今日は8月31日、いよいよ夏休み最終日となった。子供がいる家庭では、宿題が片付いているかどうか焦りを感じる頃かもしれない。「ぎりぎりでやるタイプ」と言えば聞こえはいいが、実際は宿題を後回しにして遊んでばかりというケースも多い。最終日になり、子供が「ギャーッ」と叫びながら机に向かう姿を目にすることもあるかもしれないが、これは憐れむまでもなく、完全に自業自得だ。
さて、ここで思い出すのは、中国のSNSで見かけたどこかの飲食店の閉ざされたシャッターに貼られていた「臨時休業」を知らせる手書きの張り紙である。そこにはこう書かれていた――「大ピンチ! 息子の夏休みの宿題が終わっていないから本日休業!」。日本では笑い話になるこんな光景も、中国・武漢では同じ宿題でも、この宿題をめぐり、命を絶つという痛ましい事件が起きている。
近年では経済難や失業が社会を覆っているが、そうでなくても中国の受験プレッシャーは底知れず苛烈だというのは昔からのことであり、ここまでは広く知られている話である。

だが本当に深刻なのは、教育の場が学びの場から、次第に思想を一方的に植えつける洗脳の場へと変わってしまったことである。その結果、子供たちは自分の考えを持てず、ただ言われた通りに従うだけのマシーンのような存在になってしまっているのだ。
結果として、子供たちは「何のために生きるのか」を見失い、ただ良い点数を取り、良い大学に入り、良い会社に入ってより多くのお金を稼ぐためだと繰り返し刷り込まれる。そして本来の学びや成長とは無縁に、したくもない大量の宿題を毎日課され、押しつぶされそうな重圧の中で過ごしている。そうして、心のケアが置き去りにされたまま、子供たちは空虚な競争に駆り立てられているのである。

そして武漢で起きた悲劇
この夏、湖北省武漢市では小中学生の自殺が相次いだため、当局は学校に対し、保護者対象に「自殺防止」を目的とする緊急会議の開催を命じた。ある学校は「飛び降り防止」を掲げて心理的ケアを行うと説明したが、別の学校では言葉を濁し、「教師は宿題を強制しない」「保護者も宿題のことで叱らないで」と繰り返し、子供に落ち着いて新学期を迎えるよう促した。
こうした一斉の保護者会開催の背景には、夏休みの宿題を終えられず、重圧の中でそろって飛び降り自殺した市内の双子の中学生の事件があるとされている。また「最近の武漢では、学生が飛び降りたり川に身を投げたりする事例があまりに多い」と、現地から深刻さを訴える声も多く上がっている。

武漢市での由々しき事態が海外のソーシャルメディアに広がると、多くのユーザーが中国共産党の教育体制を痛烈に批判した。「心理的ケアが必要なのはむしろ共産党だ。この歪んだ政権、異常な体制、奇形の教育制度が子供を追い詰めている。宿題を終えられなかっただけで、ここまで重圧を背負わす国など他にあるのか」「教師すら追い詰められて飛び降りたいほどの社会で、大人たちが子供の自殺を防ごうとしているのは滑稽だ」といった声が相次いだ。
国内外からの批判を受け、武漢市公安当局は8月28日、「双子の飛び降りはデマであり、拡散した市民(女、35歳)を処分した」と発表した。しかし中国当局の「デマ否定」は常に信憑性に乏しく、かえって「否定するほど真実味が増す」と受け止める市民も少なくない。
結局、双子の自殺は事実であり、それが当局批判の世論を呼び起こしたのだとすれば、情報統制の下で真相を知ることは極めて困難だ。だが確かなのは、教育とは本来、子供の未来を切り拓くものであるはずなのに、今の中国では宿題ひとつが命を奪う重荷となっているという現実である。

教育に救われるはずの子供が、教育に追い詰められ、嘆きが積み重なっていく。だからこそ富裕層は中国を脱出する。海外へ渡った多くの華人は口をそろえて言う。「子供を中国の環境で育てたくない。あの教育は変異してしまった」と。しかし、お金のない庶民には逃げ道がない。
印象的な言葉がある。人権運動家の子供が連帯責任を負わされ、入学を拒否されたとき、あるネットユーザーがこうコメントしたのだ――「学校に行けないなら家で教育すればいい。両親の血の通った教育は、学校で教えられる嘘よりもはるかに子供にとって良い教育だ」。
だが現実には、庶民は逃れられない。今の中国では、子供は中国語で「軟肋(弱点)」と呼ばれ、つまりは当局にとって親を支配するための人質なのである。だからこそ「子を持たないことこそ勝ち組」という皮肉な言葉が広く流布するほど、社会は窒息している。次の世代をこれ以上毒された環境で育てさせないために、親世代はいずれ立ち上がるのだろうか。


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