2012年11月、習近平は中国共産党第18回党大会期間に登場し権力を握り、、中国共産党中央委員会総書記および中央軍事委員会主席となった。
5年後の第19回党大会では、習近平の地位は確固たるものとなり、鄧小平の多くの政策を徐々に弱め始めた。
中国共産党は「習近平思想」を強調し、「改革開放」路線の鄧小平政策を薄めていった。これは俗に「去鄧抬習」(鄧小平を排し習近平を持ち上げる)と呼ばれている。
一部の分析では、習近平は鄧小平に「復讐」しているとも指摘されている。この2人の家族にはどのような因縁があるのだろうか。
鄧小平による習仲勲への仕打ち
習近平の父・習仲勲(しゅう ちゅうくん・中共の元老)は、鄧小平と確執があった。習近平は、父が過去に粛清されたのは鄧小平の策略によるものだと考えている。
この因縁は1930年代にさかのぼる。
1934年、蒋介石率いる国民軍の包囲を受けた紅軍(中国共産党軍)は北へ逃亡(いわゆる「長征」)し、毛沢東は劉志丹の陕西省北部(陝北)の根拠地に身を寄せた。習仲勲は劉志丹や高崗とともに陝北の指導者だった。
中共が政権を握った後、高崗・習仲勲・鄧小平らは北京の中央政府で要職に就いた。
その後1954年、鄧小平は毛沢東に高崗が「二心あり」と密告した。
その結果、高崗は「反党分子」とされ後に自殺した。高崗の家族を世話していた習仲勲も連座させられ、中央会議で何度も自己批判を強いられた。その際、習仲勲を許さなかったのが鄧小平だった。
1962年、習仲勲は国務院副総理兼秘書長だったが、小説『劉志丹』で高崗の判決を覆すとされ、「反党集団の首謀者」とみなされた。毛沢東は康生を責任者とする特別委員会を設置し、習仲勲らの問題を調査した。
それ以来、習仲勲は16年にわたり厳しい迫害と監禁を受けた。当時、中央書記処総書記だった鄧小平は、毛沢東による習仲勲粛清の重要な協力者であった。
日本の筑波大学名誉教授・遠藤誉氏の著書『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐 裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史』でも、習仲勲打倒の黒幕は鄧小平だったと指摘している。
鄧小平による「左遷」
自由アジア放送のコラムニスト・高新氏の文章によれば、文化大革命後、葉剣英・華国鋒・胡耀邦らは習仲勲の名誉回復を支持したが、鄧小平と陳雲が高崗再評価に抵抗し、習仲勲の名誉回復通知は1980年まで発出されなかった。
1978年4月、習仲勲は復権を果たしたものの、北京に戻ることは許されず、副総理の職にも復帰できなかった。
1990年10月、中国共産党第7期全国人民代表大会常務委員会の会議が開かれていた期間中、習仲勲は最後の討論会に出席し終える前に、「中央の承認を得て南方で療養する」という名目で、広東省に降格され、事実上、政界の第一線から退かされた。
その背景には、1987年の党大会準備会議で、習仲勲と胡耀邦が鄧小平の引退を主張したことがある。習仲勲は「人治から法治への移行」「法の下の平等」を主張し、鄧小平に退陣を促した。
これに激怒した鄧小平は、翌日には習仲勲を南方へ送り、胡耀邦もまもなく辞任に追い込まれた。こうして習家と鄧家の対立は決定的となった。
鄧家への「報復」
2012年、中国共産党の第18回全国代表大会(十八大)において、江沢民派と胡錦濤派の妥協の結果、習近平が中国共産党の新たな党首となった。
父の迫害時に連座した習近平は、当然、鄧家に良い印象を持っていなかった。
習・鄧両家の対立が表面化したのは、鄧小平の外孫娘・鄧卓芮の夫であり、安邦グループ創業者の呉小暉氏が摘発された事件だった。
呉小暉氏は2015年の「金融クーデター」への関与や海外での巨額買収で習近平を怒らせ、2018年に詐欺罪などで18年の実刑判決、資産没収となった。
ラジオ・フリー・アジアのコラムニスト、高新氏によると、習近平は呉暁輝が習家を怒らせたため逮捕したという。
呉小暉氏は浙江出身の実業家で、中共元老の陳毅の三男・陳小魯によって、当時 浙江省党委書記を務めていた習近平に紹介された。
習近平の義兄(姉の夫)である鄧家貴は、北京などで不動産業を展開しており、呉小暉の不動産会社と提携を考えていたが、呉小暉は鄧家貴に目もくれず、あっさりと鄧小平一族との関係を選んだ。
習近平はこれで溜飲を下げたとも言われている。
鄧卓芮は呉小暉と離婚したが、鄧家は大きな打撃を受けた。鄧家の初孫だった鄧卓芮は鄧小平から溺愛されていたが、鄧卓芮はこの結婚で深く傷つき、重度の鬱病に苦しんだと言われている。
鄧樸方の失脚
習近平は、習家の「第二世代」の当主として、鄧家の第二世代の当主・鄧樸方(とう ぼくほう)と深い対立関係にある。両者の矛盾の本質は、「習近平思想」と「鄧小平理論」の政治的地位を巡る争いに他ならない。
