公平の罠――強制された平等にどう立ち向かうか

2025/02/04
更新: 2025/02/04

論評

機会の平等は、現代の政治思想において普遍的に支持される理念の一つのようだ。誰もが賛成し、誰も反対しない。しかし、もし誰もがこの理念を徹底的に追求すれば、最も極端な全体主義に行き着くことになるだろう。なぜなら、それを実現するためには、人間の生まれ持った才能や環境による違いを完全になくす必要があるからだ。極論すれば、単一の胚からクローンを作り、幼児を均一に育成する施設を設けるような社会になる。

米国の連邦機関における多様性、公平性、包括性(DEI)の各部門の廃止は、官僚的支配の縮小に向けた歓迎すべき一歩である。確かに、一定の官僚組織は必要不可欠であり、場合によっては評価に値するもののだ。しかし、それが官僚的野心の口実となり、社会への影響力を際限なく拡大させることがあってはならない。

そもそも、DEI運動とは何を意味するのか。まず第一に、この運動は長期間にわたり(多くの場合、人生の少なくとも 4分の1の時間)教育を受けながらも、特定の技能や専門知識を身につけていない人々に職を提供することにある。こうした人々は、強い政治的信念を持ちながらも、実務的な能力には欠けることが多い。こうした人々は、自らを知的エリートと考えながらも、社会で相応の地位を得られないと不満を募らせる。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」でカエサルが「キャシウスのような痩せて飢えた目をした男は危険だ」と語ったように、野心を持ちながら満たされない者は時に社会に対して破壊的になりうる。

しかし、DEIの問題はそれだけではない。DEIは一般市民に対する深い不信感に根ざしている。それは、法律上の障壁が撤廃されたとしても、人々が本質的に偏見に満ちた行動を取るものと想定している。米国のように、少なくとも 2 世代前にはそうだった。

DEIは、ある明白な事実を見落としている。それは、政府の介入がなくとも、比較的開かれた社会では特定の集団が自力で繁栄を遂げることができるということだ。そのような社会では、たとえ社会的偏見を受ける集団であっても成功を収めることができる。ただし、その成功が偏見を和らげる場合もあれば、逆に強める場合もあることは否定できない。人は必ずしも他人の成功を喜ぶわけではないからだ。

例えば、アメリカ(およびその他の西洋諸国)では、インド系、中国系、日本系、ユダヤ系の人々は、驚くほど短期間で社会の平均を上回った経済的、文化的な成功を収めた。確かに、彼らに対する偏見が存在したことは否定できない。むしろ、ある時期には非常に強い偏見が向けられたこともあった。公式な障壁が全て撤廃された後、彼らは自らの努力によって大きな成功を手に入れた。場合によっては、一定の偏見がかえって彼らの向上心を刺激し、成功への原動力となった可能性すらある。だからと言って、それが偏見を正当化する理由にはならない。いずれにせよ、彼らの成功は誰かが保証したものではなく、自らの努力によって勝ち取ったものだった。

しかし、政治家や官僚が社会で最も恐れ、嫌うものがあるとすれば、それは自発性である。なぜなら、人々が自ら動き、物事を成し遂げるようになれば、彼らの存在意義が失われてしまうからである。政治家や官僚には、強い統制欲があり、まるでレーニン主義のように「社会において良いことはすべて、自分たちの賢明な指導や計画なしには実現しない」と信じている。そして、自分たちの意図は少なくとも表向きには「善意」に基づくものだから、その介入は必ず良い結果をもたらすはずだと考えている。

また、DEIが前提とする「集団間の格差はすべて、社会が人々をどう扱うかによるものであり、その集団の価値観や行動の違いとは無関係である」とする考え方は、政治家や官僚にとって都合のいい話だ。この理論を用いることで、彼らは介入を正当化し、尽きることのない「是正」の仕事を生み出す。なぜなら、社会には常に何らかの違いが存在するからだ。

例えば、人々は身長や体型といった身体的特徴によってもグループ分けされることができる。もし「平等な結果」を追求し続けるなら、官僚たちの仕事は決して終わることがない。

この問題を風刺したのが、イギリスの小説家L.P.ハートリーである。彼の小説『Facial Justice(顔の正義)』(1960年)は、容姿の美醜による偏見を解消するため、政府が強制的に整形手術を施し、全員の顔を平均的な見た目に統一しようとする社会を描いている。当時、「人種的正義(racial justice)」という言葉は、ナチスを想起させるためほとんど使われなかったが、今日では「社会正義」の名のもとに同様の考え方が広まっている。

もちろん、政府が法的な障壁を取り除いた後も、偏見が完全になくなるわけではない。なぜなら、この世に完璧な社会など存在しないからだ。しかし、強制的な手段によって人々の考え方を変えようとする試みは、必ず失敗に終わるばかりか、社会に「怨恨の文化」を生み出すことになる。その結果、人々は自分たちに「何ができるか」ではなく、「社会がないを許さないのか」に意識を向けわせる。本来は社会的な立場を向上させるための取り組みのはずが、実際には逆効果になることが多い。

さらに、こうした状況には心理的な側面もある。

すなわち、自らの失敗は社会の不公平によるものだと考えることで、自分の失敗は自分の責任ではないと思えるようになる。それによって、自己責任を背負う必要がなくなり、精神的な負担は軽くなるかもしれない。しかし、それは本当の意味での自由ではない。なぜなら、自由とは自らの選択の結果を受け入れることであり、その責任から逃れることは、むしろ自己の主体性を失うことにつながるからだ。

DEIによる「理想社会」の追求は、決して実現しない幻想だ。果てしない追求は、社会に無力感をもたらし、破滅的な宿命論を生み出してしまう。もちろん、すべての宿命論が悪いわけではない。本来、人間は「人生は完璧にはならない」と受け入れることができれば、不完全さによる苦しみは和らぐ、または消える。しかし、不満を抱いたまま宿命論に囚われると、怒りや自己破壊的な感情に支配されてしまう。

従って、DEIの撤廃は短期的には反発を招くかもしれないが、長期的には社会全体の健全性を高めることになる。ただし、歴史の流れの中で同様の思想が再び台頭し、より強い影響を及ぼさないよう注意が必要だ。

 

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
引退した医師。ニューヨーク・シティ・ジャーナルの寄稿編集者であり、「Life at the Bottom」を含む 30 冊の本の著者でもある。最新作は「Embargo and Other Stories」。