「玄関先で電話のベルがずっと鳴り響いているのが聞こえた」
帰宅したばかりの周玉玲さんは急いでドアを開け、部屋に駆け込んで受話器を取った。相手の焦った声が耳に届いた。
「ああ、やっと出てくれたか。府右街の現場にいる学習者に連絡をつけて、すぐに撤収するよう伝えられないか。総参作戦部がたった今作戦会議を終えたところで、請願中の学習者を鎮圧する配備を決めた。今夜零時に動き出す計画だ……」
「学習者が深夜零時までに離れなければ、第二の『六四(天安門)事件』が起きる」
相手は急き込むように周さんに告げた。
「部隊は発砲して鎮圧する可能性がある」
これは1999年4月25日午後10時ごろのことだった。周さんは中国共産党の最高権力中枢である中南海の近くから帰宅したばかりだった。この日、周さんはほかの法輪功学習者とともに、中共中央弁公庁と国務院弁公庁の信訪局が置かれる府右街と西安門大街で請願を行っていた。これが当時、内外に衝撃を与えた4・25の1万人平和大請願である。
「電話の向こうは総参に勤務する法輪功学習者で、この学習者の親族が総参一部(中共軍総参謀部作戦部)で働いていた」と周さんは本紙に語った。
「帰宅する前、この学習者は私に何度も電話をかけていたようだった。開口一番『ようやく電話に出てくれた』と、居ても立ってもいられない様子で、もし我々が離れなければ結果は本当に想像もつかないものになる」
「総参作戦部が鎮圧のために作戦会議を開いたなら、発砲しないわけがない」と周さんは述べた。「それは虐殺だ」
周さんは「私は、ちょうど現場から戻ったばかりで、事はすでに円満に解決し、学習者は撤収しており、零時までには全員が離れているはずだ、と相手に伝えた。するとこの学習者はようやく安堵のため息をつき、『それならよかった、それならよかった』と繰り返した」と語った。
周さんは当時、北京の上地情報産業基地に住んでおり、上地から遠くないこの一帯には中共軍の重要機関が少なくない。
「それらの機関の中には法輪功を修煉する人が多く、国防大学、総参一部、総参三部、総参幹部休養所などにはいずれも法輪功の煉功場があった。国防大学の中の煉功地点は一つにとどまらなかった」と周さんは記者に述べた。
「私はそれらの機関の学習者とはみな親しく、ほぼ毎週末、一緒に学法、煉功を行い、修煉の体験を語り合っていた」


人生にもはや疑問はなく、心身ともに健康に
武漢大学の大学院を修了した周さんは、1999年当時、北京の中国国家図書館の定期刊行物部門で編集の仕事に就いていた。当時30歳を少し過ぎたばかりで、すでに副教授(副編審)となっており、生活も仕事も順風満帆だった。しかし、心のどこかで自分の人生には大きな欠落があると感じていたが、何が欠けているのかは分からず、ただ模索を続けていた。北京図書館の19階の書庫で手広く書物に目を通し、人はなぜ生きるのかという人生の問いの答えを探したが、答えは見つからなかった。そんなある日、友人宅で法輪功創始者・李洪志氏の著書『中国法輪功』を目にした。
「少しめくって師父(李洪志氏)の写真を見たら、どこか見覚えがある気がした。友人はこの本を手に入れたばかりでまだ読んでおらず、持ち帰らせないと言った。私は深く考えもせず、二の句もなく、帰るときにこの本を奪い取るように持ち帰った。自分でもこの感覚が不思議だった」
その夜、周さんは『中国法輪功』を読み終え、枕元に置いた。すると、その晩はこれまでにないほど熟睡でき、長年味わえなかった深い眠りを得たという。大学2年生の頃から、周さんは不眠に悩まされ続けていた。
翌日、周さんは友人に自分の体験を語り、不思議そうに尋ねた。
「この本には何かエネルギーがあるのでは?」その後、周さんは北京の紫竹院の煉功地点で法輪功修煉の道を歩み始めた。
