大紀元時報
【東日本大震災特集】

原発で出会い、そして 元双葉町住民女性 震災後を語る

2021年03月15日 23時12分
福島第一原子力発電所の看板。2021年3月11日撮影(王文亮/大紀元)
福島第一原子力発電所の看板。2021年3月11日撮影(王文亮/大紀元)

大紀元取材班は3月11日、福島第一原子力発電所が位置する双葉町に取材で訪れた。夜の花火を待つ間、18歳まで双葉町に住んでいたという女性Sさんから話を聞いた。いつも大紀元のYOUTUBEライブ配信を見ているというSさん。取材で来ていることを話すと、双葉町についていろいろ教えてくれた。70年代の原発建設と街の発展、そして2011年3月の大震災による避難。町民だけが知る双葉町の移り変わりを聞いた。

―伝承館の周辺は震災前、どのような場所でしたか。

復興祈念公園のあたりは一面水田でした。小学生のころ、イナゴを捕りながら海辺まで往復することが遠足でした。

―もともと双葉町にお住まいだったのでしょうか。

いいえ、父親は原発の建設で双葉町にやってきて、母親と知り合い、結婚しました。当時、福島第一原子力発電所はまだ建設が始まったばかりでした。町の人口も増え、小学校、中学校ができました。今思えば当時は潤っていました。

―父親も原発の建設に携わっていたのですね。

そうです。原発の仕事でこちらに来て、母親と知り合って、家族ができた。だから父親にとって、今回のような出来事は複雑な気持ちでしょう。

Sさんから、カバンに入れて持ち歩いている線量計を見せてもらった。

Sさんから持ち歩いている線量計を見せていただいた(王文亮/大紀元)

―いつも持ち歩いているのですか。

こちらに来るときはいつも持っています。ここはまだ大丈夫ですが、国道6号線を大熊町のほうに向かっていくと、ところどころ数値が高いところがあります。今日はお墓参りで、子供も連れてきているので、やはり気になります。

―双葉町にお住まいだったとき、町の様子はどのようなものでしたか。

もともと大きな町ではなかったようです。原発の建設のために全国から人が集まってきました。役所の方や農業の方以外は基本的に原発関係の仕事をしていました。東京電力の関係者も多くいました。転勤する方が多く、転校生の出入りも多かったと記憶しています。学校の近くに東電の社宅があり、そこから通っている子供がたくさんいました。でも親の転勤で新しい転校生が入ってきたと思えば、転出してしまう子もいました。だいたい(勤務期間は)2~3年だったのかな。

―まるで企業城下町のようです。

今は除染作業員が全国から来ていますが、当時は原発のために全国から建設労働者が来ていました。双葉町で行事、例えばだるま市があると、東京電力からいろいろ頂きものがありました。公共施設は立派なものばかりでした。とにかく設備は整っていました。中学校も建物がすごく立派でした。

しかし、地震ですべてが変わってしまいました。原子力発電所の事故により、私の親族は避難せざるを得ませんでした。母親は避難でいわき市にしばらく住んでいましたが、(地震が)落ち着いても双葉には帰れないと分かって、自殺しました。

ですから、何と言いますか。原発事故が憎いのです。

父親はかつて原発で働いて家族の生活を支えてきました。原発があったからこそ父親と母親は出会うことができたのです。親族は近いうちに双葉町に戻る予定で、復興の手助けをするそうです。


双葉町によれば、原発事故の影響で、当時町に住んでいた7140人すべての住民が今も町外に避難している。そのうち1400人あまりは埼玉県加須市へと避難した。今も同市内に約400人が生活する。

双葉町の公式アカウントは3月11日、一人の避難者を津波から救った双葉海浜公園の施設「マリーンハウスふたば」の日の入りの写真を掲載し、「東日本大震災と原発事故からきょうで10年です」「もう、なのか。まだ、なのか。また新たな一日がはじまります」とコメントした。

東日本大震災と原発事故からきょうで10年です。 もう、なのか。まだ、なのか。 画像は津波に耐えたマリーンハウスふたばの朝焼けです。 また新たな一日がはじまります。

つなげよう つながろう ふたばのわさんの投稿 2021年3月10日水曜日

(聞き手・王文亮)

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