鄧小平が残した最大の政治的遺産は、中国共産党が今も掲げる「改革開放」政策である。文化大革命の終結後、中国共産党政権は深刻な危機に直面し、鄧小平は共産体制を維持しつつ資本主義の市場経済を取り入れようと改革に踏み切った。さらに、「韜光養晦(力を蓄えて表に出さず、西側と対立せず内政と経済に専念する)」という戦略を打ち出した。
しかし習近平が権力を掌握した後は、「習一尊(習近平が唯一無二の核心)」という体制を築き、鄧小平の改革開放路線を次第に弱め、「韜光養晦」戦略も否定。代わって「大国外交」「大国の責任」「東昇西降(東が昇り、西が衰える)」といったスローガンを掲げ、「一帯一路」構想のもとで巨額の資金を海外に投入し、中国共産党の影響力を世界規模で拡大しようとした。
また、習近平は鄧小平が香港に対して約束した「一国二制度」も形骸化させ、中米関係を悪化させた。その結果、外国資本の大量流出を招き、米欧諸国からはハイテク分野での制裁や包囲網を受けることになった。
鄧小平が残したもう一つの重要な遺産である「指導者の任期制限(終身制の否定)」も、習近平によって覆された。2018年3月、全国人民代表大会(全人代)は憲法改正を可決し、国家主席の任期制限を撤廃。これにより、習近平が無期限で国家のトップにとどまる道が開かれた。
こうした習近平のやり方は、多くの「紅二代(革命幹部の子息たち)」の反感を買い、鄧家の第二世代の当主である鄧樸方も強い不満を抱いていた。
2018年9月、中国障害者連合会の第7回全国大会の閉幕式で、鄧樸方は講演を行い、全編を通じて「鄧小平理論を指導原則」と強調し、「習近平思想」には一切触れなかった。彼は「後戻りせず、百年変わらず」「冷静な頭で自分の立場をわきまえ、思い上がらず、卑下もしないように」と語り、明らかに習近平への当てつけともとれる発言を行った。
この講演は発表直後から、国内外で大きな波紋を呼んだ。
それから5年後、習近平はついに「復讐」の機会を手にした。
2023年9月、北京で行われた中国身体障害者連合会の改選大会において、名誉主席だった鄧樸方は退任させられ、後任には中共国家監察委員会の前主任で、習近平の上海時代の側近・楊曉渡が任命された。また、会長の張海迪も、副主席だった陳凱に交代させられた。
鄧樸方は79歳。文化大革命中の迫害により下半身不随となったが、文革終結後の1988年に中国身体障害者連合会を設立。以来、同会の主席として、長年「正部級」(大臣級)待遇を受けてきた。
彼の後任となった楊曉渡は、習近平が上海にいた時の古くからの部下である。これは明らかに習近平による異例の人事であり、さらに楊曉渡が「反腐敗」分野での経歴を持つことから、その特異性が外部の注目や憶測を呼んでいる。
「父の功績争い」
鄧小平は「改革開放の総設計者」として中国共産党により称賛されている。しかし、習近平にとって、深セン経済特区の真の立役者は自分の父・習仲勲であり、鄧小平ではないと考えている。
1978年、習仲勲が名誉回復(平反)を受けて政界に復帰した後、広東省党書記として赴任した。彼は当時、「逃港潮(香港への大量脱出)」が深刻化していた深センや珠海などの地域を視察し、広東への権限移譲、特に経済特区の設置を提案した。
習仲勲はその考えを鄧小平に報告し、鄧はそれに同意した。こうして1979年、広東省は習仲勲の提案に基づき、3つの経済特区を設置することとなった。さらに、習仲勲は当時の宝安県の地名を「深圳(しんせん)」と改めることも決定した。
1984年、鄧小平は初めて深圳経済特区を視察し、経済の急成長を目の当たりにすると、このモデルを沿海各都市へと拡大していった。
1992年、鄧小平は再び深圳を訪れ、「南巡講話」と呼ばれる演説を行い、「六四天安門事件」によって停滞していた改革開放路線の再始動を宣言した。
しかし、習近平は、深圳があたかも「鄧小平が一筆で描いた円(=経済特区)」で始まったかのように語られることに不満を抱いていた。こうした言説が、父・習仲勲の貢献を覆い隠していると感じていたのである。
2018年12月、中国共産党が改革開放40周年を記念して各地で関連行事を開催する中、深センの「蛇口改革開放博物館」における変化が外部から注目された。
同博物館の入り口に設置されていた、鄧小平の初回「南巡」を再現した群像彫刻が撤去され、代わりに習近平の発言を並べた「金句の壁」が設置されたのである。
この年(2018年)、北京の中国国家美術館で開催された「改革開放を記念する展覧会」では、習近平の父・習仲勲が地図の前で円を描きながら深圳経済特区を紹介する様子を描いた油絵が展示された。
絵の中では、鄧小平らはあくまで脇役として、習仲勲の話を静かに聞いている構図になっている。
だが、ふと思う。もし将来、鄧小平派の人間が習近平に代わって政権を握ったら、この絵は再び描き直されるのだろうか?
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