人はなぜ生きるのかという問いにずっととらわれてきた周さんは、法輪功の修煉を通じて人がなぜ存在するのかを理解した。人生にもはや疑問がなくなり、心身が「このうえなく落ち着いた」状態になったといい、仕事にもいっそう真剣に取り組むようになり、個人的な利害の前で争わず競わなくなった。
「法輪功を修煉する前は、とても落ち着かない人間だった。仕事を変えようかと思えば、今度は深センに行こう、海南に行こう、国外に出ようか、別のことをしようか、と次々と考えた。修煉後は、もう振り回されなくなった。どこにいても人生は同じだと感じ、心はとても穏やかで、非常に静かだった。人生にもはや疑問がなくなっていたからだ」
修煉後、周さんの長年の不眠と頭痛は完全に消え、身体が健康になると同時に、心性も向上した。
職場の職位評価があった際、皆は激しく争奪戦を繰り広げた。評価を担当する責任者は、周さんが何か必要があれば連絡できるようにと、自分の電話番号を渡そうとしたが、周さんは受け取らなかった。後にこの責任者は周さんの副編集長に『お宅の周玉玲は本当に変わっている。他の人はあらゆる手段を使って手に入れようとするのに、電話番号を渡しても受け取ろうとしない』と漏らしたという。周さんは淡々としており、『成り行きに任せればよい』と考えていた。『求めずしておのずと得る』といった境地に至り、その年、副教授(副編審)の職位に認定された」
職場では周さんは「誰もが認める善人」となり、上司は最も扱いにくい執筆者の対応を任せた。「周玉玲は誰とも決裂しない。どんなに扱いにくい相手でも、彼女との間に問題は起きない」と周囲が知っていたからだ。
同僚との付き合い方でも、修煉前はその時代の優秀な若手として、自尊心が高く誰も眼中にないといった態度で、同僚関係は緊張していた。法輪功修煉後は、人を見下す気持ちが消え、真面目に働き、他人が嫌がることを引き受け、他人が処理できない執筆者を担当し、利益の前で争わず、出張の好機を自ら他人に譲るようになり、同僚と和やかに付き合えるようになり、人間関係も自然に良くなった。
あの年月は周さんにとって最も憂いなく、最も幸せな時期だった。それが1999年、中共が法輪功の弾圧を開始し、虚偽や中傷の宣伝を真っ先に繰り広げるまで続いた。当時、中国国家図書館業務処の処長で、政治協商会議委員でもあった人物が、ひどく解せないといった様子で「周玉玲のようにこんなに良い人が、なぜよりによって法輪功をやるのか」と問いただした。
周さんは「法輪功をやらなければ、これほど良い人にはなれなかった」と答えた。
法輪功は宇宙の特性「真、善、忍」を原則とする仏家の修煉大法で、人の道徳水準を急速に高めることができ、病を治し健康を増進する効果にも優れている。中共の1998年の公式調査によれば、法輪功修煉者は7千万人から1億人に達していた。中共の前党首・江沢民は、法輪功修煉者の数が共産党員を上回ることを恐れ、嫉妬から、この修煉集団に対する残酷な弾圧を発動し、その迫害政策は現在まで続いている。

理性的で、平穏で、穏やかだった4・25陳情の現場
1999年4月11日、中国科学院院士の何祚庥氏は天津教育学院が創刊した『青少年科技博覧』誌上に、法輪功に関する事実に反する内容の文章を発表した。何氏は、前中央政治局常務委員・政法委書記で、江沢民時代の中枢高官だった羅幹氏と妻同士が姉妹の間柄だった」
4月11日から23日にかけて、一部の法輪功学習者が同誌の編集部に赴き、法輪功は人に善を勧め、「真・善・忍」に従って善人になることを教えるものだ、と状況を説明し、記事内容の訂正を求めた。
