやり方を知っているし、「ワクチンが子供たちの脳にダメージを与えている」という科学文献を読んでいたからです。私は、何の説明も、言い訳もできない規制当局と話をしました。こうして私の道のりが始まったのです。

ヤン・エキレック:
ケネディ家で育つというのは、どのような感じでしょうか。

ロバート・F・ケネディ・ジュニア:
それは唐突な質問ですね。私は素晴らしい子供時代を過ごしました。私の子供時代については、『アメリカン・バリュー』という本に書いたことがあります。子供時代は刺激的でした。小さい頃から、この国で起こっていることに完全に関わっていたし、日々目にするものが、この国の歴史の一部であることを知っていたからです。両親は毎日、歴史や文学、価値観について話してくれました。私の家族は皆、自分たちの人生が、何か大きな論争に引き込まれる事を知っていましたが、その中で自分たちが、何か意味のある役割を果たすことができれば光栄だと感じていました。

ヤン・エキレック:
まさにそれが叶いましたね。

ロバート・F・ケネディ・ジュニア:
ええ。良くも悪くも。

ヤン・エキレック:
ロバート・F・ケネディ・ジュニアと何を話すべきかを、社内で話しあいました。米国にはもともと、国の責任者と国民との距離がそれほど離れていない社会契約がありました。両者は対話することができたのです。しかし最近では、私たちが期待していたよりもその距離がずっと開いているように見えます。

1960年代にあなたの叔父が暗殺されました。当時から米国の政府機関が関与していた可能性があることも分かってきています。我々は本当に民主主義の社会で生きているのかと言う人もいます。あなたの著書『The Real Anthony Fauci』の副題は、「民主主義に対する世界規模の戦争」ですね。今はどういう時代で、一体何が起こっているのか、あなたの考えを聞いてみたいと思います。私たちが気づいていなかっただけで、すでに当時から、何らかの変化が起こっていたのでしょうか?あるいは、今でも米国は世界中の人々が入国を熱望するような、自由と民主主義、そして明るい未来を象徴する国のままなのでしょうか?

ロバート・F・ケネディ・ジュニア:
叔父が亡くなった時に何かが変わったと思います。

1961年1月17日、この日は私の7歳の誕生日でしたが、アイゼンハワー大統領が恐らく米国史上最も重要な演説を行いました。国民に対するお別れのスピーチで、「我々は、政府の委員会等において、軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除せなばならない」と述べたのです。

その3日後、叔父の大統領就任式が行われました。私もそれに出席する予定でした。アイゼンハワーは、あの素晴らしい演説で、恒久的な戦争産業、つまり「軍産複合体」と、それと連携する連邦政府のテクノクラシーの出現に対して、米国に警告しました。彼は、もし我々がそれらを抑制しなければ、それらが米国の民主主義を支配し、米国の価値観や、米国にとって重要な全てを奪ってしまうということに言及していたのです。

叔父は、アイゼンハワーがこの時代の最も重要な問題を捉えていたことに気づきました。彼はピッグス湾侵攻の際にそれを悟ったのです。侵攻の最中、叔父はカーティス・ルメイ参謀長と、ライマン・レムニッツァー統合参謀長、そしてCIAのアラン・ダレス、チャールズ・キャベル、リチャード・ビッセルが侵攻について自分に嘘をついていたことに気づきました。大統領就任後2カ月半の間に、彼らは失敗する事が分かっていた侵攻を大統領に決断させるために一連の嘘をついたのです。

侵攻の失敗で、彼が恥をかくと思ったのです。彼は若い大統領だったからです。彼らの計画では、大統領は失敗の屈辱を回避するために、米海軍、特に空母エセックスを呼び寄せ、カストロ攻撃の航空支援を命じるだろうと予測していました。しかし、叔父はそれを拒否したのです。

その日の午後、彼は大統領執務室に立ったまま、側近の一人に言いました。”CIAを粉々にして風に散らしたい”と。それから数ヶ月の間に、彼はCIAのトップであるチャールズ・キャベル、リチャード・ビッセル、そして皮肉にも、後に暗殺事件を調査する「ウォーレン委員会」の委員となったアラン・ダレスを解雇しました。

