今週初め、ハーベスト・ホスト(農場宿泊サービス) の宿泊客の一人がレストランに入ってきて、土地の外れで牛が穴に落ちて動けなくなっていると教えてくれた。
その種の一言は、その場の空気を一変させる。夫が無線で私を呼び、数分もしないうちに、宿泊客、農場の作業員、弟、子どもたち、みんなが問題の場所へ向かった。一頭の牛が穴に落ちていた。どれくらいそこにいたのかは分からない。最後にその牛が立っている姿が確認されたのは午後1時頃で、私たちがそこに着いたのは午後6時だった。牛は何時間ももがき続けていたのだ。
ボブキャット(小型の土砂運搬車)とバックホー(掘削機)を投入して、ようやく彼女を救い出した。大きな切り株を動かし、瓦礫を取り除き、穴を広げた。その穴は、牛一頭が入り込めるとは思えないほど小さく見えた。だがそれは一種の錯覚であり、その場に立って、彼女がいた場所を見下ろして初めて理解できるような、遠近法のいたずらだった。
救出後、彼女を小川の跡まで運び、機材を使って固い地面の上へと引き上げた。牛舎に運び、落ち着かせると、自分たちにできる限りの手を尽くし始めた。抗炎症薬とステロイドを投与した。一日に一度体を持ち上げ、CBDオイルで足をマッサージし、赤色光療法を施し、ホメオパシーも試した。彼女は食事も水分も摂っていた。一時は、回復するのではないかという予感がした。 もし「起立不能(ダウン・カウ)」の牛を抱えた経験があるなら、その種の希望がいかに残酷なものかを知っているはずだ。
長い年月の間に、私は数え切れないほどの起立不能の牛を見てきた。認めるのは辛いが、真実はこうだ。私たちが何をしようと、どれほどの時間、機材、愛情を注ごうと、大半の牛は死ぬ。それでも私が試みるのをやめないのは、時として立ち上がる牛がいるからだ。その瞬間の喜びが、次の困難へと向かう力を与えてくれる。
三日後の深夜、友人が牛を連れて牧場に到着した。オクラホマから来たスモーク・リバー牧場のジョエル・ホリングスワースと、妻のエリン・マーティンが、日がとっくに暮れた頃に車を止めた。私と夫は彼らを出迎えるためにベッドから出た。私はクリスマスのパジャマにカウボーイハットを被り、ビーチサンダルを履いていた。夫は歩きながら、半分眠った状態でブーツを引っ掛けていた。 シュート(家畜を誘導する通路)を設置し、彼らの牛を中央の囲いへと移動させた。それが終わると、私はローザの様子を見に行った。
ローザは、私がカリフォルニアから連れてきた牛の一頭だ。2019年に、里子のオズマーと一緒に1千ドルで購入した。今では、妊娠した牛をそんな値段で買うことはできないだろう。今の私の中に息づく「かつての暮らし」は、彼女がいてくれることで形を保っていた。 たどり着いたとき、彼女は横倒しになり、痙攣しながら呼吸を荒くしていた。そうした瞬間、あらゆる事態は極めて速やかに、そして明白になる。夫は銃を取りに行った。エリンと私は同時に顔を背け、耳を塞いで後ろを向いた。私は祈りを捧げ、男性が持つ男らしさというもの、そして困難な役目を引き受けてくれる男性たちへの深い感謝を感じた。
振り返ると、夫とジョエルの二人が、命が体から抜けていく彼女に手を添えていた。それは急かされるようなものでもなく、無機質なものでもなかった。彼らはただ、彼女は一人ではないと伝えるかのように、最期に寄り添っていた。 その光景に、私は涙した。
畜産には簡単な答えなどない。どの決断にも重みがあり、どの道を選んでも疑問が残る。薬を使って介入する時も迷う。自然に死なせるのではなく安楽死させると決める時も迷う。自然に任せて見守るときでさえ迷う。明確な公式などない。ただ責任があるだけだ。
倒れた牛の真実は、多くの場合、もう二度と立ち上がらないということだ。それは努力が足りなかったからでも、知識が足りなかったからでもない。体のどこかで、もう戻れない境界を越えてしまっているからだ。つらいのは、その境界がどこなのか、越えてしまった後になって初めて分かることがあるということだ。
だから私たちは現場に向かい続ける。持ち上げ、治療し、待ち、希望を持つ。そして時には、いつ終わらせるかを決めるのが自分になる。
その決断は重い。そして重くあるべきだ。
私は、自分が引き金を引く人間ではないことを理解するようになり、それをありがたく思っている。それは自分にできないからではない。男と女がそれぞれ異なる重荷を背負うという秩序のようなものが、そこにはあるからだ。夫はその役割を背負っている。軽い気持ちでもなく、簡単でもないが、進んで引き受けている。彼はその瞬間を私とは違う形で抱えて生きている。私が彼の代わりに背負わないものを、彼もまた背負わないのと同じように。
これは、どちらが強いかという話ではない。誰が引き受けるかという話だ。
平等の名の下に男らしさを弱めたり、その鋭さを奪おうとする今の世の中で、私はますます、「目をそらさない男らしさ」に感謝するようになった。やらなければならないことがあるときに前に出て、死を前にしても目を背けない男らしさに。
私はこれからもすべての決断を問い続けるだろう。同時に、ローザが一人ではなかったこと、そして必要以上に苦しまなかったことも知っている。その瞬間、彼女には手を添える人がいて、必要なことをする覚悟のある人たちがいた。
私は今も、あがき続けている。

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