「赤い八月」56年前の夏、中国で何が起こったか?

2022/08/17
更新: 2022/08/17

日本の8月は、先祖の魂が家族のもとへ帰ってくるお盆がある。
また日本人にとって忘れがたい終戦記念日も重なるため、蝉しぐれのなか、心静かに平和を祈りながら、先人に感謝を捧げて残暑の時を過ごすのが通例であろう。

1966年「赤い八月」の狂気

しかし中国において、とくに北京など都市部の人々にとっての8月は、だいぶ異なる意味をもつ。

中国語に「紅八月(赤い8月)」という言葉がある。
これは今から56年前の1966年8月のことで、同年8月から9月にかけて、文化大革命の狂気にかられた学生たち、いわゆる「紅衛兵」が行った大規模かつ残虐な赤色テロを指す。

中国の映画監督、胡傑氏が2006年に制作したドキュメンタリー映画『我虽死去(私が死んでも)』が、その赤色テロの惨劇のすさまじさと、被害を受けた人々の心に刻まれた傷の深さを記録している。敏感な内容なので、この映画は中国国内では公開されていない。

映画は、その時に激しい暴行を受けた教師と、加害側にいた学生たち双方の証言をもとに進む。その映画がインターネット上で無料公開されていたので、いつまで見られるかは不明だが、ご紹介しておこう。
(動画は、こちらからご覧ください)
https://www.youtube.com/watch?v=Hu1YaM9NB0E

恩師を「棍棒で殴り殺す」

時代は文化大革命の初期である。毛沢東が「破四旧」つまり4種の古いもの(思想・文化・風俗・習慣)を破壊せよと命じた。

8月1日、北京師範大学付属女子中学(日本の高校に相当)の副校長であった卞仲耘(べん ちゅううん)氏が、同校の学生であるS(仮名)をリーダーとする紅衛兵に集団暴行を受け、惨殺された。卞氏は、文革で最初に殺害された教育関係者となった。

その方法は、Sみずから棍棒をふるって、卞氏の頭部および全身をめった打ちにするという、すさまじいものであった。映画では、卞氏の夫で映画撮影の時85歳で存命であった王晶尭氏の証言と、王氏が文革当時に撮影していた記録写真も多数映されている。その中には、卞仲耘氏の遺体の状況を写したものもある。

Sは、中華人民共和国の建国を指導した八大元老の一人で、革命の第一世代である宋任窮(1909~2005)の娘として生まれた。ところが宋任窮は、文革が始まった当初から「走資派」とレッテルを貼られた鄧小平との関係を追及され、失脚してしまう。

このときSは、おそらく失脚した自分の父親を「最も憎むべき反革命の徒」と見て、口を極めて罵り、唾棄したことだろう。そして同時に、「自分こそ、最も忠実な毛主席の部下である。そうならなければいけない」と決意したに違いない。

人間に「魔」が入る瞬間

これが17歳の女子学生に「魔」が入った瞬間であった。

1966年当時、Sは在籍していた北京師大女子中学で、急進的な紅衛兵らの「最高幹部」になっていた。言うまでもないが、この学校の紅衛兵は、みな軍服を身に着けた10代の女子学生である。平時であれば、教室で静かに授業を受け、勉学に励む心優しい学生であったはずだ。

しかし、今はそうではない。ひたすら毛沢東への忠誠を示すために、中国の制度的枠組みを破壊し、伝統的な儒教倫理を打倒すべく、赤いビニール表紙の『毛沢東語録』を掲げ「造反有理、革命無罪(造反には理が有り、革命に罪はない)」を叫びながら、恐るべき集団行動を開始した。
徒党を組んで進む彼女たちの手始めは、母校の教師を罵倒し、殴り殺すことであった。

後日、天安門広場に集まった100万人の紅衛兵を代表して、現場にあらわれた毛沢東の腕に赤い腕章を巻くという「最高の栄誉」にあずかったのが、このSであった。

Sはその後、文革中に行った自身の行為について謝罪している。
その彼女も、2022年の今は73歳の市民として、どこかに生きているはずだ。

心を閉ざして生きる人々

Sだけではない。当時の中国の若者はみな、8月の暑さではなく、伝統文化を破壊する「革命」の熱病に感染していた。彼らには、共産主義という外来の悪魔が憑依していたのである。

1966年の文化大革命、中国人の首に名前が書かれたプラカードをかける共産党幹部たち (パブリックドメイン)

革命の熱気に狂い、教師を殴り殺した学生たち。それに同調しなければ自身が攻撃されるので、やむなく暴行に加わった若者たち。人間の理性をすべて捨て、革命歌に合わせて毛沢東へ捧げる「忠字舞」を乱舞した青年たち。

貴重な古書を焼き、歴史遺産を壊すことが、取り返しのつかない文化破壊であり、国家にとって巨大な損失であることを、当時は知る由もなかったし、止めようもなかったのだ。

文革当時そうした「紅衛兵」であった彼らは今、普通の70代の老人となって、心のどこかを閉ざしたまま日々を生きている。

被害の全貌は「まだ不明」

その時代を生きた全ての中国人にとって、忌まわしい記憶でしかない文化大革命は、1966年から約10年続き、爆弾の破裂穴のような空虚な悲しみだけを残して終わった。そのうち、紅衛兵の暴力が猛威をふるったのは、文革開始から1968年ごろまでである。

1980年の公式統計によると、文革はじめの1カ月である「赤い八月」に、紅衛兵によって殺された教師は1772人とされている。しかしそれは、全貌を示す数字ではないだろう。

また、1985年の公式統計によると、「赤い八月」に殺害された人数は「1万人を超える」という学者の指摘もある。その数字が今後どこまで上昇するか分からないが、中国人にとっての「八月」は、そのような季節でもある。
 

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。
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