叔父は大統領就任後3年間、米国を戦争に巻き込ませないようにするべく、軍産複合体や諜報機関と対立していました。戦争はビジネスですから、彼らは米国を戦争に巻き込みたいのです。叔父はラオスに戦闘部隊を送ることを拒否しました。既に、彼らは叔父を裏切り者だと考えていました。

叔父はロシアとの対立も拒否しました。ベルリン危機の時、彼はベルリンの壁から直接フルシチョフと連絡を取り、ロシア軍を撤退させました。また、彼はベトナムに戦闘部隊を送ることも拒否しました。政権のほぼ全員、更にはすべての統合参謀も、すべての情報機関、ディーン・アチソンのような上級官僚にも囲まれ、「ベトナムに25万~50万人の米兵を送る必要がある」と言われましたが、彼は拒否しました。

しかし、叔父は、「これは彼らの戦争だ。彼らを支援したり、訓練することはできるが、戦闘部隊を派遣するつもりはない 」と言いました。大統領の任期が終わるまでに、相当な圧力があったにも関わらず、彼は1万6千人の顧問を派遣しました。彼らは戦闘に加わることは許可されていませんでしたが、多くは違法に参戦しました。

1963年12月まで、彼が亡くなる直前ですが、国家安全保障命令を発布し、最初に1000人を帰国させました。1965年末までに、残りの15000人を帰国させました。この命令が彼の運命を決定づけたのかもしれません。

彼はある時、親友の一人であるワシントン・ポストの経営者、ベン・ブラッドリーに、自分の墓碑に何を書いてほしいかと聞かれ、「私は平和を守ってきた。米大統領の第一の仕事は国を戦争から守ることだ」と言ったのです。これはまさに、アイゼンハワー大統領の言葉です。叔父はそれを実行したのです。

叔父が亡くなると、すぐに海軍の情報機関がトンキン湾事件という偽旗を掲げ、それを口実に米国はベトナム戦争に介入しました。その直後、ジョンソン大統領が25万人の米兵をベトナムに送り込み、米国は戦争に突入しました。私の父は、戦争や軍産複合体についてジョンソン大統領と対立していました。その後、父は暗殺されました。

マーティン・ルーサー・キングも戦争に反対していました。キング牧師はベトナム戦争への介入に反対する他の公民権運動の指導者たちに囲まれていました。彼らは「これは公民権の問題ではない 」と言いました。キング牧師は、私の父や祖父が繰り返し言っていたことを言いました。「米国は、海外で帝国主義を実施するならば、国内で憲法に基づく民主主義を続けることはできない」と。海外では帝国主義、国内では民主主義、という訳にはいかないのです。

キング牧師は、ベトナム戦争を終わらせることを最優先にする事を主張しました。軍産複合体が国を動かしている限り、国内の司法制度は成り立たないからです。米国を警察国家、監視国家、国防国家にするための口実ができてしまいます。彼は私の父が暗殺される2カ月前に殺されました。

父が死んだとたん、ニクソンは参戦者を倍増させ、戦争を継続させました。ベトナムでの戦死者のほとんどは、ニクソン時代に亡くなりました。私の叔父が殺された時、ベトナムで亡くなった米国人は73人でしたが、彼は「これで終わりだ」と言ったのです。それは彼が死んだ時で、つまり国家安全保障令の後でした。

ベトナム戦争では5万3千人の米国人が亡くなりました。ベトナム人は数百万人、カンボジアも数百万人をこの紛争で失いました。父の死は転機となりました。米国では軍産複合体が力を強め、監視国家、国防国家としての性質が強まりました。

次に大きな変化が起きたのは、9.11の時です。冷戦が終結し、世界は平和を享受するはずでした。1992年に冷戦が終結したのですから、戦いをやめて、平和に暮らすはずだったのです。雨天には飛べないような、10億ドルもするステルス爆撃機の製造も中止するはずだったのです。

