イスラエル・ハマス戦闘 12歳で故郷を逃れた当事者が見た分断の背後にある偽善と恐怖。

【独自】「7歳のとき、ユダヤ人を殺すよう教えられた」 亡命パレスチナ人が語るガザ地区の真実

2023/12/03
更新: 2023/12/06

「7歳のとき、ユダヤ人を殺すよう先生に教えられた」。ガザ地区のムスリム家庭に生まれ、12歳でイスラエルに亡命したドール・シャカール氏はエポックタイムズの独占インタビューに応じ、当事者の目線でパレスチナ問題の知られざる一面を語った。

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——幼少期のことについて伺いたい。

私は幼少期をガザ地区の都市ハーンユーニスで過ごした。小学校に入ってすぐ、アラビア文字の読み書きを習い始めた。およそ1カ月後、先生たちはユダヤ人を殺すよう教え始めた。

「ユダヤ人はお前たちの土地を奪っているから、ユダヤ人を殺さなければならない。奪われた土地を取り戻すために、最後の一滴の血を使い果たすまで戦うのだ」

奪い返すべき土地は、ヤッファやテルアビブ、エルサレムなどだ、と先生たちは教えた。

しかし、私はずっと前から、市場に買い付けに来るユダヤ人を知っていた。当時、インティファーダ(パレスチナ人による投石等の抵抗運動)はなかった。本当に静かだった。

学校では、ユダヤ人は3本の足を持っている、ユダヤ人は老若男女を問わず殺してしまう、と教えられた。ユダヤ人はかつてムスリムだったが、今では異教徒だと言われた。教室では、全ての生徒が「イスラム教の名において、神の名において、ムハンマドの名において、ユダヤ人を殺す」と言わなければならなかった。

私はそれを拒否した。クラスの生徒が「イトバ・エル・ヤフド(ユダヤ人を殺せ)」と口々に言っているのを聞いて、本当に気分が悪くなった。トイレに行って顔を洗いたいと先生に言った。ただその場を離れたかった。

しかし先生は私を平手打ちして、校長室に連れて行った。壁に向かって立っている間、先生は校長に何かをささやいた。すると校長はゴムのホースを取り出し、私の背中を叩いた。そして、父親に明日学校に来るよう要求した。

2002年8月15日、ヨルダン川西岸の町ナブルスで行われたサマーキャンプの最終日に、ケフィエを被り、自動小銃のレプリカを手にユダヤ人入植地を模擬攻撃するパレスチナの少年とその様子を見守る親たち (JAAFAR ASHTIYEH/AFP via Getty Images)

次の日、父親は校長と面談した。10分ほど話した後、父親は教室に入るや否や私を殴った。そして「ユダヤ人を殺すのだ。そうだよな!」と言った。

父親はイスラエルで27年間働いた。財を成し、衣服を買い、お土産も買った。そして、父親もユダヤ人を殺すことに賛同していた。

——あなたは12歳半だった1987年、父親とイスラエルに渡った。

はい。日曜日に出発して、翌週の木曜日に戻った。丸々一週間滞在し、木曜日にガザの自宅に帰った。

——その3カ月後、イスラエルに亡命した。

イスラエルで身を隠せる場所を見つけ、建設現場で夜間警備の仕事を始めた。

——誰もあなたの居場所を知らなかったのか?探そうとしたのか?

まさにそこが問題だ。親たちは全く気にしない。ガザ地区において、子どもには何の価値もない。子供が見つからないと発狂しそうになるユダヤ人の母親とは違うのだ。

イスラエル軍の攻撃でガザ地区の建物が破壊され、煙が上がる様子。2023年10月21日撮影 (ARIS MESSINIS/AFP via Getty Images)

——その後の経歴は。

家を出た後、私はまず警備の仕事を始め、後に建設業に何年も携わった。働いていたのは、建築の最終段階にある別荘地だった。

ある日、1人のユダヤ人がやって来た。挨拶を交わすと、父親はどこにいるのかと聞かれた。私は、父親はいないと答えた。すると彼は家に帰り、熱いスープや食べ物、洋服、ゲーム機、ステレオ機材、そして有名なイスラエル人歌手のカセットテープを持ってきてくれた。私は彼と友達になった。

イスラエル国境のナハル・オズ検問所付近を歩くパレスチナ人の少年。2015年5月15日撮影 (MOHAMMED ABED/AFP via Getty Images)

ユダヤ教の記念日「ペサハ(過越祭)」の2週間前、彼は私が働く別荘地に引っ越してきた。 彼は私を過越祭に招待してくれたが、私にはそれがどのような祝祭日なのか見当もつかなかった。彼は、ユダヤ人はエジプトで400年間奴隷として過ごし、その後40年間荒野を彷徨った後、神の奇跡によって海を渡ることができたと語った。イスラエル人を追撃していたファラオの軍隊は皆、海に飲み込まれたという。彼はイスラエル人を「選ばれた民族」だと言った。