4月23日から24日にかけて、天津市は機動隊を出動させ、法輪功学習者45人を殴打・逮捕した。天津当局は当時、学習者に対し、鎮圧指令は北京から出されていると告げ、法輪功学習者は北京に行って状況を訴えるよう勧めた。これが直接、4月25日に1万人を超える法輪功学習者が中南海近くの国務院信訪弁公室で集団請願を行う事態へとつながった。
政府への信頼を抱いていた周さんは、4月25日朝5時過ぎ、ほかの法輪功学習者2人とともに府右街に到着した。そのときすでに多くの法輪功学習者が集まっていた。
「学習者はみな秩序正しく、全員が壁際に立ち、歩道を空けて交通を妨げないようにしていた。当時はまだバスも通っており、後に警察が交通を封鎖した」「私は中南海の西門の向かいにおり、皆は静かに待っていた。後に朱鎔基総理が出てきて、信訪弁公室の人間が学習者を中に案内して状況を聴取する段取りを整えた、と聞いた」
周さんの回想によれば、午後9時過ぎごろ、中に入っていた学習者代表が出てきて、問題は解決し、天津は拘束者を釈放したと告げ、皆に話さず速やかに離れるよう伝えたという。
「私は最初に離れた一群の学習者で、皆は次々と、極めて秩序正しく撤収し、周囲のごみも自発的に持ち帰った」
「家に帰るなりこんな邪悪な知らせを受け取った」。
六四天安門事件の虐殺と同じ手段で法輪功を弾圧することなど、当時の周さんには思いもよらなかった。
「こんなことが起きるはずがない。これほど良い功法を、誰が弾圧しようというのか」
1989年に北京で中共の六四(天安門事件)の虐殺を体験した周さんにとって、それは「あまりに信じがたい」ことだった。「そもそも法輪功学習者にはいかなる政治的要求もなく、スローガンもなく、横断幕もなく、ただ煉功する環境を求め、煉功によって病を治し健康を得、煉功によって善人になることを求めただけだ。誰が、政府が軍隊を出動させて善人の集団を鎮圧するなどと想像しただろうか」
「中共はまったくもって邪悪だ」と周さんは述べた。
「このような丸腰の人々に手を下そうとした。男も女も、老いも若きも。うちの煉功地点には80歳を超えたお年寄りも請願に行き、一日中立ち続けていた。警察を出動させることすら許されないはずなのに、総参作戦部まで動かすとは、あまりに常軌を逸し、あまりに邪悪だ」
「皆は静かにそこに立ち、法を暗唱し、法を読み、煉功し、あるいは静かに座って、ただ待っていた。政府が真相を理解したうえで答えを返すのを待っていた」
「最終的に、学習者の理性と平穏・穏やかさによって、中共が法輪功学習者を虐殺する計画は破綻し、結局は目的を達することができなかった。1万人を超える人々が整然と迅速に撤収したのは、法輪功学習者の自律の表れだ」と周さんは語った。
「学習者は誰もが私と同じで、事が解決したと知ればすぐに現場を離れるだろう、と思った。だから学習者が零時までに撤収し切れないとは心配しなかった」
中南海の西門は、府右街のほぼ中ほどに位置する。西門から西安門大街に向かうにはなお長い距離がある。
「離れるとき、道端に立つ学習者の脇を通り過ぎた。あれほど大勢の人がいて、夜だというのに、とても平穏で、とても穏やかだった。群衆から善の気配が立ちのぼり、心から感動し、泣きたくなるほどだった」と周さんは語った。「それは巨大な慈悲のエネルギーの場だった」
その光景は今も周さんの記憶に鮮明に残っているという。
「軍が学習者を銃撃するという電話を受け取ったときよりも、はるかに深く印象に残っている」
「一方は極端な悪であり、もう一方は巨大な善だった」
「善悪は明白だった」
27年を経て、現在は新唐人の上級編集者となっている周さんは、あの体験を改めて振り返り、深い感慨を覚えたという。
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