予算は学校や道路、警察、環境、そして空洞化した中産階級や、民主主義と制度の再建に使えるはずでした。しかし、翌年の1993年に、世界貿易センタービルの地下駐車場が爆破されました。それに続いて起こったのが9.11です。その後10年間に、米国は海外に888の軍事基地を持つようになりました。まさに帝国主義国家です。

そして、民主主義に対する最後のクーデターは、軍事・医療産業複合体とバイオセキュリティ・アジェンダによる「新型コロナ」です。これによって、権利章典で保障されていた市民の権利は奪われました。米国史上初めて、政府が言論を検閲し始めたのです。米国の建国の父たちは皆同じことを言いました。「表現の自由を修正第1条に規定するべきだ。なぜならば、その他の全ての権利は、これを根拠とするからである。もし政府が批判者を検閲し、沈黙させる権利を持つならば、政府はあらゆる残虐行為の免罪符を持つことになる」と言ったのです。

ところが、政府は権力を行使して反対意見を抑圧するようになりました。科学的な引用も、規制を設ける過程もなく、すべての教会を1年間も閉鎖したのです。公聴会もなく、環境影響評価書もありません。誰もが閲覧したり、異議を唱えるための論拠もなく、それは行われました。

彼らは、憲法修正第1条にある“集会の自由”を、「ソーシャル・ディスタンス」を口実に排除しました。更に彼らは、憲法修正第5条の財産権を奪いました。正当な手続きや補償もないまま、330万件の事業を閉鎖しました。これは全くの憲法違反です。また、陪審裁判を受ける権利を保障した修正第7条も奪いました。

それによって、ワクチンやマスク、PCR検査、その他の感染対策グッズを提供する何千もの企業に、どんな過失や怠慢があったとしても、訴えられないようにしたのです。憲法修正第7条にはこう規定されています。「いかなる米国人も、訴額が20ドルを超えるときは、陪審による裁判を受ける権利が保障されなければならない」と。パンデミックも例外ではありません。企業によって損害を被った人は、その企業を訴えることができるのです。しかし突然、それができなくなったのです。

ところで、憲法の起草者たちは、パンデミックのことをよく知っていました。独立戦争では2つのパンデミックがありました。1つはバージニアの軍隊を壊滅させたマラリアの流行で、もう一つは天然痘です。モントリオールで戦った時期に、ニューイングランドの軍隊が機能不全に陥りました。その天然痘の流行がなければ、ベネディクト・アーノルドの軍隊がモントリオールを占領し、今日のカナダは米国の一部になっていたでしょう。

革命の後、権利章典や合衆国憲法が成立するまでの間に、米国の都市部では疫病が流行り、何万人もの人が亡くなりました。天然痘や黄熱病、コレラなどが、すべての都市で発生したのです。にも関わらず、憲法の起草者たちは、疫病を特例とする事を憲法に入れなかったのです。私たちは、新型コロナよりも遥かに深刻な悲劇を経験していたのです。

南北戦争では、66万9000人が死亡しました。これは、現在の1000万人に相当します。国はほぼ壊滅状態に陥ったのです。にも関わらず、リンカーンが人身保護令状を停止しようとしたとき、最高裁は「それはできない」と言ったのです。

スペイン風邪の時は世界で5000万人が死亡しました。新型コロナより遥かに深刻でしたが、私たちは憲法を停止しなかったのです。それなのに、新型コロナでは突然憲法を停止しました。説明のつかない出来事です。

エポックタイムズのシニアエディター。EPOCH TVの番組「米国思想リーダー」のパーソナリティーを務める。アカデミア、メディア、国際人権活動など幅広いキャリアを持つ。2009年にエポックタイムズに入社してからは、ウェブサイトの編集長をはじめ、さまざまな役職を歴任。ホロコーストサヴァイバーを追ったドキュメンタリー作品『Finding Manny』 では、プロデューサーとしての受賞歴もある。
大紀元報道記者。東京を拠点に活動。