それを聞いて、私はヘブライ語がわからなかったにも関わらず、ヘブライ語で「私はユダヤ人になりたい」と言った。彼には信じがたいことだったようで、「どうなりたいのか」と聞いた。私は同じ言葉を繰り返した。彼は「違う、違う。ユダヤ人はユダヤ人で、アラブ人はアラブ人だ。宗教を変えることはできない。それは世界を創造した神の意思に反する」と言った。

私は納得せず、近所の住民に聞いてみた。すると「そうだ、ユダヤ人になれるよ」と言われた。私は彼のところに戻り、「ユダヤ人になれるではないか。近所の人がそう言ったのだ」と伝えた。彼は「では、ラビ(ユダヤ教の聖職者)に相談してみよう。すべてうまくいくはずだ」と言った。

——ユダヤ教への改宗を決意し、アビオル・ハイ師のもとへ?

当時、私は16歳だった。アビオル・ハイ師は「わかった、改宗してあげよう。そのためには、ハーンユーニスにいる家族から改宗に同意する手紙をもらわなければならない」と言った。もし家族に連絡したらただ殺されるだけだということを伝えると、18歳になるまで待つように言われた。

私が17歳のとき、ガザ地区出身のパレスチナ人がバット・ヤム(イスラエルの都市)の少女を殺害した。その後、ヤッファとバット・ヤムではユダヤ人とアラブ人の間で混乱が起きた。

当時は許可証がなく、自由に出入国できた。しかし、少女の殺害を受けて状況が一変、イスラエル政府は就労許可を40歳以上のパレスチナ人にのみ与えることを決定した。40歳以下は入国禁止となった。つまり、私は不法滞在者となったのだ。

エルサレムで発生したパレスチナ人自爆テロ現場から負傷した女性を避難させるイスラエル救急隊員。2001年8月9日撮影 (Getty Images)

——その後どうなったのか?

警察から逃げ回る日々を過ごした。18歳になったとき、私たちはラマット・ガンのアビオル・ハイ師に会いに行った。しかし「新しい法律ができたため、国の承認が必要なのだ。40歳以上しか対象としていないため、あなたにしてあげられることは何もない」と言われた。

19歳の時、私は警察に出頭し、合法的な在留資格を持っていないと伝えた。そのまま逮捕され、裁判にかけられた。法廷では、私は7年間イスラエルに滞在し、改宗したいと言った。養父は、近所の人たちが私を知っていて、私が本当に改宗を望んでいることを示すために、250人分の署名を持ってきてくれた。しかし、裁判官は取り合わなかった。私は45日間の禁固刑と10カ月の条件付き釈放を言い渡された。

審理の間、私は他のパレスチナ人とともに拘束され、足を互いに縛られた。彼らは私の耳元で「待っておけ。タダで済まないから」とささやいた。

私は彼らが何をしでかすか知っていた。彼らの目的はただ一つ、ユダヤ人を殺すことだ。私は他の囚人たちと一緒にベエル・シェバ(イスラエルの都市)の刑務所に連れて行かれた。私がユダヤ人になりたがっていると聞いて、他の囚人たちから激しい暴行を加えられた。刑務官は私を引き離し、ユダヤ人のいる監獄に連れて行った。刑務所から出ると、私はガザに強制送還された。

私はエレズ検問所でパレスチナの治安当局に引き渡された。私を「出迎えた」のは、第1次・第2次インティファーダに加担したファタハ、PLO(パレスチナ解放機構)の者たちだった。

——どのような境遇だったのか?

この7年間、イスラエルで何をしていたのかと尋問された。私は 「仕事と警備をしていた 」と答えた。彼らは 「他にはないのか」と聞いた。「それだけだ。それしか覚えていない」と答えた。

私は本当に何も覚えていなかった。誰かに記憶を吸い取られたような感覚だった。私が拷問を受けている間、本当に何も思い出せなかった。今振り返れば、本当に幸いなことだった。

ガザ市内で、イスラエル軍のスパイとして告発されたパレスチナ人男性を引きずるイスラム聖戦運動のテロリスト。2006年11月5日撮影 (MOHAMMED ABED/AFP via Getty Images)

私は足を天井に縛り付けられ、逆さ吊りにされた。冷水、熱湯、電気ショックによる拷問を受け、手を切りつけられた。そして階段で殴打され、足で蹴られた。約半年間、毎日同じことの繰り返しだった。

尋問官は板を持ってきて私の喉の真ん中に当てて、壁に押し付けた。私が窒息し、気を失うと、手を緩めた。意識を取り戻すと、また同じことが繰り返された。それが何度も何度も続いた。

半年後のこと。彼らは、私がイスラエルの法廷でユダヤ人になりたいと言ったのを聞いたことがある、と言った。その瞬間、全ての記憶が蘇った。もし記憶が残っていたら、白状していたに違いない。そうすれば死刑に処されていたことだろう。全能の神が私の記憶を一時的に消去してくれたに違いない。今ではそう信じている。

私は尋問官に「いいえ、私はパレスチナ人だ。誇りに思っている」と言った。私は嘘をついたのだ。そして、彼らは私をハーンユーニスの実家に軟禁することに決めた。

ドール・シャカール氏はイスラエル人になるために何年もの時間をかけ、その間、ガザで拷問を受け、投獄された。 (Alex Gurevich/Epoch Magazine Israel)

——およそ7年ぶりに家族に会ったのか。

そうだ。家族は私に「お前は一族の名誉を傷つけた。一族を敬うなら、とっくにユダヤ人を何人か殺しているはずだ」と言った。

私はもう家族の一員ではないと言われた。家族が私を受け入れたのは、パレスチナ警察を尊敬していたためだった。彼らは私に屋上で寝るよう要求した。その間、誰とも話さなかった。私は1カ月もの間、屋根の上にいた。

——母親もそのような態度だったのか。それとも父親だけなのか?

女性が口出しできる問題ではなかったし、そもそも女性がそのような話をすること自体禁じられていた。

——つまり、母親は見ているだけで、何も言わなかったということか。

何も。母親は何も言ってこなかった。1カ月後には家を追い出された。私はハーン・ユーニスの路上でホームレスになった。パレスチナ警察に遭遇すれば殴られた。しばらくして、ガザの建設現場で働き始めた。お金を貯めて、イスラエルに逃げ帰った。

イスラエル北部のメロン山にあるラビ・シモン・バル・ヨーチャイの墓に集まる超正統派ユダヤ教徒。2022年10月16日撮影 (JALAA MAREY/AFP via Getty Images)

しかし2カ月後、私はまたもや不法滞在で逮捕され、裁判にかけられた。私は裁判官に自分の人生について全て話した。それを聞いた裁判官は私を釈放する判決を下した。養父が保釈金を支払ったのだ。

それ以来、国から改宗の許可を得るまでに7年かかった。7年後、私たちは最高裁判所に申し立てを行い、最高裁は私の要求を受け入れた。私は安息日を守り、戒律を守る宗教的なユダヤ人となった。徴兵もされた。

あるテレビ番組のインタビューで、「イスラエル人入植者を避難させるために派遣されたら、あなたはどうするか?」と聞かれた。私は、軍に入隊するのは国と国民を守るためであり、イスラエルの入植者やシナゴーグを避難させたり、女性や子どもを家から追い出したりはしないと答えた。なぜなら、間違っているからだ。その後、軍から電話がかかってきて、私は兵役を免除されることとなった。

——あなたのような人はほかにいるのか?

どこにいるのだろうか?ユダヤ人は記憶が浅い。およそ150年前、イスラエルが建国する前、パレスチナ人はユダヤ人を殺し、女性をレイプした。その後、彼らはファタハ、PLO、タンジム、そしてイスラム聖戦のような組織を作った。彼らはどうだ?なぜハマスの話ばかりするのだろうか?名前が違うだけで、皆ハマスと同じようなものだ。皆ユダヤ人を殺している。

ハマスがいなくなれば、イスラム聖戦が頭角を現す。イスラム聖戦を排除すれば、別の組織が台頭する。これらの派閥はその名前が何であれ、1つの共通の目標を持っている。私たち、ユダヤ人だ。彼らは右と左の区別がつかない。そもそも気にもしていない。

ガザ地区のハーン・ユーニスで行われたハマス19周年記念集会で行進するハマスの覆面テロリストたち。2006年12月14日撮影 (SAID KHATIB/AFP via Getty Images)

——なぜガザ地区を離れたいパレスチナ人が大勢いるのに、ハマスはそれを許さないのか?皆、ユダヤ人を殺すという目的を抱いているのか?

誤解を避けるために言っておくが、私たちが目にしているのは、イスラム教とユダヤ教の宗教戦争だ。ムハンマドを信じなければ異教徒とみなされる。異教徒への罰は死だ。私たちは彼らのやり方を見てきた。今回、彼らはオファキムとスデロット(イスラエルの都市)を攻撃した。このまま行けば、テルアビブに攻め込むのに10年もかからないだろう。

——もし明日、ハマスが一掃されるとする。ガザに残る市民は誰か?

イスラム聖戦だ。名前は違うが、目的は同じだ。

——解決策はあるのか?

すべての人と決着をつけることが解決策というわけではない。私たちはこの問題を解決しなければならない。そうしなければ、またノアの箱舟を作らなければならなくなるだろう。なぜなら、人間としてどう振る舞うかわからない者を、神は消し去ってしまうからだ

イスラエルでは、10月7日の出来事のように誰かが死ぬと、国全体が喪に服す。誰もが泣き、誰もが同じ痛みを感じる。

しかし、壁の向こう側にいる人たちはそうではない。彼らは「私の息子は刑務所にいる。彼は英雄だ」と考える。

この違いがお分かりだろうか?

*取材は可読性を期するため、一部修正を加えております。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
イスラエル・テルアビブ駐在のエポックタイムズ記者。